第16話 逆賊

 宇佐美うさみくれないは港町・柏崎かしわざきの近くにある琵琶島城びわじまじょうに生まれた。

 祖父の宇佐美うさみ駿河守するがのかみ定行さだゆきは謙信の軍師ぐんしだった。

 後に頼山陽らいさんようが『師父しふ』という言葉で表しているように、この戦の天才に軍略を教えた恩師であり、父にうとまれ、兄にその才を憎まれて、家族の愛情に恵まれなかった孤独な少年をいつくしみ育てた父代わりの人でもあった。紅が生まれた頃には老いて、もう戦の第一線からは退いていた。

 定行の嫡男ちゃくなんで紅の父である民部みんぶ少輔しょうゆう実定さねさだは若くして亡くなり、その妻も後を追うように亡くなった。定行の他の子供も若死わかじにしてしまったので、祖父と孤児になった紅はひっそりと肩寄せ合って暮らしていた。

 ふとしたきっかけで紅と知り合った景勝は、ちょうどその頃、城に奉公に上がった兼続を連れて足繁あししげく宇佐美の元に通った。学問が身分のかせから身を解き放つきっかけになることを兼続に教えてくれたのも定行だったし、謙信に初めて目通めどおりした時に、そなたの名は聞いていた、と言われて、それ以来、目を掛けてくれたのも、定行が謙信の耳に入れておいてくれたお陰のような気がする。

 紅は元気な娘だった。かけっこ、木登り、水練すいれん、何をするにも男の子たちにひけをとらず、それでいて、年下で遅れがちな兼続を、「与六、与六」と手を引いてくれる優しさを持ち合わせていた。

「昔は、今のようではありませんでした。もっと、こう、何かこの世の者ではないような……。すっかり変わっておしまいになりました。」

 兼続は何か言いかけてやめたが、菊の耳には『ほたるせい』と聞こえた。

 だが、牧歌的ぼっかてきな日々は長くは続かなかった。

 永禄七年の夏、大事件が起こった。

 景勝の父・長尾ながお政景まさかげと宇佐美定行が野尻湖のじりこで舟遊びの最中、舟が沈んで溺死できししてしまったのだ。

 この事件については、当時から様々な奇怪きかいうわさが乱れ飛んだ。

 上田うえだ長尾家ながおけは越後第二の勢力だ。政景は謙信の父・為景ためかげの弟の子であり、謙信の姉を妻に迎えている。血筋としても全く遜色そんしょく無い。政景は謙信に取って代わろうとして誅殺ちゅうさつされたのではないか、というのだ。

 だが、謙信はこれを私闘しとうとして処理した。

 子の無い自分の養子として景勝を春日山に迎え、宇佐美家に対しては過酷かこく措置そちこうじた。家は断絶だんぜつ、一族は越後を追放されたのだ。

「それから十余年の間、あの方の行方はようとして知れませんでした。」

 時を経て再び兼続の前に姿を現した彼女は、堺で羽振はぶりの良い新興商人となっていた。

「公家の養女というのも、武将の娘というのも、国の御用商人というのも、全部本当のことです。私にもくわしいことは話して下さいませんが、様々な所を転々としてきたのは事実のようです。あの方が、武芸にも商売にも故事祭礼こじさいれいにも通じていらっしゃるのは、それが生きていく為にどうしても必要だったからです。でも、あの方にとって、故郷は越後なのです。長い放浪の末、やっと戻ってくることの出来た故郷なのです。」

 ふと彼は遠い目をして、言葉を無くしたように見えた。

 その時菊は、この若者は紅を愛しているのだ、と思った。

 理由は無い。直感だった。

(意外)

 景勝の腹心ふくしんとして急速にその名を知られつつあるこの若者、確かに侍女たちには絶大なる人気を誇っているが反面、譜代ふだい宿老しゅくろうたちにはいささか煙たがられている。切れすぎる程切れる頭、りんとした美しい顔立ち、景勝の絶対の信頼を背にして、自分より身分が上の人々にも自信たっぷり、決め付けるような容赦ようしゃ物言ものいいをするので、たとえ本人にその気が無くても傲岸ごうがん不遜ふそんに見えて、

生意気なまいき若造わかぞう……」

がりのくせに、殿の寵愛ちょうあいを笠に着おって……」

と考えて人々が居るのも不思議ではない。

 その、かっこいいけど『可愛げの無い』若者が、あの妖しげな側女そばめに、まるで少年の純情、殆ど憧憬どうけいと言ってもいいような感情を抱いているとは。

 あの女への思慕しぼの念が、この才子さいし急所きゅうしょなのかもしれない。

「ふうん。じゃ、殿はずっと紅のことがお好きだったんだ。二十四歳にもなるまで結婚しなかったのはそのせいね。」

「いいえ。殿は先代のお屋形さまのお側にいつもはべっていらっしゃいました。戦にお忙しくてとても結婚などという雰囲気ではありませんでしたから。」

(何言ってるの。義兄弟の三郎景虎は、とっくの昔に殿の姉上と結婚して、何人も子供がいるじゃないの)

と菊は思い、兼続は

(全部は話せない、とても)

と思うのだった。

 だって、誰が言えよう?

 夫の寵姫ちょうきのことを気に掛けている正室せいしつに、彼が紅と別れる時、決して忘れないと誓ったこと、そして本当に十余年も忘れないでいたということを。

 子供の約束だと笑う人もいるだろう。

 でも、十三歳にもなれば結婚するのが当たり前の時代、身分柄みぶんがら降る様にくる縁談にも首を縦に振らず、彼女からもらった深い碧色の翡翠ひすいの玉を刀のに付けて、決して放さなかった主君の姿を、一番側で見てきた彼だけは知っている。

(本当に忘れられなかったのだ。彼女以上に心を動かされる女なんて居なかったのだから)

 そして、それがわかるのは、兼続自身もそうだったから。

 戦国の厳しい世の中、つかの間の子供時代に、無心に遊んだ友を忘れることなんてできようか。ましてそれが、この世のものとも思えない程美しい少女だったら。

「言いにくいことを話させちゃったわね。でも聞かせてくれて有難う。お陰で色々な事がわかったわ。武田と上杉に過去様々な因縁いんねんがあったのは事実だけれど、私もここに来た以上、両家にとって役に立つつもりよ。」

 そう言ってにっこりした菊の茶色いふわふわの巻き毛に日の光が当たって、まるで金のかんむりかぶったように耀かがやいているのを、兼続はまぶしく仰いだ。

 人目を引く側室のお陰で、一向いっこうえない正室ではあるけれど、城の奥深く大切にはぐくまれてきたこの姫君のぐさは、人生に痛めつけられてきた紅が何処かで無くしてしまったものを思い起こさせた。

「私の父上は、時々私に詩を詠んで下さったの。そなたも又、詩が出来たら見せてちょうだいね。」

 菊はこの小さな出来事を通じて兼続に好意を持ったが、兼続の方でも彼女の飾り気の無い人柄に親近感を抱いたようだった。

 数日して菊の元に一通の文が届いた。そこに書かれてあった詩に、菊は目を見張った。


     菊は秋日しゅうじつに逢いて露香ろこう奇なり

     白白はくはく紅紅こうこう はなえだに満つ

     西施せいしの旧脂粉しふんりて

     淡粧たんしょう濃抹のうまつ 東籬とうりに上せん


   菊は秋の日を浴び、露や香りが素晴らしい

   白い花、紅い花が枝にいっぱいだ

   かの美女西施のつけていた紅白粉を取ってきて

   薄化粧、濃化粧して東の垣根に咲かせよう


「ほうら御覧ごろうじろ、だ、か、ら、私がいつも申し上げているではありませんか、スッピンで城中をうろうろしてないで、少しはお化粧なさいましと……。」

 仲間外れにされたことをまだ根に持っているらしい揚羽からは、ちくちくと嫌味を言われたものの、菊は、相変わらず隔たりが感じられる上杉の家中に一人、友人が出来たような気がして大層嬉しかった。

 あの日二人が何を話したか、揚羽には言っていない。わけても、兼続が紅に想いを寄せているらしいということは言いたくなかった。

 この時代の身分制度の厳しさは後世の人には思いも及ばない程であり、たとえ、一方的に想いを寄せているだけでも双方死罪に値するものだった。

 目障めざわりな側室を追い落とす、これ以上格好の材料は無いだろう。でも、前途有望な若者を共におとしいれるのはためらわれた。

 紅が兼続のことをどう思っているかは知らない。ただ二人が、景勝にとって無くてはならぬ存在であることは確かだった。

 政略結婚の妃としては、嫁ぎ先の弱点を探り、それを実家の為に役立てるのは当然の務めと言うべきだった。皆やっていることだ、それなのに。

 菊は文を手に、ため息をついて空を見上げた。

 今日もいい天気だ。山の上ではとんびが空に輪を描いていることだろう。

(あたしは甘い)

 抜けるような青空の下、自分がやけにちっぽけに見えた。

(やっぱりあたしは小夜さまのような『姫君』には程遠いのだ)

 だが、この秘めた恋を自分独りの胸の中に封印ふういんしたことが、紅を窮地きゅうちに追い込み、やがて死に至らしめることになろうとは、今の菊が知る由も無かった。

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