第89話 傾奇

 松の舞台が完成した。

 外囲いは、竹矢来たけやらいを組んでむしろめぐらせ、木戸口きどぐちの上にやぐらを組んで幔幕まんまくり、梵天ぼんてんを立て、太鼓たいこ刺股さすまた突棒つくぼう袖搦そでがらみつ道具を載せている。

 客は『このうちにおいて、かふき傾奇御座ござそうろうのそミ望み方々かたがた御見物なさるへくそうろう』と書かれた看板の横から、ねずみ木戸きどくぐって入ってくる。

 舞台の広さは方二間にけん{約四メートル四方しほう}で、後方に囃子はやしを置いている。

 屋根は切妻きりづま破風はふ板葺いたぶき、舞台裏から舞台に通ずる道である『橋掛はしがかり』{歌舞伎かぶきでは『花道はなみち』にあたる}の後ろにはかざまくを引き、舞台前面ぜんめん三方さんぽう水引みずひきまくを張り、正面には菊の描いた一本松いっぽんまつ鎮座ちんざしている。

 松は抜け目なかった。

 菊に頼んで、絵屋の名物の『みやこ名所めいしょ図会ずえ』の扇の図柄ずがらに、彼女の一座を取り上げてもらい{舞台そのものの図柄が一つと、もう一種は当代とうだい美人図としての彼女の似姿にすがた}、方々ほうぼうで売り歩かせる一方、工事中の舞台の前で、一座の者に音曲おんぎょくかなでさせ、

「天下一阿国一座、近日きんじつ到来とうらい。見なきゃ損!」

と宣伝させた。

 物見高ものみだかい都の者たちだ。

 ようやく戦乱がしずまってきたとはいえ、刹那せつな主義の気風きふうはなかなか治まらない。皆、昼間稼いだ金を、堅実に貯蓄に回す気など無い。

 今日は幸い生き延びられた、でも明日はどうなるかわからない。

 だったら今日、楽しまなくてどうする。

 老いも若きも男も女も、新しい娯楽に飢えている。

 そんなこんなで、初日の幕開けは、押すな押すなの大盛況だいせいきょうで、入りきれなかった者たちが、かきの外からむしろに指を突っ込んで穴を開けて見ようとするのを、制止しなければならないという騒ぎになっていた。もっとも、穴を開けても見えるのは、内にもぎっしりけている者たちの背中だけ、というものだったが。

 菊と慶次郎は、橋掛はしがかりの下に置かれた三本松の鉢のかたわらで見物していた。ここからだと、舞台も見所客席も見渡せる。

 色々とうるさく注文ばかりつけたくせに、松は菊に、練習さえ見せてくれなかった。

「見に来てもいいわよ。特別に、無料タダでね。」

 偉そうに言っただけだった。

 横笛を手にした脇座わきざと、小鼓こづつみ大鼓おおづつみ太鼓たいこを持った囃子座はやしざが席に着いた。

 笛のを合図に、いよいよ、舞台が幕を開けた。

 最初は『ややこ踊り』から始まった。

 最近は、成長した督姫と明姫が踊るようになっている。


   身は浮き草よ

   根を定めなの 

   君を待つ

   のやれ月のかたぶくに


 今では見物人も覚えてしまうくらいの流行はやりうたになっていて、そのうち観客全員で、手拍子てびょうしよろしく大合唱し始めるのを見るにつけ、この手のたぐいのことに関しては、妹の才能を認めざるをえない、と、菊も思う。

(あの性格だけは、どうにかして欲しいけど)

 二人の娘が喝采かっさいびて引っ込んだ後、舞台に静々しずしずと登場したのは、派手はで被衣かつぎを深くかぶった女だった。

 最初は、督姫か明姫のどちらかだろうと思ったが、どこかぎこちない足取りに、

(違う。誰だろう?)

 一座に他に、若い女など、いただろうか?

 女が柱の陰に座って、か細い声で歌いだすと、菊は、なぁんだ、と思った。

 三九郎なのだ。

 変声期へんせいきの少年特有の不安定な音程おんていで、それでも猿若に習ったとおり、一生いっしょう懸命けんめい、歌っている。


   糸をるのもよるといひ

   日の暮るるも夜といふ

   くるくる苦しくも何かせん

   来るより待つこそ久しけれ


 この歌はもとは『糸より』という延年えんねんで、糸をりつつ想う男を待つ、風情ふぜいある曲なのだが、三九郎が懸命に歌うのがかえっておかしかったらしく、方々ほうぼう失笑しっしょういた。

(がんばれ三九郎、負けるんじゃない!)

 このままでは舞台が、まりの無いものになってしまう。

 菊がこぶしを握り締めたとき、人々の視線が一斉いっせいに、橋掛はしがかりのほうへ向けられた。そこにはいつの間にか、粗末そまつな身なりの男が立っていた。脚絆きゃはんを付け、腰には小刀を差し、大きな瓢箪ひょうたん巾着きんちゃくげていた。床机しょうぎかついで、これも又、深く頬被ほおかぶりをしていたが、菊にはすぐ、誰だかわかった。

 猿若はのんびりしたおくに言葉ことばで観客に挨拶すると、早速さっそく、柱の陰に身を寄せている女に目を留め、近づいた。その身のこなしはあまりにも素早く、その名のとおり、まるで猿だった。人々はまたたきして目を開けた次の瞬間にはもう、猿若が女にぴったりくっついて口説くどいているので、わあっと喜んだ。

「昔から清所だいどころで能役者の真似事まねごとなんかして女中たちを喜ばせていたけれど」

 菊は慶次郎にささやいた。

「まさか、本当の役者になっちゃうなんて。」

「本物の能役者さ、もともと。」

 一番派手ハデなのは松が持っていってしまったから今日は地味なんだ、と言いながら、涼しそうな白麻地に藤の模様を七宝しっぽうつなぎにした小袖こそでに、浅緑のはかま姿で、十分派手な慶次郎が生真面目きまじめに応じた。

 いくら何でも、ろくを離れれば、お金だっていつかは無くなるだろうと思うが、仕官しかんの誘いは引きも切らないのに、気乗りがしないなどと断っている。もっとも本人は、戦で槍を振るっていても、街で着飾って格好カッコつけていても、信虎の屋敷でほおかぶりにしりはしょりして畑仕事をしていても、お金があろうが無かろうが、いつも悠々ゆうゆうとして楽しそうだ。最近は、近所の子供を集めて、読み書きを教えたりもしている。勉強しているより、一緒に遊んでいる時間のほうが長そうだけど、と菊は思っている。

 舞台の上で猿若は、滑稽こっけい身振みぶりで歌ったり踊ったりしている。それが又、上手うまいのだ。果ては、犬・猫・うぐいすから町々にれを出す役人の声音こわねまで物真似ものまねして、何とか女にうんと言わそうとするが、女はどうしても言うことを聞かない。

 観客は、あまりのおかしさに腹をかかえて転げ回っている。外では、中から聞こえる笑い声に、何事かと垣によじ登ろうとする者が続出した。垣根は人の重みに耐え切れず、ぐらぐらと大揺れに揺れて、今にも倒れそうだ。

 とうとうさじを投げた猿若が、橋掛かりの方に向かって、誰かを呼んだ。

 観客の目から舞台裏を隠していた揚幕あげまくと上がり、姿を現した人物を見て、菊はあっと思った。

 白地しろじきり石畳いしだたみ小袖こそで、紫糸と金糸で丹念たんねんに桐の葉が縫い取りされていて、これが慶次郎から借りたものだろう。

 ちらりと見える下着の紅絹もみの、目に痛いほど鮮やかな赤、これは新兵衛が揚羽にやったものを巻き上げたのだ、ああ、揚羽があんなに喜んでいたのに。

 ゆったりと締めた、金糸銀糸で華やかに縫い取りされた太い帯、これは菊の一張羅いっちょうら

 上には、やはり慶次郎の物であろう、うすぎぬ胴服どうぶくを身に着けている。

 顔は白い頭巾ずきんおおって、身のたけの半分はあろうかというおお太刀だちにゆったりと寄りかかって立っていた。

 太刀たちそうしゅうるしさや一面いちめんに描かれたきんひらまきうんりゅうに、人々は目を奪われた。

 でも菊の目がくぎけになっているのは、妹の首にかかっている、大きな大きなたまのロザリオだった。

「あーっ、松ったら何てことを!あれ、オルガンティーノさまが礼拝でお使いになっていたものよ!信者でもないくせに、何てバチたりなの!」

 菊の悲鳴は、人々の歓声にかき消されてしまった。

 本人にとってあれほど悩みの種だった大柄おおがらな身体が、かえって舞台えするのは皮肉なことだった。誰の目にも男としか見えず、そのくせ、しなやかな身のこなしや優しい声色は女そのもので、結果として、男とも女ともつかない妖艶ようえんな雰囲気をかもし出した。

 猿若に持ってこさせた床机しょうぎに腰をかけた阿国こと松は、猿若を通じ、女に声をかける。その作法は、傾城遊女町で遊び慣れた若衆わかしゅうらしい、洗練せんれんされたものだった。

 見ている者のほとんどは金が無い。傾城町など、足を踏み入れたことも無い。この世の極楽と、耳にすれども見たこともない世界への通行証を持っている者が今、目の前に下りてきているのだ。人々の目はもう、『阿国』に釘付けだった。 

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