第15話-02 NO KIDDING!
ぽつり、ぽつり、とヴィッシュは語りだした。一語一語、暗闇の中、手探りで自分の心の形を確かめるように。
「前に話したよな、帝国にいた頃のこと。俺のミスで全滅させてしまった中隊。その中に、ずっと……本当の兄弟みたいに思っていた人がいたんだ。
名前はナダム。腹の立つやつだった。如才なくて。口が上手くて。何するにも器用で。いつもいつも、俺より一歩先回りして。何やっても敵わない。そう思ってたけど、でも、あいつは……いつだって俺を買いかぶってくれていた。
ナダムには恋人がいた。
帝国一の美人のシェリー。素敵な人だった。白状するよ。俺も彼女が好きだったんだ。でも、彼女の心を掴んだのはナダムの方だった。嫉妬もしたけど、でも、あいつのためなら喜んでやれる。心からおめでとうと言える……って。そう、思ってたんだ」
美しい思い出。それを懐かしむヴィッシュの微笑みに、青白い死の色が差す。ヴィッシュの大きな手のひらが、震えながら顔面を覆う。頭に、こめかみに、頬に、爪が毒牙の如く食い込んで、筋肉と骨の軋みが悲痛に響く。
「俺は……彼女に合わせる顔がなかった。
俺がナダムを殺してしまった。
一体……一体なんて謝ったらいい? どんな償いをすればいい? 償えるわけない。背負えるわけない……だから俺は逃げた。誰にも言わないで。何も話さないで。ただ故郷から逃げて。逃げて、逃げて……!
ずっと逃げていればいいんだと思ってた。ひとりで苦しんでりゃいいと思ってた。俺なんかにはそんな人生が似合いなんだ。俺はもっと苦しむべきなんだ!!
そう思ってた。その……はず、なのに……」
ヴィッシュは懐から小さな封筒を取り出した。流麗な文字で宛名が記された手紙は、きつく握りしめられたために折り目と皺が付き、反りあがって、慟哭を浮かべているかに見えた。
「彼女は死んだ。殺されたんだ」
彼の震えが止まった。
「犯人はおそらく魔族。だがまだ捕まっていない。もう半年以上も前のことらしい。全然知らなかった。当たり前だよな。俺が悪いんだよ。誰にも行先を言わなかったんだ、知らせようがなかったよな。でも最近、立て続けに大きな仕事を片付けたせいで、シュヴェーアにも俺の名前が伝わったらしくて。居所を知った古い知り合いがこの手紙をくれた。それで、知った……つい先週のことだ」
「……どうしたいの?」
「故郷に帰る。仇を討つ。この、俺の手で」
「わかった」
緋女は剣のように立ち上がった。
「あたしも行く」
「でも、お前は……」
「関係ない、なんて言わないよな?」
ヴィッシュは言葉を失った。
この目。この声。この気迫。
彼の胸を一突きに貫く、緋女と言う名の一筋の刃。
「もうこれでお別れだから? 高いお店で素敵なディナー?
冗談じゃねえ!!
お前はあたしの頭だ。あたしはお前の剣だ。あたしたちで戦うんだ。今までずっとそうしてきた。だから! これからも、そうする!!」
炎に心の氷を融かされて、ヴィッシュは力なくうなだれる。濡れた草木が
気を抜けば、涙を零してしまいそうだったから。
「……怖いんだ。
みんなを死なせて、ひとりだけ生き残ったこんなクズが、最高の仲間に囲まれて、毎日楽しくて、充実して、こんなにも……
こんなにも、幸せでいいのかって……
許せないんだ。分からないんだ。考えても、考えても、もう……どうしようもないんだよ……」
「分からなくていい」
緋女がヴィッシュの背中に回り、そっと後ろから抱きしめる。
「あたしのこと、どう思う?」
――ああ、そっか。それなら、分かる。
「好きだ。緋女」
緋女は照れくさそうにはにかんだ。
「あたしも」
初めてのキスは糖蜜のように甘く、少しだけ、アルコールの香りがした。
服の隙間から差し込まれた手が緋女の、素肌の、いたるところをくすぐって、彼女はたまらず身をよじる。身を守ろうと腹の上を撫ぜる彼の右手を押さえれば、左手が背中を這い上ってくる。文句を零しかけた唇は絶妙なタイミングで口づけに塞がれ、緋女は、彼の好きなように玩ばれてしまう。
気が付けば手品のように服を脱がされていた。彼の舌が愛おしげに、彼女の首から順繰りに愛撫していく。乳房の上を、横を、鍛え上げた腹筋の線の上を……ついに攻撃の矛先が最も秘すべきところへとたどり着いた時、予想外の刺激が身体を貫き、緋女は弓なりに反り返った。
「なに!? これ!?」
「気に入った?」
彼が続きに取り掛かる。
悲鳴が甲高く響き渡った。緋女は今や生きた肉の楽器だった。彼の舌が緋女の、これまでろくに意識したことさえなかったところを突き、撫で、優しく優しく、しかし執拗に繰り返し刺激するたび、緋女の身体は跳ね上がり、官能の音楽を歌い上げる。
「そっかぁぁっ……“きもちいい”ってこういうことかぁ……!」
今まで話に聞いたことはあっても、ピンときたことは一度もなかった快楽。試してみたって実感はできなかった感覚。生まれて初めて味わうそれは、想像を越えた心地よさで、あまりのことに、目じりから涙さえ零れてしまう。
その涙を、そっと受け止める指がある。
ヴィッシュ。
「痛かった?」
彼はいつのまにか、ぐったりと弛緩していた緋女の身体を抱き締め、頬を撫でてくれていた。
緋女はぶんぶん首を振った。
「ぜんぜん。ちょっと休憩」
少しの間、彼の胸に頭を埋めて、呼吸と鼓動が落ち着くのを待つ。
ふと悪戯心が湧いてきて、彼の乳首を軽く噛んだ。彼がびっくりして少女みたいな声を挙げる。仕返しにくすぐってくる。くすぐり返す。笑い声がふたりだけの居間で鈴のように可憐に響く。
ひとしきりじゃれあうと、緋女は、寝椅子から身体を起こし、彼に向かって両腕を広げた。
「よし! 来いっ!」
飛びついてくる彼を両腕で受け止め、ふたりの肌が、ひとつに繋がる――
同じころ、カジュは屋根裏の勉強部屋で論文の執筆に行き詰まり、頬杖を突いていた。その彼女の耳に、階下の声が届く。カジュは思わず手から頬を離す。息さえ止めて、耳を澄ます。
それはまるで、荒々しくも美しい野生の獣が、春の訪れに躍動する心をそのままに歌い上げたような。そんな悦びに満ちた声だった。その生き生きとした調べがカジュの小さな胸を打つ。
「……やっとか。」
――言いたい文句は、山ほどあるけど。
彼女が浮かべた表情は、安心半分、口惜しさ半分。
生涯の親友であり、最高の相棒であり、実の姉のようにも思っていた
頼れるボスであり、優しい父であり、密かな片思いの相手でもあった
一口には言い表せない複雑な想いを、まるごと腹の中に飲み込んで、カジュはペンを手に取った。
今なら書ける気がする。
緋女とヴィッシュが愛を交わす声が、カジュには快い協奏曲に聞こえる。詰まっていたはずの文章が、不思議にすらすらと浮かんでくる。カジュは上機嫌に、夢中でペンを走らせた。
――大丈夫。
遠く聞こえる愛の歌が、無限の創造力をくれる。
――おめでとうって言えるよ。キミたちになら。
*
翌朝遅くに目を覚ましたヴィッシュは、彼の脇の下に頭をすっぽりと収めて眠っている緋女を見出した。自分も彼女も裸のままで。窓から射し込む陽光に、緋女のむき出しの乳房は生き生きと光り輝いていて――
これほど誰かを愛おしいと思ったことはなかった。
これほど自分を誇らしいと思ったことも。
緋女は素晴らしいひとだ。強く、まっすぐで、炎のような生命力に溢れている。どんな美人だって貴人だって、緋女と並べば見劣りする。一年足らずの間いっしょに暮らしてきて、ヴィッシュは今や、そう確信している。
なのに、それほどの緋女が、自分を愛してくれた。自分の愛を受け入れてくれた。認めてくれた。
それが嬉しくてならず、ヴィッシュは緋女に顔を寄せていった。
だがもう少しというところで緋女が眼を開く。彼女の手がヴィッシュの頬を押しとどめ、口づけを拒む。いたずらな笑顔が吐息がかかるほどの距離で花を咲かせる。
「キスしてあげない」
「えー……」
「ちゃんと言って」
ヴィッシュは苦笑した。何もかも彼女の手のひらの上。だがそれもいい。ひとりでは本音も出せないほど弱い自分なら、仲間と言う火に、胸の内にあるものを沸騰させてもらえばいい。
それを赦せるようになることは、弱くなることではないはずだ――きっと。
「一緒に来てくれ、緋女。俺にはお前が必要だ」
「言えたね」
緋女がヴィッシュを抱き込んで寝返りを打ち、彼を身体の下に組み敷いた。触れ合う寸前まで唇を近づけ、甘く、甘く、官能を囁く。
「ごほうび」
熱く、たっぷりとして、とろけるほどに丹念なキスは、なるほど、最高のごほうびに違いなかった。
*
だが、しかし。
世界のどこかの夜で、善意と愛が
別のどこかの暗闇で、苦痛と悪が目を覚ます。
とある名の知れた王国の、歴史ある都。その中央に、見る者を圧倒する壮大な王城が立っていた。月明かりの中に堂々と浮かび上がるその威容は、さながら眠れる巨人。王の人気もまずまずで、都の住人たちは生活の折々に城を見上げ、王権を称えるのが常であった。
「玉座に乾杯!」
誰かが酔ってそんなことを叫ぶと、辺りに居合わせた街の住人たちが次々に声を合わせたものだ。
「繁栄に乾杯! 復興に乾杯!」
時には騒ぎが玉座に届き、国王その人が窓から手を振って応えることもあった。白く輝く石造りの城郭は王都の賑わいの象徴。ひいては王国の明るい前途の象徴でもあった。民は城を見、その足元に立つ己をも見出す。自分が大いなる繁栄の一部であることを、雄大な巨人の姿から思い出すのである。
なのにその王城が今、漆黒の夜の中で、氷河に閉ざされた険山の如く不気味に静まり返っている。
篝火のひとつも灯されず、窓には蝋燭の炎さえ見えず、普段なら夜通し城壁の上や下を行き来している
昼には陳情に訪れる国民で溢れかえり、夜には勤勉な官僚たちが忙しく行きかう大回廊には、重苦しい、濃密な死の気配ばかりが満ちている。どこからともなく腐臭が漂ってくる。不快な熱気が闇に紛れて忍び寄ってくる。内臓を鷲掴みにするかのような邪悪の予感が急速に高まっていく。
その《悪意》の源は、城の最奥、玉座の広間の中にあった。
「おれは卓越した術士であると同時に、当代最高の知恵者でもあるわけだから、もちろん計算だって得意分野だ」
影が、耳障りにくぐもった声を挙げる。嘲弄の色を隠しもせずに。
「1378人。死んだのは、たったそれだけさ」
そこに、凄惨な光景が広がっていた。
死体。死体だ。玉座の広間一面を埋め尽くし、さらに積み上げられて山を為すほどの死体。兵士、下女、文官、武官、果ては馬や犬猫まで。身分の区別もなく、性別も種族も問わず、あらゆるものが平等に死んでいる。あるものは首の骨を折られ、またあるものは臓物を
その死体の山の上に、だらりと前かがみに座ったひとりの男があった。男は全身を薄汚れた黒衣に包み、大股を広げ、膝の上に両腕を投げ出し、のんびりと見下ろしている。この城に残ったたったひとりの生者の姿を。
死体の山の下で必死に
「わた……しは……? どうなっているのだ……? わたしは……?」
唾液をなすすべもなく垂れ流しながら、狂気に呑まれかけた声で国王が問う。彼の肉体で原形をとどめているのは頭部のみである。胴体は空気の抜けた風船のように薄く
「これはッ!! 一体なんなのだーッ!?」
王が泣き叫んだ。
黒衣の男は爽やかに笑いながら、身軽にひょいと死体の山から飛び降りてきた。
「ヘイヘイヘイヘイ! なあ王様? あんた王様だろ? いけないよぉ、自分のことばっか気にしてちゃ。ちゃんと国民のこと第一に考えてあげなきゃ。
男は王の前にしゃがみ込み、不愉快な含み笑いを言葉の節々に挟み込みながら、さも親し気に語り掛ける。
「いいかい王様? もう一回言うぜ。
1378人死んだ。あと2万8千人残ってる。
あんたの決断ひとつで、今なら救える」
「屑め……貴様は屑だッ!
「やれ」
黒衣の男――
「今のはザーム通りね。人口は1000人くらい? 残り2万7千人、と」
「やめろ……やめてくれ……
私に何を……しろというんだ……」
「貸してほしい物があるんだよ。去年の秋ごろ、この国の地下遺跡から発掘された魔導帝国時代の動力源。あんたはそれの所有権を主張し、魔法学園の監視付きという条件を飲んで、後始末人協会から譲り受けたはずだ」
「何の……ことだ……」
「まったまた! とぼけちゃってえ。そのために学園の副校長が監査に来たんだろ? 表向きは王立大学での講演ってことにして、な。
おれの大事な友達のために、アレがどうしても必要なんだ。ほら、なあ、王様。教えてくれよ。
――《魔王の卵》は、どこにある?」
王の苦悩の声がこだまする。だが、聞き入れる者はもはや――ない。
(つづく)
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