第61話 燕

 久しぶりに土を踏んだ。

 初夏の風も。

 午後の日差ひざしも。

 頭上をかすめて飛ぶ、つばめも。

 港はいつもと変わらない。

 荷降ろしを監督した。

 最後の荷を積んだはしけ運河うんがさかのぼる。

 店の前の浮桟橋うきさんばしに舟が横付けされると、手にしたつえで、とんと舟底をいて、身軽に降りた。

 荷を蔵に入れるように言いつけてから、店に入る。

 おかえりなさいませ、と、一斉いっせいに声が掛かる。

 うなずいて、かまちに腰掛けた。

 下女げじょ足濯あしすすぎの水を持ってくる。

 足をすすいでもらって、帳場ちょうばに声を掛けた。

 そこでやっと、店の者たちの表情に気づいた。

 皆、曖昧あいまいな表情を浮かべて、いずれも台所の方を気にしている。

 はっとした。

 足音あらく、大股おおまたで店の奥に向かった。

 廊下ですれ違う者たちがすっと退く。

 台所へ入ると、そこは戦場だった。

 半年振りにこの店の主が異国から戻ってきた。

 今夜は夜通し宴会だ。

 もうもうと湯気ゆげが上がり、たきぎがぱちぱちぜている。とんとんと包丁ほうちょう俎板まないたを叩く音、いい匂いが漂っている。人々が互いに声を掛け合いながら忙しく立ち働いている。だが入ってきた人物に気づいて、皆、口をつぐみ、手を止めた。

 土間どまの隅に一斉いっせいに視線が注がれた。

 ユライを深く被った女がうつむいて里芋さといもの皮をいている。

 皆の視線を感じて顔を上げた。

 かまちに立ち尽くしている男と、目が合った。

「えへっ。」

 照れ隠しに笑った。

「ほんとは、お出迎えしなきゃならなかったんだけど、ちょっと、行きづらくって……。」

 男はつかつかと女に近づくと、その腕を引っ張ってかまちに引き上げた。

 女はあわてて包丁をまな板の上に置いた。

 そのまま、険しい表情で女をぐいぐい引っ張っていく。

 ユライが解けて、はらりと廊下に落ちた。

 艶やかな黒髪がぱさりと広がって、腰までおおった。

 周りの人々が、さあっと潮の引くように避ける。

「あ、あのっ、ちょっと……。」

 自分の部屋に女を引き入れた。

 突き転ばして、後ろ手にふすまを閉めた。

 自分も、がくっとひざを突くと、あわてて身を起こした女のひざにすがり付いて顔を埋めた。

 肩が細かく震えている。

 食いしばった歯の隙間すきまから、かすかに声がれている。

(泣いてる)

 手を肩に置いた。

 懐かしい髪をでた。

 相変わらずさらさらして指通りがいい。

「おかえりなさい、リコ。」

 耳元でささやいた。

 男の肩がぴくりとした。

「そうよ、あたし、帰ってきたのよ。」

 突っ伏した頭に、自分の顔をそっと載せた。

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