第84話 撤退

 その日は珍しく、ジョヴァンニのほうから慶次郎に、教会へ来るよう、言ってきた。

 いつものように二人で、布を隠し持って土手に向かう。

 いい風が吹いている。

「どのくらいの高さから飛べるかな。」

 慶次郎が言う。

「もっと高いところから飛べると思いますが、風の具合にもよりますね。これ以上、おもりが重いと、傾き具合も又、変わってきてしまうでしょう。」

「今度やってみよう。」

「いえ。」

 きっぱりと言った。

「ここまでです。」

「又か。」

 慶次郎は駄々だだのように言う。

「楽しんじゃ駄目ダメ、とか言うのか。」

「いいえ。私はもう、いなくなるからです。」

 ジョヴァンニは言った。

シモの国{九州}へ戻れとの命令を受けました。有馬に建つセミナリヨで、画業を教えなければなりません。使節団が印刷の道具などを持って帰る予定です。私はその仕事にも関わらなくてはなりません。」

 楽しかった日々も終わる。

 別れなければならない。

 この町とも、この男とも。

 そして、たった一人のまな弟子でしとも。

 慶次郎はふうん、と言って、頭をいた。

「それって、撤退てったい命令ってやつか。」

 ぎくりとした。

めたんだろ。関白を怒らせた。」

「いえ、通常の人事じんじで……。」

「都には必要最小限の人員のみ置いて、それ以外は長崎の周辺に置く。非常事態が起きたとき、すぐ船に乗れるように。」

 相変わらず、人の話を聞かない男だ。

 そして、俺はおお雑把ざっぱだとか何とか言いながら……なんて鋭いんだろう。

 天正十五年三月、秀吉は八万の軍勢を率いて大垣城を出た。目指すは九州の島津である。わずか二ヵ月後、島津は秀吉の軍門ぐんもんくだり、ここに秀吉は、九州全土を制した。

 しかし秀吉は、それにらず、さらに海を渡って、みんまで征服する意思を明らかにした。はじめに朝鮮国王に上洛じょうらくを命じたが、国王はこれに応じなかった。

 宣教師たちにとって、九州は初めて日本に上陸した港があり、何よりも大勢の信徒のいる土地だった。その地に平和が訪れるのは願ってもないことだった。

 ことにこの年の春、教会が頼みとする二人のキリシタン大名が亡くなっていた。大村純忠、大友宗麟、特に宗麟は、宣教師たちに『豊後の王』と呼ばれる有力なうしだてであっただけに、その死は、教会にとって大きな痛手いたでだった。

 信長が押さえつけていた旧勢力である寺社が復活してきていた。既に有力な保護者であった信長を失い、今又、宗麟を失った教会としては、彼らに代わる後ろ盾を何としても見つけ出す必要に迫られており、相手は日本の半分を支配下に納めるに至った秀吉その人以外にはいなかった。

 オルガンティーノも、高山右近と共に九州に下向げこうしていた。イエズス会の日本における最高責任者であるガスパール・コエリョが、博多の秀吉の下に挨拶におもむいていたからである。通訳としてルイス・フロイスも同行していた。

 秀吉は信長にならって、教会を厚遇こうぐうしていた。大阪にオルガンティーノが赴いたときも、自ら城中を案内し、城に近い一等地に教会用の敷地しきちを与えてくれた。コエリョは秀吉の厚遇に感謝の意を伝えるために伺候しこうしたのだ。

「高山南坊{右近}が領地を返上へんじょうした。」

 慶次郎が言った。

利休りきゅう居士こじに、茶の湯の教えを受けている同門どうもんだ。知ってるんだろう、何があった。」

「きっかけは、コエリョ神父が、秀吉にらした一言でした。」

 観念かんねんして、ジョヴァンニは言った。

 九州に赴いた秀吉は、当地の様子に驚いた。

 南蛮との貿易を切望せつぼうする九州の大名たちの多くはキリシタンとなり、支配者が改宗するとその家来や住民たちは自動的に信者となっていた。長崎は教会領となり、港には弾薬・武器・大砲などが集結し、妻帯さいたいしたポルトガル人の居住が奨励しょうれいされていた。とはいっても、南蛮女の姿は無かったが。

 天正十二年の三月、佐賀の龍造寺軍と長崎の有馬・薩摩の島津連合軍が戦った『沖田おきたなわての戦い』において、イエズス会は、キリシタン大名の有馬晴信に鉄砲・弾薬や軍資金ぐんしきんを提供し、連合軍勝利のかげ立役者たてやくしゃとなった。

 イエズス会は恩賞おんしょうとして、島原半島の雲仙うんぜんを要求した。

 当時使用されていた黒色こくしょく火薬かやくは、木炭もくたん硫黄いおう硝石しょうせきを混合して作る。雲仙はその硫黄の産地だった。ポルトガル人は既に、中国内陸部やインドのベンガル地方に産する天然硝石を押さえている。硝石は日本には天然では産せず、作るのに手間てまひまかるわりにはわずかしか出来ないので、そのほとんどを輸入に頼っている。

 結局雲仙は、島津の猛反対でイエズス会の手には渡らなかった。

 この辺の経緯けいいも当然、秀吉の耳にも入っている。

 おまけに、支配者のご機嫌きげんりか、はたまた教会の力を誇示こじするつもりだったのか、コエリョは、教会が一筆いっぴつ書けば、すぐにスペイン王が軍勢ぐんぜい派遣はけんしてくる、きっと殿下でんかのおちからえになりましょう、と言ったという。

 それを又、とジョヴァンニは、

「フロイス殿がそのまま通訳してしまって。あの方は、ローマに送る通信も、日本の事情をありのまま、ことこまかににしようと書き送ってとがめられたことがあります。何事なにごとも正確をす性格があだになったというか。」

 更に、南蛮船を見物に来た秀吉が、船を欲しそうにしているのに、いくら右近とオルガンティーノが勧めても、コエリョは、

「いや、これは差し上げられません。」

 がんとして断った、という。

公方くぼうが治めていた時代も、都を追われて九州に逃げたことが何度もある、と上長うわやくが申しておりました。」

「あの頃、公方の力は畿内きないにも及ばなかった。」

 慶次郎は言った。

「時代が違う。面倒めんどうなことになったな。一端いったん、支配者の機嫌きげんを損ねてみろ、草木くさきいたるまでやしにされる。」

「まさか、そんなことが……。」

 慶次郎はジョヴァンニの顔色を見て、語調ごちょうやわらげた。

「まあ、しばらくは大人しくしていることだ。なに、石山本願寺だって、あれほど織田にたてついて、それでもまだ残っているんだからな。でもあんたたちはあんまり、背後はいごについている国のことは言わないほうがいい。いたずらに相手を刺激するだけだ。」

 ジョヴァンニは、こっくりとうなずいた。

「今日、あなたを呼んだのは」

 布を差し出した。

「これを持っていて欲しいのです。」

 慶次郎の顔を見て、あわてて言った。

「あげませんから。ただ、預かっていてもらうだけです。私は必ず」

 力を込めた。

「戻ってきます、又、ここに。」

「姫君は知ってんのか?」

 慶次郎は布をたたみながら言った。

「いえ、まだです。」

 歯切はぎれが悪くなった。

 慶次郎は、ジョヴァンニの肩にれしく手を回して、ささやいた。

「泣かれたからって、肩なんか抱くなよ。」

 くぎす。

「なっ、何言ってんですかっ、あっ、あなたにそんなこと言う資格なんて、無いんですからっ!」

「あんただって、姫君にホレてんだろう。でも、手が出せねえ。仲間だよなあ、お互い。」

「だっ、誰がっ!」

「まあまあ。」

 フフンと笑った。

「あんた、おもしろい人なのにな。もう終わりかよ。」

 この男なりに別れを惜しんでいるのだ、と気が付いた。

「まだ日本にいますから。印刷の仕事をするのは本当です。」

「まァた、聖書だの何だの、お説教だらけの本を大量に作ろうってのか。」

 あーあ、と伸びをした。

「俺はこんな性格だから、辛気しんきくさい話は苦手なんだ。でも、あんたたち南蛮人がどんなことを考えて、どんなふうに暮らしているか興味ある。そういうことがわかる本があればいいな。そしたらお互い、もうとはわかりあえるっていうもんじゃないか?」

「そうですね……考えておきます。」

 ジョヴァンニは言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る