第24話 落城

 翌日の夜、早馬はやうまが悲報をもたらした。

 高遠城が落ちた。

 人々は耳を疑った。

 高遠城は伊那の牙城がじょう、要害の地にあり、菊と松の同母兄で勝頼に誰より忠実な仁科五郎盛信が守っていて、武器・兵糧・弾薬に不足なく、ひと月は持ちこたえるであろうというのが、おおかたの意見だった。しかし城はわずか半日で落ちた。城主盛信以下将士、その妻子に至るまで、ことごとく果てた。織田の攻撃によって、ではなかった。城中から裏切り者が出たのである。

 高遠城を落とされた今、織田軍を止めるものはもう何も無い。新府城の防衛は高遠城あってのことだ。

 事ここに至って勝頼は、城を退去することを決意した。

 どこへ落ちるかという話になった。二つの案が出た。

 一つは西上野の真田さなだ昌幸まさゆきが守る岩櫃城いわびつじょうへ。

 もう一つは郡内ぐんない小山田おやまだ信茂のぶしげ岩殿山城いわとのさんじょうへ。

 いったんは真田の岩櫃城へ行くことが決まった。真田が、では仕度したくを致します、と一足先ひとあしさきに城を出て行った後、小山田が、真田は信玄公以来仕えている、いわば新参者しんざんものでございます、勢力もたいしたことはない、それより我が城へおいで下され、と言う。東の郡内を治める小山田は、南の河内を治める穴山と並ぶ甲斐きっての譜代ふだいの名門だ。子飼こがいだった真田とはかくが違う。しかも山を越えれば北条の領地だ。夫人を北条に落としてやることが出来るかもしれない、いや、ひょっとして交渉次第では武田に手を貸してくれることも……。

 勝頼は小山田を選んだ。岩殿山城に行くことになった。小山田も準備をする、と言い、人質の老母を残して一足先に城を出た。難所である笹子峠ささごとうげの手前の勝沼かつぬまに迎えを寄越すと言い残していった。

 三月三日の明け方、勝頼一行は城を出た。

 千人以上が居た城も、一夜のうちに家臣が続々と逃亡し、今では半分以下の人数になっている。しかもそのうち四分の一は行くあてのない女子供だ。

 キナくさいニオイが漂ってきた。イガイガがのどを刺す。城に火をかけたのだ。

 でも菊は、その中に又、別のにおいを感じて顔をしかめた。髪の毛を焼いたような嫌な臭い。

「これは何の臭い?」

 耐え切れなくなって尋ねた。皆、気付いているはずなのに黙っている。

 臭いの元の馬場ばばあたりに人だかりがしている。

 菊が身をよじって見ようとすると、松が止めた。

「見ないほうがいいわ。」

 輿担こしかつぎが逃げたので、女性たちも皆、馬に乗っている。

「証人を焼く……火です。」

 小夜姫が顔をおおった。

 裏切った者たちから取った人質は足手まといになる。処分してから落ちていくのだ。

(まさか裏切るなんて思ってなかったから)

 親戚だし、何か行事があると必ず呼んで、子供の頃から親しくしていた。年の近い従兄弟いとこたちは、一緒に遊んで、一緒に育った仲だった、それなのに。

 いつになく無口な慶次郎のうつむいた顔が蒼白そうはくになっているのを、菊の馬の口を取る猿若がじっと見ていた。

 晴天が続いていたので、城は乾いた松明たいまつとなって燃え上がった。

 炎は盛んに天をがした。黒煙は空を覆い、細かな灰は、黙々と急ぐ人々の頭や肩に降りかかった。薄暗くなった空に赤々と伸び縮みする影は、迫り来る天魔てんまと呼ばれる男の爪のように見えて、人々の不安をかきたてた。火勢は夜になっても衰えず、四方に昨日までの覇王はおうの家の没落を告げた。

 行列は先を急いだ。足弱あしよわの者は取り残された。道筋には百姓町人どもが人垣を作って集まり、昨日までの国主が落ち延びていくのを見物した。列の後ろからは、何かおこぼれに預かろうと、無頼ぶらいの者たちや浪人どもがおくおおかみよろしく付いて来た。行列から逃亡していく者もあとを絶たなかった。血気けっきさかんな若侍たちが追い掛け回して斬ったりしていたが、もう止めようにも止められるものではなかった。

 行列に加わろうとはせ参じた者たちもいた。いずれも父・信玄の股肱ここうの臣の高坂こうさか弾正だんじょう馬場ばば美濃守みののかみ山県やまがた昌景まさかげらの息子たちだった。

 兵が足りなくて困っていた一方で、勝頼は、彼らが供を願い出ても決して許さなかった。もう誰も信じられなくなっていた。油断させて裏切るかもしれないと危惧きぐしたのだ。主家の一大事だからと、遠い任地から危ない思いをして駆けつけたのに、何ということだろう。皆、むなしく去っていった。

 善光寺前でいとまいに来たよぼよぼの元足軽大将の小幡おばた豊後守ぶんごのかみ昌盛まさもりだけが、心からの挨拶をしてもらった。『甲陽こうよう軍鑑ぐんかん』で名高い小幡勘兵衛かんべえ景憲かげのりは彼の息子にあたる。

 甲府、善光寺と過ぎ、一行は柏尾かしお大善寺だいぜんじに入って夜を過ごすことになった。

 この寺は、養老二年、行基ぎょうきの創設した甲斐でも指折りの名刹めいさつで、武田氏の祈願所にもなっている。出迎えてくれたのは住職の理慶尼りけいにだった。尼は信玄の従妹いとこだが親兄弟が反乱を企てて誅殺ちゅうさつされてしまったため、夫と離縁してこの寺に入っている。尼はささやかながら心づくしの料理を出して一行をもてなしてくれた。その後、勝頼夫妻と嫡男の信勝は会堂かいどう薬師堂やくしどう}にこもって祈願きがんすることになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る