第85話 満月
翌日、
菊が南蛮寺に駆けつけると、人々が右往左往して
菊は、この騒ぎが秀吉の九州征伐と何か関係があるとは思ってもいない。
彼女がこの戦で興味を持ったことといえば、秀吉の
金地の屏風に描かれた二頭の獅子は、今まで日本の屏風には描かれたことのないほど大きく恐ろしく、力強かった。その獅子を背に負った秀吉も又、今までにないほど威厳があるように見えたという。まるで芝居の
(でもまあ、天下の狩野が、あたしのイデア{考え}を盗むなんて)
もしそうだったらかえって名誉、なものよね、なんて
菊はジョヴァンニの姿を捜し求めた。
ジョヴァンニは工房で一人、画材を片付けていた。
「我々の力となってくださっていた明石のジュスト{高山右近}さまが、領地を取り上げられてしまいました。我々は二十日以内に国外への退去を命ぜられております。私も京を離れて、九州に下るよう言われています。」
「お
菊の涙を見て、思わず肩に手をかけた。
泣かれたからって、肩なんか抱くなよ。
慶次郎の言葉が頭を
抱き寄せた。
イエズス会に入会したときには、こんな世界の果てまで来ることになろうとは思ってもみなかった。
あの男がインドにいると知って、何もかも捨てた。
それでもインドまで行きさえすれば、あの男に会えると信じていた。それなのに彼がやっとインドにたどりついたとき、あの男は
ナポリ王国の名門の貴族の出で、故パウロ四世の
しかし極東の巡察師というのはインドばかりではなく、中国・日本など東南アジア各地の教会の運営を全て視察し、その国における
いくら追いかけても追いかけても追いつくことは出来ないことがわかったとき、ジョヴァンニはひとところに腰をすえて留まり、あの男が再び戻ってくる日を待つことにした。そしてその地として、あの男が
日本人たちに聖画の描き方や聖具の作り方、西欧の進んだ科学知識を熱心に教えたのは、イエズス会での自分の存在をアピールするためだった。ローマに日本人が描いた聖画を送ったのも全て、自分の有能さを本部に知らせ、結果、あの男の目を、ジョヴァンニ・ニッコロという若い修道士に向けさせるためだった。
日本人は有能だった。よく彼の手足となって働いてくれた。
とりわけこの菊という女は役に立った。日本の絵とは全く違う西欧の画法を習得し、たくさんの聖画を描いたばかりか、画学校では良き助手を務め、若者たちに一から画法を教え、一人前の絵師に育てあげた。
遠くで物を片付けている音を聞きながら、夕日が長く陰を落としている薄暗い工房で、女の柔らかな身体を受け止め、その髪の匂いを
日本の女は髪に妙な油をつけていて嫌な
すらりとした姿形に柔らかな金髪、整った顔立ち、とりわけ、北欧の血を引く父譲りの、
(そんな自分が、この異国の女にだけは心を許している)
彼女が初めて寺を訪れたとき落としていった絵を見て、その才能に驚いた。でも自分が彼女を弟子にしようと決心した理由は、絵だけではなかったかもしれないと
あの日、鴨川の土手で、風に乱れた髪をなびかせながら流れを見つめていた彼女の目に宿る絶望を、遠い
教会では、神父や修道士が女性と接することを厳しく禁じている。
それなのに、ローマの
(自分だけは、そのような誘惑とは無縁だと思っていたのに)
今まで誘惑に勝ってきたと思っていたのはただ、この女がいつも側にいてくれたからではなかったのか。
いつでも会えると思っていたからこそ気づかなかっただけだったのではないのか。
自分で自分を
「
この暗がりの中でいつまでも抱き合っていると、思いのたけをつい、ぶちまけてしまいそうだった。
「でも、私たちは今でもここに居るではありませんか。」
語尾が小さくなり、おのずと自信がない口調に聞こえるのは
(公方は無力だった。
菊もジョヴァンニも、そのことはよくわかっていた。
「お師匠さまをお
菊は涙の跡もそのままに、笑顔で言った。
又、抱きしめたくなる気持ちを抑えて、ジョヴァンニは言った。
「私は必ず、戻って参ります。」
「私も、いつお師匠さまがお戻りになってもよろしいように、ここにある道具を店に引き上げておきます。生徒たちや南蛮画を学びに来る絵師たちは、店で教えることにいたしましょう。」
戻ってくるならば全部持っていく必要は無いだろう。
ジョヴァンニは承諾した。
いや本当は、彼女と又会う機会を作りたかっただけかもしれない。
(もう帰ってしまうのか)
ふいに
日はとっくに沈み、東から大きな満月が上がってきていた。表のほうは
押し黙ってしまったジョヴァンニの気持ちを何か感じ取ったのか、菊が口を開いた。
「先日のお芝居、妹に見せたんですよ。」
「妹さんて、踊りの上手な方ですよね。」
何で妹の話なんだろう。
仕方なく話をあわせた。
ほんとは、あなたのことが聞きたいのに。
「面白かったみたいです。ジャンヌ・ダルクのことを南蛮の
「でも、妹さんは南蛮の踊りを見てみたかったでしょう。」
言ってしまってから、自分の言葉に突き動かされたように、ジョヴァンニは心を決めた。
「南蛮の踊りを教えてさしあげましょう。」
「え?でも……。」
菊が
「それは、ちょっと。お師匠さまにも……まずいのでは?」
確かに、歌は神さまに
でも、もういい、とジョヴァンニは思った。
前田慶次郎が引っ張り出してきた、自分の中の何ものかが、羽ばたき始めたのを、ジョヴァンニは感じていた。
「さあ、いらっしゃい。これが私の置き
ステップから教えると、案外、菊の飲み込みは早かった。すぐに簡単なステップを踏めるようになった。
ジョヴァンニが
「本当は踊りなんか得意じゃないんです、でも、妹にさんざん
月明かりの下、菊の
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