第64話 雨上がり

 翌朝、菊は気を取り直して、店に行った。

 ところが先客が居た。

 数人の武士が店の前に色代しきたいしている。店の中からは誰かが歩き回っている音がしている。皆、菊を認めると黙って一礼した。菊も挨拶を返した。

 どうしようか迷ったが、侍たちが動かないので、思い切って店に入った。

 誰かが、床に空いた大きな穴をのぞき込んでいる。

(うわ……サイアク)

 何だってまあ、こんなときに。

が悪い、と思っているだろう。」

 振り返って言う。

「そなたは本当にわかりやすいな。」

(『さとりの化け物』、みたい)

 他人の考えていることを先走って言う化け物の話を、幼い頃、聞いたことがあるが。

(この人って、妙にカンがいいのよね)

 何だかおかしくなって笑ってしまった。

 菊が笑っているのを見て、彼もほおゆるめた。家臣が居る前では、これが彼の、精一杯の譲歩、なんだろう。

「殿、お久しゅうございます。」

 菊がひざまずくと、景勝も言った。

「そちも息災そくさいで、何より。」

「殿も……。」

 胸が詰まった。

 この人も危ないところだった。

「御無事で。」

「うむ。お互い良かったな、と言いたいところだが」

 辺りを見回した。

「何だ、これは。どうしたんだ。」

「……。」

「菊。」

 仕方無い。

「Vamos a poner todas les cartas sobre la mesa.」

「何?」

「あちらの言葉で、手の内を見せるっていう意味です。」

 事情をかいつまんで話した。

「そうか。だったら言いやすい。」

 うなずいた。

 まず、武田の人々への悔やみを述べた後、

「本題に入ろう。」

「紅にも申しましたが……。」

「俺が直接来たのだ。手ぶらで帰す気か。」

「有難うございます。」

 頭を下げた。でも、きっぱり言った。

「離縁してください。」

「そなたも相当頑固がんこだな。」

 嘆息たんそくした。

「事情が変わりました。上杉と武田の盟約めいやくついえました。でも、遺臣いしんはおります。今では私が当主です。彼らは守ります。あなたさまも」

 自分でも強くなったな、と思った。昔はこの人に何も言えなかった。この人に対してだけではない、誰に対しても思ったことを言えるようになった。

「あんなに追い詰められても、決して白旗を揚げなかったではありませんか。頑固者はそちらも同じでしょう。」

 珍しく笑った。初めて見る笑顔だった。

「一本取られたな。わかった。好きにするがよい。でも離縁はしない。そなたの兄上と約束した、この縁をまっとうすると。上杉とつながりがあれば、他の者もそなたをそうそう粗略そりゃくには扱わんだろう。上杉の名はそなたの都合のよいとき、いつでも使うがよい。」

 この人はいい人だ、と思った。

 武田が滅んだりしなければずっと越後にいて、そのうちこの人の子供を生み、静かに暮らす人生もあったかもしれない。

 でも全て運命だ。

「ところで片づけを手伝おう。指図してくれ。」

 仰天ぎょうてんした。

「そんな、もったいない。お召し物が汚れます。」

「何を遠慮しておる、今更。」

 羽織はおりを脱ぎながら言った。

「言いたいことを言っておいて。」

 その日、その場にいた者は、自分の目を疑った。

 後年、大坂のえきにおいて、陣中じんちゅう見回りの際、その姿を恐れて兵が皆、姿を隠し、『敵より怖い』とうたわれた主君が、たすきがけした御方さまに言いつけられて、壊れた店の片付けをしている姿を目撃したからである。しかも口利くちきかぬ主君として知られた彼が、笑顔こそ見せないものの、彼女と丁々ちょうちょう発止はっしとやりあっていて、息もぴったりだった。

 御方さまは、越後にいらした頃は、目立つ側室の陰に隠れて、居るのか居ないのかわからないような、あんまりぱっとしない印象だった。今は、床に穴の開いた妙な家に住み、貧しい暮らしをしているけれど、実は明るくて気さくな働き者で、彼女の周りでは笑い声が絶えなかった。皆、彼女が大好きになった。

 この話は秘中ひちゅうとされた。

 というよりおそらく、実際目撃した者以外には、とうてい信じてもらえなかったからだと思われる。

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