第56話 三味線

 その日、菊は帰りが少し遅くなった。

 先にやすんでいてくれるようにと言いおいて出てきたのもかかわらず、揚羽が起きて夜なべをしながら彼女の帰りを待っていてくれた。

 取り分けておいてくれたかゆを差し出す揚羽の手を見て、菊は胸がふさがる思いだった。その指は紙や竹で傷つき、ガサガサに荒れて血がにじんでいた。

 菊に仕えることを生涯の仕事としてきた忠実な召使。

 さっぱりした気性で、目下めしたの者に対しても親切で面倒見が良く、姉御肌あねごはだの揚羽は、役職名こそ『老女ろうじょ』とはいうものの、菊とはほんの一歳しか違わない。若侍の中には密かに付文ラブレターなどする者もいたと聞く。こんな状況になっても泣き言一つ言わず、菊を信じてついて来てくれた。菊が南蛮寺に通うようになって増えた雑用を新兵衛と二人手分けして、扇屋の仕事に支障が無いようにしてくれている。揚羽がいてくれているからこそ、この扇屋は成り立っているのだ。

(こんな苦労をしなくても、もっと楽に暮らす道もあったのに)

 教会からの帰り道、菊は四条大宮で人目を引く一行に出会った。

 いかにも金持ちそうな商人にからみついて笑いながら歩を進める女を見て、菊はあっと声を上げそうになった。

 それは、あの春日だった。

 春日は美しかった。

 流れ落ちる滝に扇面せんめんをあしらった小袖こそでは、武田の屋敷で着ていたものより数段、豪華だった。中でも供の者が持つ大きな箱は人目を引いた。

 たぶん、あれは三味線しゃみせんだろう。

 三味線は当時、明から渡ってきたばかりの最新流行の楽器だった。あれ一台買うお金で、都の真ん中に竜宮城りゅうぐうじょうもかくやと思われる屋敷を買えるだろう。松が見たら歯噛はがみして悔しがるに違いない。

(春日なんかより揚羽はずっと美しかった。気立きだての良い揚羽のほうがずっと人気があったのに)

 すっかりやつれて、ほつれ毛がかかっている揚羽の額に深いしわが出来ているのを見て、彼女は思わず言った。

「ごめんね、揚羽。苦労かけるわね。」

「何を今更」

 揚羽は頓着とんちゃくしない。

「無駄口を叩いていないで、粥が冷めます。」

 菊は尚も言いつのった。

「あたしが武田に戻るなんて言わなければ、きっと今頃……。」

 揚羽は居住いずまいを正して言った。

「きっと今頃、達丸さまもお松さまもお命は無かったでしょうよ。姫さま、過去のことを振り返っても詮無せんないことです。どうぞ御自分の思ったとおりになさってくださいまし。なるほど最初は、河原に着るものも食べる物も無く暮らす身の上でございました。でも今は、こうやって夜露よつゆをしのげる屋根の下に住み、少なくとも食べるものには困らない身の上ではございませんか。みな、姫さまが春日の誘いを退け、弥助に情けをかけた、その結果でございます。私は、いえ、私共は何処までも貴方あなたさまを信じてついて参ります。」

「揚羽……。」

 菊が涙ぐむのを見て、揚羽も目頭めがしらをぬぐったが、照れ隠しのようにぽんぽんと言った。

「さ、早く召し上がってくださいまし。ちっとも片付かないじゃないですか。」



 十一月半ば、秀吉は織田信雄、続いて徳川家康と和睦わぼくした。越中で前田利家と対立していた佐々ささ成政なりまさは、厳冬げんとうの北アルプスを越えて浜松の家康の元へ行き、戦争の継続を嘆願したが、その願いはかなわなかった。

 秀吉の天下は定まった。後はまつろわぬ地方の小豪族たちを成敗する番だった。

 年が明けた天正十三年の二月、ローマで遣欧けんおう使節しせつが教皇グレゴリウス十三世に謁見えっけんした。史上初めてヨーロッパを訪れた日本の使節は、何処でも大変な歓迎を受けたという。その知らせが届いたのは夏に入ってからだったが、教会は喜びにいた。

 この頃には菊もそれなりに聖画らしきものを描けるようになっていた。

 同時にスペイン語、ポルトガル語、イタリア語を片言かたことながら話し、ラテン語の書物も少しずつ読めるようになってきた。相変わらずキリスト教に帰依きえしないものの、セミナリオの子供たちにジョヴァンニの代理として絵の手ほどきをしたり、洋画の描き方を知りたいと言って訪ねてくる町絵師たちの応対も引き受けるようになった。他人に教えることは同時に、彼女の絵の上達にもつながった。

 ジョヴァンニは、彼の一番弟子の成長を喜んだ。

 彼女はいつも彼のかたわらに居た。彼は彼女を通して日本の文化に触れた。日本人の美の感じ方・考え方は西洋人の彼にとって理解しがたいものだったが、彼女はそれを言葉を尽くして解説してくれた。はじめ彼は彼女に西洋の文化を教えようとしたが、彼女から教わるものも又大きいのだ、ということを悟ったのだった。彼女は彼にとって、日本そのものであり、その存在はいつしか、無くてはならないものになっていった。

 七月、秀吉が関白となり、かばねを羽柴から藤原に改めた。百姓の子がくらい人臣じんしんきわめたのだ。八月には四国を制圧し、家康が和睦しても尚、唯一人、秀吉に対抗していた佐々成政も降伏した。

 北国から京への道が開けたことによって、菊は、いつかは現れるであろうと心の隅で覚悟していた使者を迎えた。

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