第62話 夜襲
この夏もひどい
寝苦しい夜が続き、ようやく皆がうとうとし始めた真夜中頃、馬のひづめの音やいななきに、菊は眠りを破られた。
戦火に追われる日々は遠くなっても尚、身体は恐怖を忘れていなかった。
飛び起きた揚羽と目くばせして、素早く身の回りの物を
突然、戸が激しく叩かれた。
「ど、どなたさまです?」
扉の近くにいた妙をんが尋ねると、
「
いらだった声が答える。
「
菊が
ところが飛び込んできた男たちはすぐ、後ろ手にぴしゃりと戸を閉めてしまった。全員、鬼の面をつけている。
「ふうん、どうやら曲者は、あなたたちのようね。」
菊が言った。
「えい、黙れ。」
男たちは、小さな家の中に予想外の大人数が寝起きしているのを知って、一瞬ぎょっとしたようだったが、中の一人が
「あっ!」
達丸だった。
揚羽が手元に囲い込もうとしたが、間に合わなかった。
「まあ、待て。」
別の声が言った。
「じっとしていれば危害は加えない。追っ手が去れば、ここを出て行く。しばらく
落ち着いた声のこの男が、どうやら
皆、口をつぐんで暗闇の中、じっと身を
外では大勢の人々が走り回り、時々馬が駆け抜けていく。
「火事だ、火事だあ!」
「
菊は首領が笑っているのに気がついた。
どうやら火をかけたのはこの男たちらしい。
(今、評判の武家屋敷ばかり
「川の音が聞こえる。」
首領が
「床下からか。虫の声もする。この下を川が流れているんだな。」
松は、はっと息を呑んだ。
似てる。
そっくりだ、でも。
彼は死んだはず、とっくの昔に。
彼のことばかり思い出しているから、あかの他人の声までそう聞こえる。
おい、と首領は手下たちに合図した。
住人たちを
次の瞬間、ばんっと戸を
面を被った男たちもすぐ、
達丸を盾にとった男が
首領が制しようとしたが、間に合わない。
しかし次の瞬間、男は奇妙にくぐもった声を上げて、のけぞった。
菊が素早く飛びついて達丸を抱きとめた。
裏口から飛び込んできた男の手にした槍が、生き物のようにするすると伸びて、賊の
首領はその槍の
槍の男も
勝負はなかなかつかない。
外にいた兵たちが呼び集められ、
首領はいきなり刀を捨てた。
男も刀を捨てた。
首領が相手に
「
取り残された男は悔しがって叫んだ。
「また会おう!」
後を追って穴に飛び込んだ兵たちがばしゃばしゃと水音をたてていたが、
どこに隠れていたのか、床下からひょいと首を
「追っ手の皆さま、何かにつまずかれたようで。奥で折り重なって倒れていらっしゃいます。なに、大した
と報告した。
「まだそう遠くへは行くまい。
「
「あっ!」
顔を見合わせて、菊と男は息を
「け、慶次郎……。」
「ひ、姫君……。」
どうして、こんな所に、と同時に叫んでしまった。
「死んだんじゃなかったの!」
と、これも同時だった。
菊の目は梅鉢の紋に吸い寄せられて、離れない。
(これは
秀吉の
「そう、そうだったの……。」
今こそ、全てがわかった、と思った。
彼が近づいてきたわけも、無事だったわけも。
「
あたしはまんまと一杯くったわけだ。
「姫君、これにはわけが……。」
菊の手を取ろうとかがんだ慶次郎の
菊はそのまま振り返らず、河原のほうへ歩いて行く。
店はめちゃくちゃだ。今夜は、松が河原に建てた
松が彼の
「頼む、姉上にとりなしてくれ!」
必死の
松は
そっと振り返ると、あかあかと燃える松明を背景にして、肩を落とした慶次郎の影がぼんやり見えた。
菊は皆を振り切って、一人でずんずん歩いて行った。
気が付くと鴨川の岸に立っていた。
川風に吹かれながら暗い岸辺を見回した。
緊張が解けて、菊はがっくりと
忘れたことなんてなかった、彼のことを。
自分の為に命を投げ出してくれた男を、どうして忘れることが出来ようか。
ただ、心の一番奥にしまっていただけ。
彼の全てを覚えていた、とりわけ、この
それなのに。
彼は彼女を、一番手ひどいやり方で裏切ったのだ。
(彼は間者だった。その彼を
彼女だった。
そして武田は滅びた。
愛しい人たちを死に追いやり、
それは信長でも秀吉でもなく、彼女だったのだ。
彼の頬を叩いた
涙も出なかった。
ただ、自分に
岸の灯が
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