第63話 夕立

 あんなに衝撃しょうげきを受けたのに、あんなに憎いと思ったのに、三日後、菊は前田家の門の前でうろうろして、ためらっていた。

 店の片付けに行こうともせず、小屋の隅っこで、松が踊りの稽古けいこをしているのを、ひざを抱えて呆然ぼうぜんながめている菊に、しびれを切らした松が言ったのだ。

「悩んでないで、直接話を聞いてみたら?あの人、言いたいことがありそうだったわよ。お互い、死んだと思ってたんでしょ?じゃあ、今まで会えなかったのは仕様しようがないじゃない。さあもう、出て行って。気が散って稽古けいこにならないわ。」

 店に戻っても、片付けが手に付かず、南蛮寺に行っても、描きかけの絵に高価な絵の具をぶちまけるといった有様ありさまで、ジョヴァンニに、

「どうしたんです、今日は?もういいから帰ってゆっくり休みなさい。」

あきれられた。

(だめだ、行って会ってくるしかない)

 道の角から様子をうかがっていても、慶次郎はなかなか通らない。

 門番たちもさすがに気づいて、こちらを見ながらひそひそと話をしているのを見て、菊は耳まで赤くなってしまった。

 夕方になって雲行きが怪しくなってきた。鼻の頭にぽつんと雨が落ちてきた。

 思い切って案内をうた。

越中えっちゅう阿尾あお城主で六千石をたまわっていらっしゃいます。でも今日は、確か大坂にお出かけで御不在かと……。」

「父上のこと?ねえ、父上を訪ねていらしたんでしょ?」

 門番をさえぎって、声をかけてきた少年がいる。

 年のころは達丸より少し上くらい、すらりと背の高い、利発りはつそうな少年だ。どこか慶次郎に似ていた。

 菊が答える間もなく、

「あ、母上だ!母上、父上に御来客です!」

 やって来た女にほがらかに声をかけた。

「何です、騒々しい。」

 出かけるところだったのか、侍女を従えた、菊より若い女だった。

 少年をたしなめた女は、奥に行っているように言いつけた。細面ほそおもてで色白で、艶々つやつやと長い黒髪の、白いきつねを思わせるなかなかの美人だが、目元にけんがある。

 それが元々のものか、それとも夫を訪ねてきた女を見てのものか、菊は判別しかねた。

 頭のてっぺんからつま先までじろじろと見回して、菊の茶色いくせっ毛と質素な身なりに、上に上げて応対するほどのものでもない、と踏んだらしかった。

「そち、新しい下女かえ?」

 ちょっとぞんざいな口調になったが、菊の化粧っ気の無い顔をしげしげ見て、下女にしては品がある、とでも思ったのか、

「なるほど。旦那さまも慣れぬ都でお疲れがまるであろう。無聊ぶりょうをおなぐさめする者も必要であろうの。」

 小馬鹿こばかにしたように高く笑った。

 もうたくさんだ。

 菊はきびすを返して逃げ出した。

 後ろから奥方の笑い声と、呆れて止めようとする門番の声が追いかけてきたが、もう立ち止まることは出来なかった。

 とうとう降ってきた。激しい雨にあたりはたちまち白く染まる。

 菊は夢中で走った。

(何で……何で逃げてるの?)

 少なくとも、雨に追われているわけではなかった。

(奥方がいたなんて……しかも息子まで)

 頭の中がぐるぐると渦巻うずまいて、わけがわからなかった。

 どうして、涙が止まらないんだろう。

 草履ぞうり鼻緒はなおが切れて、突然、ちゅうに投げ出された。地面に倒れて、子供のように声を上げて泣いている菊の上に、なおも激しく雨は降りそそいだ。

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