第18話 洛中洛外図

 菊は相変わらず、城の外へ一歩も出ることができない。

「出して差し上げたいのはやまやまですが、何分なにぶん、外は物騒ぶっそうなので。」

 お許しください、と紅は頭を下げるが、景虎にさらわれた負い目もあり、さすがの菊もそれ以上、強くはでられない。

 あんな側女に負けてはいられません、こちらも何かお家のために尽くしているところを見せなければ、と揚羽がハッパをかけるので、倹約運動の先頭にも立ってみた。

 城内の使用品で無駄と思われるものを点検する。これを機会に、紅に算盤そろばんの手ほどきも受けた。

 金が無いと紅が言ったのは嘘ではなかった。

 先代が亡くなった時、城の金蔵かねぐらにあった約三万両の金も、長引く戦でさすがに底をついてきたからだ。金が無いと戦が出来ない。のどから手が出る程、金が欲しいのは、兄・勝頼ばかりではなかったのだ。

 男性陣には『賢婦人けんぷじん』と誉めそやされた。何、女が何か一生いっしょう懸命けんめいやっているようだからとりあえず評価してあげましょう、くらいの感じ。当人たちは騎士道精神の一種のつもりらしい。

 発案者の揚羽は

「これこそ妹君の松さまには絶対出来ないことです!」

と鼻高々、でも女性陣には、

「何で?必要があって買っているものなのに!」

「だ、か、ら!男って何もわかっていないのよ!」

とさんざんな言われようで、運動自体、何だか尻つぼみに終わってしまった。

 菊は又、することが無くなってしまった。

 国主の妻として一番大切な仕事、すなわち世継よつぎを生むことも一向出来なかった。もっともこれは紅も御同様ごどうようで、いくぶん、なぐさめにはなったが。

 駿河に遠征している兄・勝頼から、幸せにしているか、と文をもらったこともある。

 心配してくれている兄の心が嬉しかった。反射的に、皆さま親切にしてくださって幸せです、と手紙を書いて送った。でもその後、本当に幸せなんだろうか、と自分の胸に問うてみて、不幸とはいえないから、たぶん幸せなんだろう、としか思えなかった。

 何をしているというわけでもないのに毎日気ぜわしくて、いつしか絵を描くことからも遠ざかっていた。たった一つのなぐさめは、誰も居ないのを見計みはからって大広間に行って、飾ってある屏風びょうぶながめることだった。

 織田信長が先代お屋形に贈ったという洛中洛外図屏風らくちゅうらくがいずびょうぶだ。

 時は戦国、こころざしある武将は皆、京を目指めざしていた。

 この時代、京の街並みを描いた風俗画ふうぞくがが流行したのは、彼らが京の絵を手元に置き、やがては街を手中にする日を夢見て楽しんだ為と言われている。だから京の街を描いた絵自体はありふれていて、大名と名の付く家の奥方や姫君は調度ちょうどとして必ずと言っていい程持っているものだったが、この屏風は当代とうだいきっての名手めいしゅ狩野永徳かのうえいとくの筆によるもので、生き生きした描写の素晴らしさは他のそれとは比べ物にならなかった。

 御所ごしょの庭で舞っているのは左義長さぎちょう公方邸くぼうてい管領かんれい細川邸ほそかわていの見事な屋敷と立派な庭、その周りを囲む豪邸ごうていが天空に伸び上がるようなとがった屋根を連ねて、都の繁栄を伝えている。

 北野、清水きよみず、名だたる寺社や名所ばかりではなく、下々しもじもの住まう町家、農家、公衆浴場から女郎じょろうが袖引く畠山はたけやまつじに至るまで、画家の筆には遠慮が無い。

 魚を獲る人、道を歩く人、屋根をく人、道端で子どもに小便をさせる母親、犬に追いかけられる琵琶びわ法師ほうしなどの老若男女、闘鶏とうけい蹴鞠けまり相撲すもう綱引つなひき・鷹狩たかがり、更に京の風物詩ふうぶつし、お火焚ひたき・菖蒲しょうぶ合戦がっせん懸想文けそうぶみ売り、中でも祇園祭ぎおんまつり、様々な風俗が余すところ無く描かれている。

 温良おんりょうにして細密さいみつ

 狩野派の伝統的な画法である。

 京にはほんとに金色の瑞雲ずいうんがたなびいているのだろう、と菊は夢想する。

 この絵を見ていると、

面白おもしろの花の都や、筆に書くとも及ばじ」

といううたいが、自然と口をついて出る。

 狩野永徳は『画工之長がこうのちょう』と称されていた狩野派の嫡男ちゃくなんとして生まれた。

 家柄もさることながら、彼自身の才も他に追従ついじゅうを許さないもので、大胆な構図と精妙せいみょう筆致ひっちで素晴らしい作品を次々と発表していた。

 又同時に、大勢の弟子たちを手足のように使って、大規模な仕事を次々受注し、完成させていった。

 工房経営の才にも優れていたのである。

 伝統的な大和絵やまとえが、朝廷や堂上どうじょう方の衰退すいたいに従ってすたれていくのに対し、漢画かんが、中でも狩野派は、新興しんこうの武家と結んで今、まさに日の出の勢いだった。

(私も京に行ってみたい!狩野の工房を一目見てみたい!)

 冬は雪に降り込められ、夏は蝉時雨せみしぐれ降り注ぐ越後の城中深く、菊は独り、人気ひとけの無い暗い大広間に座って、屏風をながめては時を忘れていた。



 九月になって城の中で刃傷沙汰にんじょうざたがあった。

 論功行賞ろんこうこうしょうのもつれから、毛利秀広が儒者じゅしゃ山崎秀仙を斬殺したのだ。この時、山崎とたまたま談じていた奉行の直江なおえ信綱のぶつなえを食って殺されてしまった。下手人げしゅにんはすぐその場で切り伏せられた。

 直江家は、先代景綱かげつなが謙信の下で、行政機構の中枢を担って、奉行として活躍した名家だ。

 しかし、婿むこ養子ようしとして入った信綱は、日頃鍛錬たんれんを積みごうの者と言われていたにも関わらず、不意をつかれて刀も抜けずに斬り殺されてしまったのは武士にあるまじきと不評を買った。しかもあとに残されたのはわずか八歳の男子、戦時中でもあり、このような場合、御家断絶おいえだんぜつまぬがれそうにもなかった。

 だがここで大逆転が起きた。

「名家の断絶、忍び難い」

という景勝のつる一声ひとこえで、養子が入ることになった。

 その養子とは、あの樋口与六兼続だった。

 さあ、大変だ。奥向きに勤める者たちは大騒ぎになった。

 殿の一番のお気に入りの独身の美男子を誰もがねらっていたのだ、それなのにとんび油揚あぶらあげをさらって行ってしまった!

「こんなこと申し上げるのは失礼ですけど、未亡人のおせんの方さまって、パッとしない方ですよ。お年だっていくつだったか、かなり上ですし、ほんと地味じみ垢抜あかぬけない、あんなお方と……。」

 悔しがる侍女たちが口々に言う。

 そういえば、何かの折、挨拶あいさつに来たことがあったっけ、と菊は曖昧あいまいなその印象を記憶にたどった。

 幾つだったっけ、確かに一見、老女のように見える女性だった。

 この時代の女性は老けるのが早い。それでなくても若くして子を産む、現在と違って出産が大変な時代だ、子供を生むと一段と老ける。

「あーあ、男って結局、出世が一番、ですよね。」

「そんなこと言うんじゃないの。ああいう方が妻として家庭をしっかり守っていかれるのよ。年上のしっかり女房で、上手うまりしていけるんじゃない?」

 たしなめながら菊は思う。

 兼続は本当に納得しているのか。

(あの男は紅を愛しているんじゃなかったのか)

 だとすれば、美しく華やかなあの女とは正反対の女房殿ではないか。

「なんと殺された与兵衛よひょうえじょう{信綱}殿のわす形見がたみ高野山こうやさんに追いやって出家させるとか。婿殿に肩身の狭い思いをさせないようにと、直江の方から申し出たとか。あんまりでございますよねえ。」

 大方の侍女たちは、見栄えのしない後家女ごけおんなが、自分の生んだ子を遠くに追いやって坊主にしてまで結婚すると目の敵にして大騒ぎしているらしかった。

 それにしても、今回の景勝のやり方の強引なこと。

 兼続の側ではいつも紅が仕事をしている。

 景勝は、お気に入りの美しい側女のかたわらに置く美男子がいつまでも独り身であることを、いったいどう思っていたのだろう。

 紅は兼続の気持ちに気付いているんだろうか、と菊は密かに観察していたが、こちらは何も頓着とんちゃくしてないようだった。

 実際、兼続は名家に婿に入ったことで飛躍的に身分が上がり、結果、城の表で二人が共に仕事をする機会は益々増えるようになった。

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