第105話 伏見城
(描けない。どうしても)
もう何日も、筆を取ることが出来なかった。
何を描いてよいのかさえ、全く頭に浮かばなかった。
菊は毎日、
そもそも、贈答用の屏風には細かな決まりがある。
明の皇帝への
画題は『四季花木』が
その他、屏風の
その中には、
「いやあ、どうも、恐れ入りましたね……。」
職人たちは
「明への贈り物を作るなんて、名誉なことだ、あっしら、何でもいたしやす。」
と言ってくれた。
当時の感覚では、屏風は
しかし店に来る職人は日に日に少なくなっていった。達丸が太閤に捕まっていることは、
(屏風は日本の外交の顔だ)
その顔を、南蛮画で描け、という。
(日本から贈られた絵なのに画法は南蛮風、いいえ、そんなの絶対ありえない)
明は日本を馬鹿にするだろう。
そんな絵が贈答用に選ばれるはずがない。
最初から
(贈答用の屏風は今まで、
日本人はずっと、中国の文化をお手本にしてきた。その日本における、中国系絵画の
何でも
(太閤は、最初からこの店を取り
この絵合戦は、菊に恥をかかせ、
秀吉は、菊や達丸を武田の
(知っているのだ)
菊は背筋が寒くなった。
(何もかもが
いつの間にか眠ってしまったようだった。
夜は目が
もう太陽は西に傾いて、光が
表のほうで、揚羽が
荒々しい足音が
「慶次郎……。」
「来るんだ。」
慶次郎は菊の腕を
菊を松風の背に乗せると、
今日は弥助も連れていない。
何処へ行くの、と菊が尋ねても答えない。
馬は町の中心ではなく、南へと向かう。
やがてそれは、夕日の中に姿を現した。
「
慶次郎が言った。
唐入りが始まった直後に秀吉の
「達丸は
「達丸は、達丸はひどい目にあっているのかしら?」
菊は夢中で尋ねた。
慶次郎は首を振った。
「人質に傷はつけない。でも、あくまで人質だ。この先どうなるかは、その人質の価値による。」
甲斐にはもう武田の味方はいない。
武田が滅んだ後の支配権を、徳川と北条が争い、
「味方なんて、あたしたちだけだわ。」
胃の
同じだ、武田が滅んだ、あのときと。
(もう駄目だ。何もかもお
遠くから鳥の声が聞こえてきた。その声はあっという間に大きくなっていく。
鳥の大群が見る見るうちに空を
昼間あちこちに散らばって
その鳴き声が、来たときと同じく、あっという間に過ぎ去っていくのを待って、押し黙っていた慶次郎が口を開いた。
「俺ならば出来る。」
何でもないことのように、さらりと言った。
「えっ?」
「達丸を助けだすことが出来る。」
「ほんと、ほんとに?」
菊は慶次郎の
「又、冗談を言っているんじゃないでしょうね?」
「
彼の目は、今まで見たことも無いほど
「姫君は全てを捨てなければならない。自分の身分、今まで築き上げた店の信用、人との
菊は
(そうだ、天下の太閤に逆らうのだ。その後に待っているものは)
「もうひとところに落ち着く暮らしは出来ない。太閤は全国を手にしたんだ。他人との接触は一切絶ち、何処か
慶次郎は言葉を切った。
「もし姫君がお望みならば、俺にはいつでも覚悟は出来ている。」
いつもの気まぐれでフザけてばかりいる彼とは別人のようだった。
これが彼の本当の姿なのだ、と思った。
何処へでもいい、愛する人と逃げていけたら、恐ろしい独裁者の手の届かないところへ。
でもそうしたら、残された人たちはどうなるんだろう?
店の人々は?
松の一座は?
彼らは、彼女が一番困っている時、
(あたしには、皆を見捨てることなんて出来やしない)
「慶次郎。」
やっと言った。
「あたし、もう迷わない。描くわ、屏風を。」
「そうか。」
慶次郎の目の中に、何かがちらと
「よし、そうと決まったら、
菊はふいに気づいた。
あたしは殺されるかもしれない。
そうしたら彼はどうなるんだろう?
「約束して。」
菊は言った。
「あたしにもし何かあったとしても、人生を投げないで。」
「姫君に何かなんて無い。」
慶次郎は
「俺が守る、姫君は心配しなくていい。」
「聞いて。」
強く言った。
「朝、ちゃんと起きて。ご飯、ちゃんと食べて。お酒、飲み過ぎないで。
「何かなんて無いから。」
彼女の腕を
「頼むから」
まるで
「そんなこと言わないで。」
「あたしは心配なの、あなたが。」
彼の手を腕から外すと、
「生きて。あたし無しでも。」
彼は彼女の手を振りほどくと、背を向けた。
怒っているのだろうか。
慶次郎は馬を飛ばした。
五条の店に着く頃には、空には星が
慶次郎は菊が馬を降りるのを手伝ってくれたが、何だか今日はいつもより乱暴なような気がした。彼女が降りた
後を追いかけて行きたかった、彼の腕の中に飛び込んで行きたかった、でも。
あたしにはやらなければならないことがある。
再び肩に、ずうんと何かがのしかかってきた。
菊はがっくりとうなだれて店の中に入っていった。
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