第17話-04 勇者と後始末人



 ――何が勇者だ。

 11年前のあの日、煮え切らない薄曇りの空の下で、ソールは焦土に膝をついていた。ここにはもう、何もない。家も。道も。行き交う人も。生活の息遣いも。かつて在ったあらゆるものが戦火のために灰燼と化し、今はただ、廃墟の上に血と骨の残滓がうずたかく積もるのみ。

 街中に立ち込める腐臭と瘴気。逃げ場を求めた人々に遺体が層をなす井戸。半壊した教導院の石壁には、ヴルムの巨大な爪痕が痛々しく刻まれている。ソールは足元の灰を掻き分け、汚れた人形を掘り出した。大切に両手で抱き上げたそれは、ぼろ布の切れ端を縫い合わせ、細切れの藁を詰めただけのもの。きっと誰か器用な大人が、身近な子供のために作ってあげたのだろう。どこかの少女か少年が、この他愛もない玩具を友として空想の中に遊んでいたのだ。その思い出は誰にも語られることなく、死と忘却の深淵へ呑まれて消えた――永遠に。

 ――何が勇者だ。何が英雄だ。

 ソールは人形を胸に掻き抱き、呻きながら背を丸めた。

 『魔王ケブラー、勇者ソールによって討伐せらる!』その報に世界が湧いたのはつい数ヶ月前のことだ。彼と仲間たちは行く先々で万雷の拍手をもって迎えられた。彼自身も浮かれていた。平和と称賛の果実に酔っていた。歓待を愉しみ、大いに歌い騒ぎ、恋人に結婚を申し込みさえした。

 調子に乗っていたのだ。

 戦争はまだ終わってなどいなかったのに。

 なぜ今まで考えもしなかったのだろう。魔王が死んだからといって、世界中に散らばっていた魔王軍が一気に消滅するわけではない。むしろ魔物たちは統率と精神的支柱と補給とを一度に失い、自分自身が生き残るために必死の戦いを始めた。目的を失った軍勢は、私欲のために吹き荒れる暴力の嵐と化したのだ。結果、それまで幸運にも戦乱を逃れていた戦略的価値皆無の村落までが、魔獣の標的となってしまった。

 もしソールが魔王を倒さなければ……急激に状況を変えたりしなければ……この街が襲われることはなかった。この人形の持ち主が、この地に息づくふたりとないひとりひとりが、理不尽に焼き殺されることはなかった。“勇者”さえ余計なことをしなければ……!

「ここにいたの、ソール」

 背後から聞こえる声は、共に魔王を倒した仲間――剣士デクスタ。凛とした長身、総髪ポニーテールに纏めた豊かな金髪、腰にくは勇壮武骨の剛刀。見惚れるようなで数多くの女性を虜にしてきた彼女の顔にも、今は鬱々と影が差している。デクスタがソールの側に片膝をつき、そっと背をさすってくれる。

「気にするな、ってのは無理だろうけど……悩みすぎちゃだめよ。混乱が治まるには時間がかかる。あんたのせいじゃないわ。

 ……なんて、言ってもあんたは聞かないか」

「……うん」

 短く強く息を吐き、ソールはゆっくりと立ち上がった。目尻に浮かぶ涙を拳で拭う。沈みゆく血赤色の夕陽を、それに染め上げられた滅びた街の光景を、瞳の奥に焼き付ける。忘れるものか、この気持ち、この胸の痛みを。

 勇者とは戦う者。戦うことしかできない者。

 だから、“自分”などもう要らない。

 だから、“暮らし”などもう要らない。

「だから、戦う。

 彼の決意の咆哮が、剣の如く天地を貫く。

「ぼくは“勇者”――勇者ソールだ!!」



   *



 第2ベンズバレンの海は、今日も素知らぬ顔で波打っている。空も、土も、山も、太陽も、自然界の何もかもが、何万年も変わることなく己の在りかたのままに活きている。なのに人間だけが毎日持ち上がる困りごとに振り回されて、慌てたり騒いだり、恐れたり暴れたり、ふと冷静に我に返り、自分のしでかした愚行に気付いて震え上がったり……

 ヴィッシュは桟橋にあぐらをかき、うねる海面を何時間もじっと眺め続けていた。魔王軍によって王都が占領され、ベンズバレンの国体は崩壊寸前だ。戦乱の気配を敏感に察した貿易商たちがこぞって手を引いたために、港に出入りする船はずいぶん減ってしまった。ここ数日は荷揚げの仕事にあぶれた人夫たちが生活の不安から苛つきはじめ、あちこちで暴力沙汰を起こしているという。

 それでもここには平和がある。少なくともまだ戦場ではない。

 血も、腐敗も、暴力の嵐も。本格的に襲いかかって来るのはまだ先の話。

 不安に押しつぶされそうになり、ヴィッシュは喘ぎながら仰向けに寝転がった。

 魔王との戦いの後、意識を取り戻したヴィッシュたちは、自分たちがベンズバレン王国領にいることに気付いた。勇者がかけてくれた《転送門ポータル》の術だ。あの死地から、彼がヴィッシュたちを安全圏に逃がしてくれたのだ。

 疑問が百万個も湧き出てきたような気分だった。戦いの結末はどうなったのか? 帝国の命運は? なにより、勇者は無事なのか? ひとまず第2ベンズバレンへ帰還する道を急ぎながら、彼らは巷の噂話に耳を傾けた。シュヴェーア帝冠領バル王国は謎の大爆発で、内海と繋がり巨大な湾と化したこと。ベンズバレン王都が蹂躙され、魔王の本拠地、魔王城とされてしまったこと。そして、勇者ソールが――人類唯一の希望が――魔王に敗れて戦死したこと……

 第2ベンズバレンに戻るや、ヴィッシュは後始末人協会の情報網を頼りに噂の真偽を確かめた。多少の誇張と誤りこそあれど、噂はおおむね真実だった。

「すぐに行動が必要です」

 コバヤシは、彼らしくもない早口でまくしたてた。

「第2ベンズバレンに独立都市としての運営能力が与えられていたのは幸いでした。ここを拠点に地方領主を纏めれば魔王軍に対抗できます。今は都市内の有力勢力にこの方針への了解を取り付けているところで……」

 ヴィッシュは困惑気味に手を上げて、コバヤシの言葉を遮った。そのまま立ち去ろうとするヴィッシュに、コバヤシは悲鳴じみた声を上げる。

「一緒に戦ってくれないんですか!?」

「……俺に何ができる」

「実績もある。名声もある。あなたなら諸侯連合軍をまとめられる……ヴィッシュさんっ!」

「俺は……勇者にはなれないよ……」

 それからずっと、ヴィッシュはこうして、ただ時間を潰している。

 家には帰れない。帰れば緋女とカジュがいる。ふたりはきっとヴィッシュに失望しているだろう。無様に敗北し、魔王の圧倒的な力に恐怖し、戦う気力を完全に失ったヴィッシュに、唾でも吐きたいと思っているだろう。みんなに合わせる顔がない。もうどこにも、行き場がない……

 ――いや、違う。勝手に仲間たちの気持ちを決めるな。

 ヴィッシュを軽蔑しているのは、唾棄すべき弱さに失望しているのは、他の誰でもない、ヴィッシュ自身。

 深く深く溜息を吐き、ヴィッシュは静かに目を閉じた。このまま眠れば楽になれるだろうか。それとも、悪意にさいなまれるばかりだろうか。

 ――なあ勇者さん。なんであんたは俺なんかを助けた? 大切な命まで犠牲にして……

「情けねえ」

 突然頭上で男の声がした。ヴィッシュは目を開け、身を起こす。肩越しに振り返ってみれば、見知らぬ男がこちらを睨んでいる。黒の貫頭衣ローブ、紋様入りのとんがり帽子、宝石のはまった真っすぐなステッキ。いかにも術士然とした格好だが……やはりどれほど記憶を辿ってみても、こんな人物には見覚えがない。

 だが男の方ではよくヴィッシュを知っていると見えて、それこそ唾でも吐き捨てるように罵りかけてきた。

「こんなやつが後継者とはな。ソールも浮かばれないぜ」

 男の口から出てきた勇者の名に、ヴィッシュは眉をひそめる。

「あんた、誰だ」

「自分の組織のトップくらい知っとけよな。セレン魔法学園教務主任にして後始末人協会副会長エイジ・エインズワース。そして今は……ただのソールのともだちだ!」

 エイジと名乗った男は、手の中の物を怒りに任せてヴィッシュへ投げつけた。危うく取り落としそうになりながら受け止めてみれば、それは手のひらに収まる程度の淡青色の結晶だった。同じものを以前に見たことがある。“過去視の水晶パストビューア”……映像を記録し、後で見られるようにする一種の呪具フェティシュだ。

「再生方法は?」

「知ってるが……」

「じゃあな」

「おい! 待てよ、これは一体どういうことだ?」

 問いには答えずエイジは立ち去ろうとする。ヴィッシュは慌てて立ち上がり、彼の肩を掴んで引き留めた。それがかんさわったとみえて、エイジは振り返りざまにヴィッシュの胸へ、乱暴に指を突き付けた。

「言っとくけどな! オレはソールの頼みだからそれを届けてやっただけだ。

 オレはお前を認めない! お前なんかのために、ソールは……あいつはもう……!」

 エイジの目尻に、じわりと浮き上がる涙の滴。

 今度こそ彼は足早に港を立ち去っていった。ヴィッシュは訳も分からず取り残されて、ただ茫然と立ち尽くすばかりだった。右手の中に、結晶の固い感触がある。指の関節に角が食い込み、ひどく痛んだ。



   *



 エイジはソールの同級生。とはいってもには天と地ほどの差があった。エイジは万年不動の学年首席で、ソールは億年不変の最下位だ。正反対のふたりだが、なぜか幼い頃から一緒に行動することが多かった。別に気が合ったわけではない。エイジにはエリートとしての義務感があったのだ。落ちこぼれを助け上げるのは、実力者の責務だ。持てる者は、持たざる者へ親切であらねばならない。

 実際のところ、実習、実験、レポート作りに試験対策と、あらゆる局面で要領の悪いソールを、エイジはいつも手助けした。

 魔王戦争の時だ、その関係が根底から覆されたのは。落ちこぼれだったはずのソールが“セレンの剣”に選ばれ、魔王を倒すための旅を続けるうちにめきめきと力を付けていき……最下位だったはずのソールは、世界の頂点に煌めく英雄となった。力関係は逆転した。エイジは完全に追い越されてしまったのだ。

 それを素直に喜べない自分を見出した時、はじめてエイジは、長年自分の中にあった慢心に気付いた。

 なにがエリートだ。なにが実力者の責務だ。単に手元に“格下”を確保しておいて、自分は凄いんだぞ、とアピールし続けたいだけではないか。そんな自分がどうしても許せず、考え込み、苦しみ抜いた末に、彼は当のソールに全てを打ち明けた。

 悔恨の表情で呻くように謝罪するエイジに、ソールは、いつもの屈託ない笑顔でこう答えた。

「そんなこと関係ないよ。たとえどんな気持ちが理由でも、エイジがしてくれた親切の価値は、ぜんぜん変わらないよ!」

 出会ってから既に7年近くが経過していたが、その時ふたりは、はじめて友情を交わすことができたのだ。

 それから2年ほど過ぎたある日のこと。魔法学園卒業を目前に控え、研究論文の準備に奔走していたエイジの元へ、クラスメイトの悲鳴じみた急報が舞い込んだ。

 “勇者”ソールが、重傷を負って担ぎ込まれたというのだ。

 治療のために駆けつけたエイジは、ソールの顔を見るなり絶句した。彼はまるで別人のようにやせ細っていた。玉のようだった肌は見る影もなく乾き、眼は骸骨のように落ちくぼみ、顔からは表情が失われて、それでいて、殺意にも似た気迫だけは全身から溢れんばかりに漂い出ている。まるで研ぎすぎた刃物。

 なにより異様だったのは、どう見ても致命傷としか思えず、泉のように血を噴出させていた傷が、ベッドへ運ばれている間に早くも塞がりかけていたことである。

「ソール、お前、いったい……」

 彼が勇者として世界中を飛び回り、魔王軍残党から人々を守る戦いに明け暮れているのは知っていた。魔王さえ倒したソールなら、そんじょそこらの魔物など相手にならない。心配する必要はない、と、今の今までエイジも思い込んでいた。

 だがこの様子は尋常ではない。この疲れようはなんだ? 精神にも変調を来しているのではないか? そもそも異常なまでのこの回復力はなんだ?

 エイジはソールの全身をくまなく探し回り、ゴテゴテと何重にも装着された呪具フェティシュを見つけ出した。胸元に輝く首飾りは“沈まぬ太陽の宝玉”。眠気を取り除き、いつまででも起きていられるようにする。“苦行者のベルト”は空腹感を消す道具。“酩酊の指輪”で傷の痛みも感じずに済む。“不死鳥の刻印”で肉体の傷を瞬時に再生し、その代償として蝕まれた体力は“活力の腕輪”で強引に補う……

 エイジの背筋にぞっと悪寒が走った。ちょうどその時、ソールが目を覚ました。

「ん……あ、エイジ……」

「ソール。オレたち、友達だよな?」

「えっ? そりゃあ、うん……」

「じゃあ本当のことを話してくれるよな?」

 ソールは黙り、顔をそむけた。その顔面を手のひらで両側から挟み込み、無理やり自分の方に向き直らせ、エイジはすがりつくように責め立てた。

「バカ野郎!! お前、いつから寝てないんだ!?」

「えっと……その……1年半くらい……」

 やはりだ。この勇者バカは、寝る暇も食う暇も傷の治療をする暇すらも無駄として切り捨て、一切休息を取らずに戦い続けてきたのだ。1年半もの間ずっと! たしかにそれなら1日に常人の倍以上の仕事ができる。勇者の戦闘力も加味すれば、ひとりで千人分働けると言っても過言ではないだろう。理論上は呪具フェティシュの効力で万全の状態を保てるかもしれない。

 だが、眠気も食欲も失くしたって、睡眠や食事が要らなくなるわけではない。魔術で帳尻を合わせているだけの暮らしは、確実にひとの心身を蝕んでいく。こんなことを続けていれば、遠からず魂が限界を迎え、ソールは死ぬ。

「休め。いいな?」

 だがソールは首を振り、痛みを堪えて起き上がろうとさえする。まるでひとの話を聞いていない。

「でも、ぼくがやらなきゃ。ぼくが戦わなきゃ、たくさんの人が死んじゃう……」

 ああ、もうダメだ。エイジはそう確信した。

 この男はこういうやつだ。まっすぐすぎるほどまっすぐなやつだ。彼の信念は正しい。確かに勇者が休めば、その分だけどこかで人間が死ぬだろう。今はそういう情勢なのだ。

 それを知ってしまった。だからソールは、もう止まれない。

 説得しても無駄だ。勇者ソールを止める方法は、この世にただひとつしかない。そうと決めたら、エイジも伊達に世界最高学府の首席学生ではない。類まれな頭脳と行動力が、唸りを上げて燃え始めた。

「おいソール! お前、ちょっと名義貸せっ!」

「へ?」



 その僅か数か月後、新たな組織が動き出した。

 エイジが設立したその組織は、基本的には同業者組合ギルドの一種である。魔王討伐後、残党の魔物は内海全域で社会問題化しており、それと戦う狩人たちが各地で自然発生していた。エイジはこの狩人をまとめ上げ、効率的に魔物狩りを行う組織を創り上げたのだ。

 といっても、生半なまなかな方法では海千山千の狩人を指揮下には置けない。彼らを統率するには利益あるのみ。協会に所属するメリットが大きければ自然と組織は回りだす。そのためには採算を取るしかない。採算を取るには、地方領主や国王を顧客化することが必要不可欠。

 “勇者”ソールを名義上の協会長に置いたのは、為政者たちを顧客として取り込むための看板が必要だったからだ。

 かくして後始末人協会は発足した。

 以来、勇者の立場は劇的に変わった。これまで彼ひとりに舞い込んでいた魔物退治の要請、その大半は狩人たちが引き受けてくれるようになったのだ。そのぶん勇者には、最も重く厄介な敵との戦いが任されるようになったが、それでも以前より大幅に負担が軽減されたのは間違いなかった。

 だが、全ては遅すぎたのかもしれない。

 戦いの日々が。ヒトの身の丈を超えた“勇者”の力が。少しずつ、少しずつ、ソールの肉体を蝕んでいたのだった。



(つづく)

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