第57話 使者

 その日は朝から夏の日差しがじりじりと照りつけ、抜けるような青空が広がっていた。

 皆、仕事や用事で出払っていて、菊が一人、店に座っていると、笠をかぶった女がつと土間どまに入ってきた。

 女は深々と頭を下げると、

「お久しゅうございます、御前ごぜんさま。」

 笠を取ると、にっこり笑った。

「紅……。」

 紅がたった一人、供も連れずに身軽な格好で、いきなり現れたのには驚いた。

 土間にひざをついて挨拶あいさつを述べようとするので、あわてて部屋に上がらせた、とはいっても奥も無いような小さな家だ。

 紅は相変わらず美しかった。

 髪型は最新流行の根を高く結った根結ねゆい垂髪すいはつで、額に細いにしき鬘帯かづらおびをかけている。紫と白のしまの地に笠や団扇うちわるし模様、大きな仮名かな文字を散らした小袖はいきでありながらみやびで、道行く人が振り返ったに違いなかった。

 紅に問われるまま、菊は今までのことをかいつまんで話した。紅は菊の話に驚いたり、涙ぐんだり、身を乗り出して聞いていた。

「でも、あなたがここに居るのも不思議だわ。」

 菊が尋ねた。

「京には知り合いが多うございます。上方かみがたの情報を収集しながら堺の店に行くつもりです。」

 信長の死に、上杉を包囲していた織田軍は混乱状態に陥った。

 景勝は虎口ここうを脱した。

「よく耐えたわね。」

 菊は言った。

「武田は、あっという間に総崩れだった。織田が侵入したら、上杉はどうなっていたのかしら。」

「おそらく、私は今、ここにはいなかったと存じます。首は胴体から切り離されて、かもの河原に掛けられていたでしょうね。」

 ただ、

「右府は、甲斐府中まで来ておりました。」

 紅は言った。

 でもそこで、きびすを返して戻って行った。

(多分、上杉攻略には、もう少し時間がかかると見たのだ)

 景勝は、三方から織田軍に攻め込まれ、新発田にも攻撃され、青息吐息あおいきといきだった。それにも関わらず、越後まで侵入しなかった。

(甲斐と越後は、違う)

 甲斐の人々には『記憶』がある。

 武田は今川や北条と同盟を結んだ時期が長かった。外から嫁取りをして、その子が主になったりした。それに加えて、

「かつて、御前さまの父上は、先代を追って当主の座にお就きになりました。」

 その際、隣国の今川家に協力を頼み、信虎を甲斐に帰さないよう駿河に留めた。

 外部の力で、国の方向をより良いものにした。そういう経験がある。

 『期待』があった。

 今回もきっと、悪いことにはならない。

(だから外から来た勢力である織田を易々やすやすと受け入れてしまったのだ)

 かえって、越後は。

 謙信の父、為景の時代、侵入してきた関東かんとう管領かんれいを追い返し首を取ってしまった。謙信の時代は外の勢力と結ぶこと無く、武田とも北条とも毎年のように対立し戦を繰り広げた。一度だけ結んだ北条との蜜月みつげつも、あっという間に壊れてしまった。

「越後の人々にとって、外部の勢力は『敵』でした、いつでも。」

 御館の乱のときだって、と紅は言った。

 武田と北条が出てくるまでは景勝のほうが優勢だった。

 北条とはずっとずっと、戦をしてきたのだ。北条出身の当主を迎えたら、越後の人々は一体どうなる?

 乱の後の論功ろんこう行賞こうしょうではめたものの、結局、新発田以外の者が景勝に付くことを選んだのはやはり、

「外部に対する警戒が強かったからでございましょう。」

 歴史が違うから、気に病む必要はございません、と紅が言ったのは、菊をなぐさめてのことだろうか。

 信長が、上杉追撃の手をゆるめたのには、もう一つ理由があることを紅は知っている。でもそれに関して菊はおろか、愛する景勝にさえ言うつもりは無かった。

 それは『彼』と彼女の二人きりの秘密だったから。

 彼女が上方かみがた異変いへんを聞いて、彼女の運命に深く関わった男たちの為に涙を流したことも、彼らの為に心から冥福めいふくを祈ったことも、誰も知らない、彼女だけのごとだった。

(だって、もしあのとき、別の運命を選んでいたら、あたしは本能寺でたおれていたかもしれないのだから)

大膳だいぜん太夫だいぶ{武田勝頼}さまは長篠の戦で敗北なさった後、領土の拡大こそ無くなったものの、こまやかな統治を行い、軍団や職人・商人の支配も父上の時代より強化されました。武田は結局没落してしまいましたが、だからといって大膳太夫さまが劣っていたわけではないと思います。織田と直接戦った者は皆、滅亡しております。いち早く織田の支配下に入るか、戦って勝つか、二つに一つの道しかございませんでした。武田は勢力の大きさと出自しゅつじからいって、選ぶ道は決まっていたと思います。」

「紅。あなた……よく調べたわね。」

 菊は呆れて言った。

「同盟を結ぶ前」

 紅は微笑んだ。

「色々、調べさせていただきました。」

 当然だろう、といった口調で言った。

「その後のことですが」

 紅は、話を元に戻した。

 柴田勝家を倒した秀吉は、景勝とよしみを通ずることを望んだ。

 天正十二年六月、景勝は徳川に味方してほしいという佐々の頼みを拒絶した。以来、越中の佐々と対立していたが、この八月、富山に出陣した秀吉と越中の越水こしみずで密かに会ったというのだ。

「関白は供を一人連れただけの軽装で、ぶらりと我が陣に現れました。」

 さすが人たらしの名人と言われただけのことはあります、と紅は微笑ほほえんだ。

「身に寸鉄すんてつびず現れた者を殺すなど、上杉家に出来るはずがございません。こちらも、殿と与……いえ、直江なおえ山城守やましろのかみが応対いたしました。」

 秀吉は生真面目きめじめな若い景勝に、豪放ごうほう磊落らいらくに接したという。主が連れてきた二人の供も意気いき投合とうごうしたらしい、と紅は言った。

「あちらの連れは石田いしだ治部じぶ少輔しょうゆうという者です。元は寺小姓だったのが、気はしの利く利口者なので秀吉が大層気に入り、引き立てられて、日の出の勢いの出世をしております。」

 年もちょうど同い年でございます、と紅はまとめた。

 それでは兼続と出自しゅつじがよく似ているではないか、と菊は思った。

 小さな豪族たちが次々と平らげられ、一国の規模がどんどん大きくなってきている今、国を動かしていくのはもはやとお一遍いっぺん武功ぶこうのみではない、政治や経済を理解する知力なのだ、ということがわかる相手に、彼らは初めて出会ったのではないか。

 それにしても当時の秀吉は、織田軍団の中では頭角とうかくを現していたものの、対外的にはまだ無名の存在だった。実は、全国の名だたる大名の中で秀吉を認めたのは上杉が最初だった。名門の誇り高い上杉が何故、出自しゅつじも怪しげな無名の秀吉を選んだのか。

(関白は紅の、堺以来の仲間だと聞いたことがある)

 この女が、秀吉を選ぶことを景勝にすすめた。

いまだ新発田重家の乱は平定されておりません。しかし天下が関白の下に定まり、殿が関白と結んだ今、新発田に援軍のあてはありません。命運みょううんきたも同然でございます。来年あたりには殿も上洛を果たされることでしょう。」

 そう言うと紅はきちんと居住まいを正した。

「ここまで申し上げればおわかりでございましょう、私がここに来たわけを。御前さま、どうぞ越後にお戻りくださいませ。武田の遺臣いしんたちも共に我が家に迎え、しかるべき処遇しょぐうをさせていただきます。どうか安心してお戻りくださいませ。」

 菊は硬い表情で紅の話を聞いていた。

 菊が黙っているので、紅は尚も言いつのった。

「先ほども申しましたとおり、新発田の乱を平定していないので、殿御自身でお迎えにあがることがなかなか出来ないのです。でも殿は御前さまのことを、とても心配していらっしゃいます。」

「わかっている。」

 菊が重い口を開いた。

「ほんとは離縁してもらっても構わない。だって妻の役目を何一つ果たしていないんだもの。でもそんなこと、あの人がするわけない。家が滅び、汲々きゅうきゅうとして暮らしている私を見捨てることなんか出来やしない。だって上杉家の人だもの。そんな薄情はくじょうなことが出来るわけがない。」

「御前さま……。」

「あたしは」

 菊はゆっくりと考えながら話し始めた。

「武田に居るときも、上杉に嫁いでからも、何処どこに居ても、何故なぜだかわからないけど居心地いごこちが悪くて、何か違う、あたしがここに居るのは間違っているって、ずっと思い続けていた。でも、どうしてそう思うのか、じゃあ自分がどうしたらいいのか、わからなかった。ただ座ってそう思い続けているだけでは何も変わらなかった。今は……ずっと走り続けているような気がする。走っていないと生きていけないから、たぶん、走るのをやめるのは土をつかんで倒れるときだろうって思う。今自分がやっていることが正しいのか、自分に合ったことなのか、全くわからない。そんなこと、考える暇も無かった。今のあたしが唯一つわかることは……あたしが必要とし、あたしを必要としてくれる人たちがここに居るんだってこと。あたしがここで生きていくには、それで十分だっていうこと。あたしは戻れない。」

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