第17話-04 勇者と後始末人
――何が勇者だ。
11年前のあの日、煮え切らない薄曇りの空の下で、ソールは焦土に膝をついていた。ここにはもう、何もない。家も。道も。行き交う人も。生活の息遣いも。かつて在ったあらゆるものが戦火のために灰燼と化し、今はただ、廃墟の上に血と骨の残滓が
街中に立ち込める腐臭と瘴気。逃げ場を求めた人々に遺体が層をなす井戸。半壊した教導院の石壁には、
――何が勇者だ。何が英雄だ。
ソールは人形を胸に掻き抱き、呻きながら背を丸めた。
『魔王ケブラー、勇者ソールによって討伐せらる!』その報に世界が湧いたのはつい数ヶ月前のことだ。彼と仲間たちは行く先々で万雷の拍手をもって迎えられた。彼自身も浮かれていた。平和と称賛の果実に酔っていた。歓待を愉しみ、大いに歌い騒ぎ、恋人に結婚を申し込みさえした。
調子に乗っていたのだ。
戦争はまだ終わってなどいなかったのに。
なぜ今まで考えもしなかったのだろう。魔王が死んだからといって、世界中に散らばっていた魔王軍が一気に消滅するわけではない。むしろ魔物たちは統率と精神的支柱と補給とを一度に失い、自分自身が生き残るために必死の戦いを始めた。目的を失った軍勢は、私欲のために吹き荒れる暴力の嵐と化したのだ。結果、それまで幸運にも戦乱を逃れていた戦略的価値皆無の村落までが、魔獣の標的となってしまった。
もしソールが魔王を倒さなければ……急激に状況を変えたりしなければ……この街が襲われることはなかった。この人形の持ち主が、この地に息づくふたりとないひとりひとりが、理不尽に焼き殺されることはなかった。“勇者”さえ余計なことをしなければ……!
「ここにいたの、ソール」
背後から聞こえる声は、共に魔王を倒した仲間――剣士デクスタ。凛とした長身、
「気にするな、ってのは無理だろうけど……悩みすぎちゃだめよ。混乱が治まるには時間がかかる。あんたのせいじゃないわ。
……なんて、言ってもあんたは聞かないか」
「……うん」
短く強く息を吐き、ソールはゆっくりと立ち上がった。目尻に浮かぶ涙を拳で拭う。沈みゆく血赤色の夕陽を、それに染め上げられた滅びた街の光景を、瞳の奥に焼き付ける。忘れるものか、この気持ち、この胸の痛みを。
勇者とは戦う者。戦うことしかできない者。
だから、“自分”などもう要らない。
だから、“暮らし”などもう要らない。
「だから、戦う。全力で」
彼の決意の咆哮が、剣の如く天地を貫く。
「ぼくは“勇者”――勇者ソールだ!!」
*
第2ベンズバレンの海は、今日も素知らぬ顔で波打っている。空も、土も、山も、太陽も、自然界の何もかもが、何万年も変わることなく己の在りかたのままに活きている。なのに人間だけが毎日持ち上がる困りごとに振り回されて、慌てたり騒いだり、恐れたり暴れたり、ふと冷静に我に返り、自分のしでかした愚行に気付いて震え上がったり……
ヴィッシュは桟橋にあぐらをかき、うねる海面を何時間もじっと眺め続けていた。魔王軍によって王都が占領され、ベンズバレンの国体は崩壊寸前だ。戦乱の気配を敏感に察した貿易商たちがこぞって手を引いたために、港に出入りする船はずいぶん減ってしまった。ここ数日は荷揚げの仕事にあぶれた人夫たちが生活の不安から苛つきはじめ、あちこちで暴力沙汰を起こしているという。
それでもここには平和がある。少なくともまだ戦場ではない。
血も、腐敗も、暴力の嵐も。本格的に襲いかかって来るのはまだ先の話。
不安に押しつぶされそうになり、ヴィッシュは喘ぎながら仰向けに寝転がった。
魔王との戦いの後、意識を取り戻したヴィッシュたちは、自分たちがベンズバレン王国領にいることに気付いた。勇者がかけてくれた《
疑問が百万個も湧き出てきたような気分だった。戦いの結末はどうなったのか? 帝国の命運は? なにより、勇者は無事なのか? ひとまず第2ベンズバレンへ帰還する道を急ぎながら、彼らは巷の噂話に耳を傾けた。シュヴェーア帝冠領バル王国は謎の大爆発で消滅、内海と繋がり巨大な湾と化したこと。ベンズバレン王都が蹂躙され、魔王の本拠地、魔王城とされてしまったこと。そして、勇者ソールが――人類唯一の希望が――魔王に敗れて戦死したこと……
第2ベンズバレンに戻るや、ヴィッシュは後始末人協会の情報網を頼りに噂の真偽を確かめた。多少の誇張と誤りこそあれど、噂はおおむね真実だった。
「すぐに行動が必要です」
コバヤシは、彼らしくもない早口でまくしたてた。
「第2ベンズバレンに独立都市としての運営能力が与えられていたのは幸いでした。ここを拠点に地方領主を纏めれば魔王軍に対抗できます。今は都市内の有力勢力にこの方針への了解を取り付けているところで……」
ヴィッシュは困惑気味に手を上げて、コバヤシの言葉を遮った。そのまま立ち去ろうとするヴィッシュに、コバヤシは悲鳴じみた声を上げる。
「一緒に戦ってくれないんですか!?」
「……俺に何ができる」
「実績もある。名声もある。あなたなら諸侯連合軍をまとめられる……ヴィッシュさんっ!」
「俺は……勇者にはなれないよ……」
それからずっと、ヴィッシュはこうして、ただ時間を潰している。
家には帰れない。帰れば緋女とカジュがいる。ふたりはきっとヴィッシュに失望しているだろう。無様に敗北し、魔王の圧倒的な力に恐怖し、戦う気力を完全に失ったヴィッシュに、唾でも吐きたいと思っているだろう。みんなに合わせる顔がない。もうどこにも、行き場がない……
――いや、違う。勝手に仲間たちの気持ちを決めるな。
ヴィッシュを軽蔑しているのは、唾棄すべき弱さに失望しているのは、他の誰でもない、ヴィッシュ自身。
深く深く溜息を吐き、ヴィッシュは静かに目を閉じた。このまま眠れば楽になれるだろうか。それとも、悪意に
――なあ勇者さん。なんであんたは俺なんかを助けた? 大切な命まで犠牲にして……
「情けねえ」
突然頭上で男の声がした。ヴィッシュは目を開け、身を起こす。肩越しに振り返ってみれば、見知らぬ男がこちらを睨んでいる。黒の
だが男の方ではよくヴィッシュを知っていると見えて、それこそ唾でも吐き捨てるように罵りかけてきた。
「こんなやつが後継者とはな。ソールも浮かばれないぜ」
男の口から出てきた勇者の名に、ヴィッシュは眉をひそめる。
「あんた、誰だ」
「自分の組織のトップくらい知っとけよな。セレン魔法学園教務主任にして後始末人協会副会長エイジ・エインズワース。そして今は……ただのソールのともだちだ!」
エイジと名乗った男は、手の中の物を怒りに任せてヴィッシュへ投げつけた。危うく取り落としそうになりながら受け止めてみれば、それは手のひらに収まる程度の淡青色の結晶だった。同じものを以前に見たことがある。“
「再生方法は?」
「知ってるが……」
「じゃあな」
「おい! 待てよ、これは一体どういうことだ?」
問いには答えずエイジは立ち去ろうとする。ヴィッシュは慌てて立ち上がり、彼の肩を掴んで引き留めた。それが
「言っとくけどな! オレはソールの頼みだからそれを届けてやっただけだ。
オレはお前を認めない! お前なんかのために、ソールは……あいつはもう……!」
エイジの目尻に、じわりと浮き上がる涙の滴。
今度こそ彼は足早に港を立ち去っていった。ヴィッシュは訳も分からず取り残されて、ただ茫然と立ち尽くすばかりだった。右手の中に、結晶の固い感触がある。指の関節に角が食い込み、ひどく痛んだ。
*
エイジはソールの同級生。とはいっても出来には天と地ほどの差があった。エイジは万年不動の学年首席で、ソールは億年不変の最下位だ。正反対のふたりだが、なぜか幼い頃から一緒に行動することが多かった。別に気が合ったわけではない。エイジにはエリートとしての義務感があったのだ。落ちこぼれを助け上げるのは、実力者の責務だ。持てる者は、持たざる者へ親切であらねばならない。
実際のところ、実習、実験、レポート作りに試験対策と、あらゆる局面で要領の悪いソールを、エイジはいつも手助けした。
魔王戦争の時だ、その関係が根底から覆されたのは。落ちこぼれだったはずのソールが“セレンの剣”に選ばれ、魔王を倒すための旅を続けるうちにめきめきと力を付けていき……最下位だったはずのソールは、世界の頂点に煌めく英雄となった。力関係は逆転した。エイジは完全に追い越されてしまったのだ。
それを素直に喜べない自分を見出した時、はじめてエイジは、長年自分の中にあった慢心に気付いた。
なにがエリートだ。なにが実力者の責務だ。単に手元に“格下”を確保しておいて、自分は凄いんだぞ、とアピールし続けたいだけではないか。そんな自分がどうしても許せず、考え込み、苦しみ抜いた末に、彼は当のソールに全てを打ち明けた。
悔恨の表情で呻くように謝罪するエイジに、ソールは、いつもの屈託ない笑顔でこう答えた。
「そんなこと関係ないよ。たとえどんな気持ちが理由でも、エイジがしてくれた親切の価値は、ぜんぜん変わらないよ!」
出会ってから既に7年近くが経過していたが、その時ふたりは、はじめて友情を交わすことができたのだ。
それから2年ほど過ぎたある日のこと。魔法学園卒業を目前に控え、研究論文の準備に奔走していたエイジの元へ、クラスメイトの悲鳴じみた急報が舞い込んだ。
“勇者”ソールが、重傷を負って担ぎ込まれたというのだ。
治療のために駆けつけたエイジは、ソールの顔を見るなり絶句した。彼はまるで別人のようにやせ細っていた。玉のようだった肌は見る影もなく乾き、眼は骸骨のように落ちくぼみ、顔からは表情が失われて、それでいて、殺意にも似た気迫だけは全身から溢れんばかりに漂い出ている。まるで研ぎすぎた刃物。
なにより異様だったのは、どう見ても致命傷としか思えず、泉のように血を噴出させていた傷が、ベッドへ運ばれている間に早くも塞がりかけていたことである。
「ソール、お前、いったい……」
彼が勇者として世界中を飛び回り、魔王軍残党から人々を守る戦いに明け暮れているのは知っていた。魔王さえ倒したソールなら、そんじょそこらの魔物など相手にならない。心配する必要はない、と、今の今までエイジも思い込んでいた。
だがこの様子は尋常ではない。この疲れようはなんだ? 精神にも変調を来しているのではないか? そもそも異常なまでのこの回復力はなんだ?
エイジはソールの全身をくまなく探し回り、ゴテゴテと何重にも装着された
エイジの背筋にぞっと悪寒が走った。ちょうどその時、ソールが目を覚ました。
「ん……あ、エイジ……」
「ソール。オレたち、友達だよな?」
「えっ? そりゃあ、うん……」
「じゃあ本当のことを話してくれるよな?」
ソールは黙り、顔をそむけた。その顔面を手のひらで両側から挟み込み、無理やり自分の方に向き直らせ、エイジはすがりつくように責め立てた。
「バカ野郎!! お前、いつから寝てないんだ!?」
「えっと……その……1年半くらい……」
やはりだ。この勇者バカは、寝る暇も食う暇も傷の治療をする暇すらも無駄として切り捨て、一切休息を取らずに戦い続けてきたのだ。1年半もの間ずっと! たしかにそれなら1日に常人の倍以上の仕事ができる。勇者の戦闘力も加味すれば、ひとりで千人分働けると言っても過言ではないだろう。理論上は
だが、眠気も食欲も失くしたって、睡眠や食事が要らなくなるわけではない。魔術で帳尻を合わせているだけの暮らしは、確実にひとの心身を蝕んでいく。こんなことを続けていれば、遠からず魂が限界を迎え、ソールは死ぬ。
「休め。いいな?」
だがソールは首を振り、痛みを堪えて起き上がろうとさえする。まるでひとの話を聞いていない。
「でも、ぼくがやらなきゃ。ぼくが戦わなきゃ、たくさんの人が死んじゃう……」
ああ、もうダメだ。エイジはそう確信した。
この男はこういうやつだ。まっすぐすぎるほどまっすぐなやつだ。彼の信念は正しい。確かに勇者が休めば、その分だけどこかで人間が死ぬだろう。今はそういう情勢なのだ。
それを知ってしまった。だからソールは、もう止まれない。
説得しても無駄だ。勇者ソールを止める方法は、この世にただひとつしかない。そうと決めたら、エイジも伊達に世界最高学府の首席学生ではない。類まれな頭脳と行動力が、唸りを上げて燃え始めた。
「おいソール! お前、ちょっと名義貸せっ!」
「へ?」
その僅か数か月後、新たな組織が動き出した。
エイジが設立したその組織は、基本的には
といっても、
“勇者”ソールを名義上の協会長に置いたのは、為政者たちを顧客として取り込むための看板が必要だったからだ。
かくして後始末人協会は発足した。
以来、勇者の立場は劇的に変わった。これまで彼ひとりに舞い込んでいた魔物退治の要請、その大半は狩人たちが引き受けてくれるようになったのだ。そのぶん勇者には、最も重く厄介な敵との戦いが任されるようになったが、それでも以前より大幅に負担が軽減されたのは間違いなかった。
だが、全ては遅すぎたのかもしれない。
戦いの日々が。ヒトの身の丈を超えた“勇者”の力が。少しずつ、少しずつ、ソールの肉体を蝕んでいたのだった。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます