第83話 紋章
そそくさと帰っていく妹を見送る菊の背中に、声をかけた者がいる。
「あの、この幕は何を表しているのでしょうか?」
見物客があらかた帰っていって、舞台の片づけをしているのを、まだ残って見ていたのは初老の男と若い男の二人連れだった。話しかけてきたのは若者のほうだった。
「ああ、これは、王宮の場面で使ったものですね。」
大きな幕がするすると巻き取られていくのを見ながら、菊は答えた。その幕には一面を二分割して、片方には
「あちらでは
「変わっていますね。幕一面にあんなに大きな絵を描くとは。
「舞台装置ですから。遠くのほうから目立つように大きく描いてあるのです。広い場所でも、ぱっと視線を集めることが出来るでしょう?」
「あの絵もやはり、
「南蛮風の絵でも日本で描かれたものは大抵、こちらの用具を用いて描いております。材料が手に入り易いものですから。絵の描き方はもちろん、違いますが。あの、絵を描いておられる方々ですか?だったら、今は片づけで
「南蛮画の描き方を誰にでも教えているというのは、やはり本当だったんですね。」
若者は感心したように言った。
「か、いや、日本の絵師たちの技法は
「
年上の男が初めて口を開いた。何だか怒っているような口ぶりだ。若い男はぽっちゃりと色白で、のんびりした感じの、いかにも若旦那風だったが、こちらは風雨にさらされて骨ばった、色黒の、引き
親子なんだろうか、それにしてもあんまり似てないな、と菊は思った。
「
「出たな、妖怪。」
「え?」
「いえ、違います、何でもありません、
その質問には慣れている。
いや、菊自身も最初は驚いたのだ。
でもジョヴァンニは言った、
「
と。
「つまりですね。例えば、『Prospettiva{
「……。」
「私も初めはびっくりしました。そのような技法を、突然尋ねてきた見知らぬ人に、あっさり教えてしまっていいのかって。だって日本の絵は皆、平べったい絵なのに、南蛮の絵はまるで、そこから浮き上がって、今にも
「狩野に……。」
「私、戦火に追われて里から出てきて、狩野の門を
年配の男は黙って何かを考えているようだった。
沈黙を破ったのは若い男のほうだった。
「又、
菊は、ぱっと笑顔になった。
「ええ、いつでも、喜んで。」
二人が
「それにしても……何で、あたしがあの絵を描いた責任者だってわかったんだろう?」
「あれが五条の扇屋の
「ええ、
若者の言葉を
「恐ろしい女じゃ。」
「は?確かに、絵はなかなかのようですが、父上がそこまでおっしゃるほどの
「絵の腕前のことを言っておるのではない。あんなもの、わしにとっては目では無いわい。」
人々が、まるでだまし絵のような南蛮の絵に目を奪われるのは無理もない。が、男は自分の画力に、何者をも寄せ付けない自信を持っている。流れるような線を墨筆一本でためらいなくぐいぐい引いて、まるで生きているような草木や想像上の生き物を、今まで
「わからんか、
四郎次郎と呼ばれた若者は、おびえたように目を伏せた。
(
父は心の中で舌打ちした。
「技法はその家のものじゃ。その家の中で教えられ、伝えられていくものじゃ、それを否定してしまうと門派は成り立たなくなってしまう。それを、あの女は……。」
しかもこの息子は、又伺ってもよろしいですか、などと……。あの女から南蛮の技法を有り難くお教えいただくつもりだろうか。
(わしと違う方向へ行こうとする)
まるで、強い風に吹きつけられた高山の松が、地に
(父の松栄は穏やかで優美な画風だ)
かつては自分もそうだった、でも。
自分の代で狩野は
(もし、わしに万一のことがあったら……この子は、狩野は、どうなるのだろう?)
家代々の秘密の技法なんて、いつ、誰に、暴かれるか知れたもんじゃありませんよ。
女の言葉が、永徳の頭の中で
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