第106話 芸

 教会で描いていた絵は皆、お手本があった。

 この時代の絵は、南蛮なんばん大和やまと漢画かんがを問わず、元になる『型』がある。その型を、各人の創意そうい工夫くふうふくらませて描く。その解釈の仕方がすなわち、個々の絵師の個性となっていくのだ。

 南蛮寺が焼き払われる前に、工房にあった資料は全て、五条の店に引き上げてあったのが幸いして、菊はそのお手本を全て手元に持っている。

 お手本といっても形は様々だ。

 船で運ばれてきた聖画は、形も大きさもそのまま丸写しすれば又、祭壇さいだんに飾ることが出来る。でも大きな聖画は場所を取るので、そう沢山たくさんは船に積み込むことが出来ない。途中の寄港地きこうちで現地の教会関係者にあらかた抜き取られてしまうこともあって、菊の手元にも元々そう多くは無かった。

 菊にとって馴染なじみの手本は、ジョヴァンニが描いてくれるものと、もう一つは船で運ばれてくる書物にあった。

 ようやく西洋でも印刷技術が広まりだしたとはいえ、書物も聖画と同じく、いや、それ以上に貴重なものだった。寸法すんぽうは小さかったが、そこには最新の情報と共に、絵がっていた。題材は様々で、聖画はもちろん、風俗画ふうぞくが、情報としての戦争画、地図まであった。稚拙ちせつな技術で印刷されたそれは、紙の質が悪いこともあいまってゆがんだりにじんだりしていて、滅法めっぽう見づらいものだった。当然、白黒だ。それを拡大し、色づけして、祭壇画や屏風などの用途に合うように構成し直し、鑑賞に耐えうるものにするのは、手馴てなれた者でないと出来ないことだった。

 菊が手がけたのは聖画だけではなかった。

 教会が世俗の者、なかでも身分の高い侍、国主たちとの付き合いで、贈答品として特に喜ばれたものがある。それは風俗画、中でも地図と武人画だった。知的好奇心の強い日本人たちは、地図に世界の有様ありさまかい間見まみ、西洋の武人の装いを自らの戦場における装いの手本にした。

 菊は本のページをめくりながら考えている。

(太閤が喜びそうなもの、それはやはり風俗画だろう)

 この際、肝心かんじんの明の評価は、ちょっと脇に置いておくことにした。

無難ぶなんなところではやはり、地図か)

 日本と明を載せた地図、たぶん秀吉は満足するだろう。

 失敗は許されない。

一目ひとめで主題がわかるものが外国への贈り物の条件と聞く)

 案外、明国の皇帝だって気に入ってくれるかもしれない。

(相手の喜ぶものを描く)

 それが一番。



 所司代しょしだいから使いが来た。

 伏見城の完成をしゅくしてうたげが催される。ついてはそのほうらに踊りを命じる、というのだ。

 朝廷や貴族や金持ちの宴席に招かれることはある、もちろん豊臣の高官からも。

 でも今、この時期に、当の太閤からお呼びがかかるというのは

一族いちぞく郎党ろうとう一網いちもう打尽だじんに)

 そして。

 でも断ることは出来ない、天下人てんかびとの要請を、一介いっかい芸人げいにん風情ふぜいが。

「ありがたくお受けいたします。」

 使いの者に頭を下げながら松は、自分が案外あんがい平静であるのに気づいていた。

 いつかはこういう日がくるのはわかっていたような気がしていた、もうずっと前から。そう、惣蔵が芝居小屋に現れた、あの日から。

 覚悟は出来ていた。たぶん躑躅つつじさきの館の庭で、空をおおうほど大きな松の下で、小さく可愛らしいのに、強い意志に満ちた目を持つ少年に出会った、あの日から。

 太閤から呼び出されていることを皆に告げる前にまず、猿若を一人、呼んだ。

「私は今まで皆を当然のように使ってきた。」

 松は言った。

「皆、甲斐から来た者だったから。でもそなたは違う、姉上から借りた者だ。しかも、そもそも、姉上もそなたを上杉から借りたという。だから皆に確かめる前にまず、そなたに話をしようと思ったのだ。」

 猿若はかしこまった。

「そなたに暇を出そうと思う。」

 松は言った。

「今までよう務めてくれた。そなたがいなければ茶屋の芝居は成り立たなかった。心から礼を言う。でも一座もこれまでだ。」

 淋しく笑った。

「このたび太閤殿下からお招きに預かった。おそらく行けば生きては帰れまい。関係の無いそなたまで巻き込まれる必要は無い。芝居は無しで、私の踊りだけでを持たせよう。だからそなたは上杉に帰ってよいぞ。」

「お言葉を返すようですが、情けないことをおっしゃいます。」

 猿若は言った。

「今まで皆さまと共に過ごして参りました。このいぼれにもう、行くところはございませぬ。どうぞ最後までお供させてくださいまし。」

「良かった。」

 松はほっとして言った。

「ほんとは、居てくれなきゃ困るの。惣蔵も居ないし、あたし一人じゃどうしようもなかった。」

 無邪気に笑った。

 我儘ワガママな姫君だが、と猿若は思った。

 このひとがその芸に、どれだけ真摯しんしに向き合ってきたかは、能の心得こころえのある自分が一番よく知っている。そして一座の中で、彼女の力になってやれるのが自分しか居ないことも。

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