第109話 御旗・楯無
どのくらい眠ったのだろう。
気が付くと、
珍しい。
今まで工房に足を踏み入れたことなんて無かったのに。
「描けたのね。」
黙って
「あたしに絵の
松が言った。
「でも自分では、納得してんのね。」
又、頷いた。
「じゃ、よし。」
松も頷いた。
「ぎりぎり間に合ったわね。屏風を仕上げたら、身を清めて。
「出陣式?」
菊が驚くと、松は言った。
「自分が、うわごとで言ってたじゃない。これは
まさか、本当に出陣式をするとは思わなかった。
けれど松は、いたって
屏風の本体は出来上がっていて、彼女の絵を待つばかりになっている。
職人に渡した
妹は揚羽に手伝わせて、準備を済ませていた。
工房を
『御旗』と『楯無』は武田家
『御旗』は、
その家宝も今、どうなっているか、菊は知らない。
ここに並んでいるのは
『御旗』は、松が
皆、その前に黙って座っている。
屏風作りを手伝ってくれた職人たちに害が及ばぬよう、
その後ろには、達丸が心配だ、と言って離れたがらない平助が座っている。
驚いたのは
揚羽が
「お
菊が声をかけると、静かに目を開けた。
「わしも連れて行ってもらおうかと思っての。」
「連れてくって、お城に?」
菊は耳を疑った。
「お祖父さま、まさか、達丸を助けに?」
信虎は歯の
笑ったんだろうか。
「わしは城を見に行くんじゃ。もうこんな機会は無かろうて。」
真面目な顔をして言う。
「一度、
「姉上。」
松がかしこまって言う。
「遅くなるから。」
「では……お祖父さま。」
菊が座を譲ろうとすると、信虎はギロリと目を
「そちが当主じゃ、やれい。」
見られているという意識ですっかり固くなった菊は、ぎくしゃくと正面に立った。
視線が
「言っておきたいことがある。」
菊は胃がせり上がってくるのを感じながら言った。
「事情は知ってのとおりだ。都で雇った者には全て、暇を出した。そなたたちにも暇をやろうと思う。
頭を下げた。
松も一緒に頭を下げた。
皆も一斉に礼をした。
が、誰も立ち上がろうとしない。
傍らに揚羽と共に控えていた新兵衛が、発言を求めた。
「我らは既に話し合いました。」
一礼して言う。
「お供します。何処までも。」
「去るなら、甲斐を出るとき、とっくに去っています。」
妙をんも言う。
「我らは故郷を捨てました。もう、ここが故郷です。」
菊も松も、頭を上げることが出来なかった。
ただ、皆に感謝するばかりだった。
全員で
正式には総大将のみが、
「私は父上のような絶対的な当主ではない。私が今日あるのはそなたたちのお陰だ。皆で盃を交わして、結束を固めよう。」
と言ったのだ。
菊は正面に飾られた二つの家宝に向かって拝礼すると、言った。
「御旗、楯無、
又、一礼すると、皆に向き直った。
菊は盃を飲み干すと、出来るだけ低い声で、
「えい、えい」
「おう!」
家臣らが、大きな声で
菊は盃を地に打ちつけ、
続いて、酒を飲み干した家臣らが盃を打ちつけた。
解散した後、菊は、揚羽を
「そなたには、ここに残って欲しいの、新兵衛と一緒に。」
「姫君、何をおっしゃいます。」
揚羽ははっとした。
「
揚羽は去年、子を産んだ。
丸々太った元気な男の子で、菊が
言い
「もし、何かあったとき」
揚羽の顔を見て、
「何も無いけど。でも、誰か残って欲しいの。
菊は
「姫君、お待ちしていますから。必ず、帰ってきてくださいね。」
揚羽の手を取った。
「有難う。そなたが居てくれて、良かった。」
主従はしっかりと手を握り合った。
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