第57話 使者
その日は朝から夏の日差しがじりじりと照りつけ、抜けるような青空が広がっていた。
皆、仕事や用事で出払っていて、菊が一人、店に座っていると、笠を
女は深々と頭を下げると、
「お久しゅうございます、
笠を取ると、にっこり笑った。
「紅……。」
紅がたった一人、供も連れずに身軽な格好で、いきなり現れたのには驚いた。
土間に
紅は相変わらず美しかった。
髪型は最新流行の根を高く結った
紅に問われるまま、菊は今までのことをかいつまんで話した。紅は菊の話に驚いたり、涙ぐんだり、身を乗り出して聞いていた。
「でも、あなたがここに居るのも不思議だわ。」
菊が尋ねた。
「京には知り合いが多うございます。
信長の死に、上杉を包囲していた織田軍は混乱状態に陥った。
景勝は
「よく耐えたわね。」
菊は言った。
「武田は、あっという間に総崩れだった。織田が侵入したら、上杉はどうなっていたのかしら。」
「おそらく、私は今、ここにはいなかったと存じます。首は胴体から切り離されて、
ただ、
「右府は、甲斐府中まで来ておりました。」
紅は言った。
でもそこで、
(多分、上杉攻略には、もう少し時間がかかると見たのだ)
景勝は、三方から織田軍に攻め込まれ、新発田にも攻撃され、
(甲斐と越後は、違う)
甲斐の人々には『記憶』がある。
武田は今川や北条と同盟を結んだ時期が長かった。外から嫁取りをして、その子が主になったりした。それに加えて、
「かつて、御前さまの父上は、先代を追って当主の座にお就きになりました。」
その際、隣国の今川家に協力を頼み、信虎を甲斐に帰さないよう駿河に留めた。
外部の力で、国の方向をより良いものにした。そういう経験がある。
『期待』があった。
今回もきっと、悪いことにはならない。
(だから外から来た勢力である織田を
謙信の父、為景の時代、侵入してきた
「越後の人々にとって、外部の勢力は『敵』でした、いつでも。」
御館の乱のときだって、と紅は言った。
武田と北条が出てくるまでは景勝のほうが優勢だった。
北条とはずっとずっと、戦をしてきたのだ。北条出身の当主を迎えたら、越後の人々は一体どうなる?
乱の後の
「外部に対する警戒が強かったからでございましょう。」
歴史が違うから、気に病む必要はございません、と紅が言ったのは、菊を
信長が、上杉追撃の手を
それは『彼』と彼女の二人きりの秘密だったから。
彼女が
(だって、もしあのとき、別の運命を選んでいたら、あたしは本能寺で
「
「紅。あなた……よく調べたわね。」
菊は呆れて言った。
「同盟を結ぶ前」
紅は微笑んだ。
「色々、調べさせていただきました。」
当然だろう、といった口調で言った。
「その後のことですが」
紅は、話を元に戻した。
柴田勝家を倒した秀吉は、景勝とよしみを通ずることを望んだ。
天正十二年六月、景勝は徳川に味方してほしいという佐々の頼みを拒絶した。以来、越中の佐々と対立していたが、この八月、富山に出陣した秀吉と越中の
「関白は供を一人連れただけの軽装で、ぶらりと我が陣に現れました。」
さすが人たらしの名人と言われただけのことはあります、と紅は
「身に
秀吉は
「あちらの連れは
年もちょうど同い年でございます、と紅は
それでは兼続と
小さな豪族たちが次々と平らげられ、一国の規模がどんどん大きくなってきている今、国を動かしていくのはもはや
それにしても当時の秀吉は、織田軍団の中では
(関白は紅の、堺以来の仲間だと聞いたことがある)
この女が、秀吉を選ぶことを景勝に
「
そう言うと紅はきちんと居住まいを正した。
「ここまで申し上げればおわかりでございましょう、私がここに来たわけを。御前さま、どうぞ越後にお戻りくださいませ。武田の
菊は硬い表情で紅の話を聞いていた。
菊が黙っているので、紅は尚も言いつのった。
「先ほども申しましたとおり、新発田の乱を平定していないので、殿御自身でお迎えにあがることがなかなか出来ないのです。でも殿は御前さまのことを、とても心配していらっしゃいます。」
「わかっている。」
菊が重い口を開いた。
「ほんとは離縁してもらっても構わない。だって妻の役目を何一つ果たしていないんだもの。でもそんなこと、あの人がするわけない。家が滅び、
「御前さま……。」
「あたしは」
菊はゆっくりと考えながら話し始めた。
「武田に居るときも、上杉に嫁いでからも、
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