第9話 御館
道具箱を
そのうち、庭に出た。池の中に松の生えた石組みがある京風のしゃれた庭園だ。小さいながら滝まで備えている。
(ここは
住居、といっても武士の館だ、約百五十メートル四方に堀と
ここで館の主について簡単に述べる必要があるだろう。
南北に長い日本を統治するにあたり、時の幕府は東と西に政庁を置いて、列島を二分した。東に
しかし前関東管領・上杉憲政は、前のお屋形・謙信を頼って越後に来た。小田原の北条氏の勢力が強くなり、関東に居られなくなったのだ。憲政は保護してもらうかわりに、関東管領職と上杉の
それだけに北条氏の強大さと怖さは身に沁みているのだろう、憲政は争いが
背後の
振り返った菊は腰が抜けそうになった。
そこには七
菊は木立や石組みを避けながら必死で逃げ回ったが、歩幅では
大男が彼女を捕まえようと長い腕を伸ばしたその時、
大男がひるんだその隙に素早く走ってきて、菊との間に立ちふさがった男がいる。
大男は背に背負った
男は息ひとつ切らしていない。刀に付いた血を
「そなた、武田の姫か?」
「あなた、誰?」
敵では無さそう、だが。
「俺か?俺の名は
白い歯を見せて笑うと、芝居がかって
菊は礼を述べた。
「命の惜しくない人のようね。」
「生きるだけ生きたら、死ぬだけさ。」
何者なのだろう。
すらりと背が高く体格がいいのに動作は
何かに似ている、何だっけ……と考えて、思い当たった。
京の名人が描いたという
竹林の中から今にも飛び掛らんばかりの、
敵で無ければとりあえず、味方だと思うしかなかった。
慶次郎と名乗った男の後を付いて行きかけた菊は、いくらも行かないうちに
「あっ、しまった!」
叫んで元の場所に戻った。
逃げ回っている間に箱を
菊は
慶次郎は後ろから
「全く、女って何でも持っていかなきゃ気が済まないんだな、着物だの、化粧道具だの。何だ、それ。」
「絵の道具。」
「へえ。そりゃ又どうして。」
彼女を後ろに
「これは叔父さまの贈り物なの。私、今から元敵国に
「ふーん。変わってんな、ほんとに武田の姫か?」
「姫じゃなかったらどうするの?」
慶次郎は立ち止まった。
「助けるのは考え物だな。」
「えーっ、何故?」
「だって、
「んまあ……。」
何、善意で助けてくれた訳じゃあなかったの?
「侍女だったら、そのうち放してくれるさ。そうだ、考え方を変えたらどうだ?三郎は三国一の美男子だし、側室でもいいからっていう女はゴマンといるぞ。」
「もう遅いわ。」
菊はきっぱりと言った。
「私もう、酔っ払いは嫌いって言っちゃった。それに私、本当にお姫さまだから。」
慶次郎は菊の頭をぱっと押さえ、自分も身を伏せて番兵をやり過ごすと、おもしろそうに菊を眺めた。
「本当に変わってんな。男だって、その気のある連中はくらくらになる三郎のこと、何とも思わないのか。」
「何で?顔がいいからって、善人と決まった訳でなし。」
「ま、確かにな。人柄まではわからないが。」
「それに何で、仮にも一国の主ともあろう人の、顔や愛想が重要なの?」
菊は不思議そうに言った。
「大事なのは、
慶次郎は思わず吹き出した。
ふいに菊の脇の
が、相手はひるまない。
「刀を引け。助かりたいなら、俺の言うとおりにしろ。」
押し殺した声で慶次郎を叱りつける。
その顔を確かめて、菊は驚いた。
「やめて、慶次郎。あなたは確か……。」
「
広間で景虎の脇に控えていた子供だった。
慶次郎はまだ刀を引かない。
「これはこれは。
「俺は証人などにはならぬ。」
「ねえ、慶次郎、止めてよ。そんなもの当ててちゃ、話ができないわ。」
菊が言うと、慶次郎はようやく刀を納めた。
「こっちだ。番兵が少ない。」
道満丸は菊の袖を引っ張る。
その手を慶次郎が押しとどめた。
「とかいって、ついていくと兵士に取り囲まれて、なんてことになるんじゃないか?子供とはいえ、そなた、仮にも敵の大将の一人だろう?」
道満丸はきっぱりと言った。
「だましたりはしない。早く出て行って欲しいのだ。ただそれだけだ。」
「なぜだ?姫君をむりやり連れてきたのは、そっちの方だろう?」
先ほどの大男ほどではないにしろ、慶次郎も、この頃の平均身長からすると相当高い方だ。
その彼に見下ろされても、道満丸は全く
「そなたをさらう計画は、父上がたてたものではない。配下の者が勝手にやったことだ。でもそなたがこの屋敷にいる限り、父上は……父上は、そなたを証人としなければならない。」
「ほう、証人を取るのが嫌か。」
慶次郎が、珍しいものでも見るように、まじまじと少年を
「嫌だ。そんなのは
少年は
「俺は正々堂々と戦いたいのだ。」
慶次郎は鼻で笑った。
「源平合戦の頃ならともかく、
「何が悪いか。」
道満丸も負けずに言い返した。
「人間が獣のようにいがみあい傷つけあう世の中が、正しくあってたまるか。」
「ねえ、もういいでしょう。」
菊がはらはらして二人の間に入った。
「こんな所で言い争いをしている間に捕まっちゃうよ。若君、あなただってこんなことして、ただでは済まないわよ。」
「わかっている。」
道満丸は急に黙り込んだ。幼い表情になった。
「そなたはさっき、
その時はじめて菊は、彼の手が細かく震えていた事に気が付いた。
道満丸は、建物の脇をすり抜けたり、床下をはい進みながら、二人を
「左に進むと
「一つ言っておくが」
慶次郎が言った。
「そなたのやり方を相手も同じやり方で返してくれるとは、ゆめゆめ思わぬようにな。」
道満丸は、それには応えず言った。
「
「いいわよ。」
「
「女?」
友だちだろうか?
「泣くな、きっと又会える、身体をいとえ、と。」
「わかったわ。名は?」
「あの城で一番
笑った。
「すぐわかる。人が来る。さあ、早く行ってくれ。」
さっと走っていった。菊が礼を言う暇も無かった。
厩にたどり着いたが、人影が無い。
「私は絵を描くために、しょっちゅう館を抜け出してたから、侍屋敷のどの辺に何人くらい番兵が配置されているか大体見当がつくわ。それにしても
慶次郎は、よしよし、と声を掛けながら、次々に馬を
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