■第15話 “さよなら、パストラール 前編”

第15話-01 私だけの王子様



 夕暮れの桟橋に座り込んだまま、7本目の煙草に火を点ける。穏やかな波が支柱に打ち寄せ弾け散る。海猫が漁船を追いかけ甘え啼く。どこか遠いところから、酔った水夫の古い舟歌が聞こえてくる。苦い煙が渦巻きながら肺へ滑り込み、ヴィッシュは――むせた。

 その咳を聞き咎める者さえなく、ひとり。

 ヴィッシュは煙草が嫌いだ。

 にも関わらず煙草を呑むようになったのは、他に身の落ち着けどころを見つけられなかったから。不意に過去を思い出しそうになった時、彼は吸う。いたたまれない時、辛みに耐えかねた時、そんな自分の貧弱な性根を隠してしまいたい時、つい細葉巻に火を点けてしまう。煙は包み隠してくれる。都合の悪いものも、見せたくないものも、見たくないものも、何もかも。

 第2ベンズバレンは居心地のいい街だった。

 大都市は混沌だ。そこにはあらゆるものがあり、だからこそ、何もない。誰もが自分の道を走ることに精一杯で、他人のことになど関わっては来ない。みんな彼を放っておいてくれる。煙に巻かれている気分だった。孤高と呼ぶには素朴すぎる孤立。孤立と呼ぶには快適すぎる自由。

 ずっとこのままでいいと思っていた。

 過去も思い出さず。未来にも関わらず。現在を生きる仲間さえも、二度と持たず。

 それでいいと思っていた。

 そのはず……だったのに。

 7本分の灰が海に飲まれて消えていき、8本目に手をかけようとしたところで、懐が空であることに気付く。

 目をそらし続ける時間は、これでおしまい。

 きっと、準備のできたお姫様が、そわそわしながら家で待ってる。

 ヴィッシュはゆっくりと腰を上げた。

 街と海と港とは、いつまでも微風の中に留まっていた。この10年、ずっとそう在ってくれたのと、なにひとつ変わらない姿で。



   *



「そんでね、憧れだったの。“王家の庭園”亭って言えばさァ」

「縁がないよね、庶民ボクらには。」

 ある夕暮れ。自宅の三階の部屋に、ちょんと慎ましく座った緋女がいる。椅子の後ろにはカジュが立ち、髪にブラシを当ててくれている。豚毛のブラシは毛髪の輝きを増すという。そのおかげだろうか。窓から射し込む夕日を浴びて、緋女の美しい赤毛は、炎のように燃えている。

「……っていう話をずっと前にして。それから時々、行きたいなー行きたいなーって言ってたらァー。こっそり予約取っててくれてェー!! え―――――っ!? って! なった!! の!!」

「なるよねー、それは。」

「なるよなー。やっぱなー。なっちゃったなー」

 興奮して身をよじる緋女に、カジュがどれほど温かい目を向けていたことか。

 “王家の庭園”亭は、広い第2ベンズバレンの街でも最高、どころか内海最高とさえ賞される高級料理店だ。

 貴族が客を招いた時には、自身の邸宅に雇っている専属コックにもてなしの料理を作らせるのが普通である。だが一流の腕を持つ料理人は数少なく、その賃金は並の騎士の俸給など軽く凌駕する。そのうえ第2ベンズバレンは歴史が浅い街。ここに住む貴族の大半は王都に本宅を持っており、専属の料理人もそちらに置いていることがほとんど。

 要するに、料理人の需要に対して供給が極端に欠乏していたのだ。

 この状況に目を付けたとある貿易商が、本場デュイル神聖王国から宮廷料理人を引き抜いて料理店を開いた。それが“王家の庭園”亭である。売り文句は「王都と変わらぬもてなしを、港でも」。要するに、本来自宅で行うべき接待の代行業なのであった。

 その性質上、“王家の庭園”亭の顧客は貴族階級に限られる。平民は基本的に門前払い。例外は貴族に準ずる名声と財産を持つ豪商くらいのものである。ただの狩人に過ぎない後始末人などには生涯味わうことができない、一流の味なのだった。

 ところがその店の予約を、なんとヴィッシュが取り付けてきた。いったいどんな裏技を使ったものやら。実のところ、昔ヴィッシュが助けたとある貴族からの、紹介の、紹介の、そのまた紹介で、無理をこっそり通してしまったのだった。その交渉の詳細について緋女は何も知らないけれど、想像することは容易たやすい。

 彼がどれほど真剣に駆けずり回ってくれたのか。それを想うだけで、緋女の胸は、きゅんと熱くなっていく。

「お化粧するよ。こっち向いて。」

「うん」

 目を閉じた緋女を、カジュは手際よく変身させていった。かつてカジュが、友達から――“小さき者どもホムンクルス”のロータスから習った通りのやりかたで。あの頃のカジュは、恋愛という未知の戦場に戸惑うばかりだった。今は多くのことを了解したうえで、大切な親友の背中を押そうとしている。

 緋女に口紅を差してやりながら、いっそその唇を奪ってしまいたいと、思わなかったといえば嘘になる。だがカジュは何も言うつもりはなかった。

「ね、カジュ、ほんとに行かないの?」

 顔面をなすがままにされながら、緋女が問うてくる。カジュは頬紅を綿に付けながら肩をすくめた。

「論文の直しがギリギリでね。」

「んー……じゃあ、なんかおみやげ買ってくるよ」

「屋台の飲み屋じゃあるまいし。自分の晩ごはんくらい自分でなんとかするって。ほい完成。」

 ぽん、とカジュが肩を叩く。緋女は目を開け、磨き上げた小さな青銅の鏡を見やった。薄く赤みがかった鏡面に大写しになる緋女の顔。溜息が零れる。

「あたし、かわいいな……」

「気にせず楽しんでおいでよ、お姫様。」

 カジュは吊るしておいたドレスを手に取り、ぴょんと椅子の上に飛び乗った。首元から垂らしたドレスは目の覚めるような真紅の中に、銀色の糸で薔薇を描いた見事なもの。普段表情の乏しいカジュが、ドレスの肩口からにんまりと笑顔を覗かせる。

「年上の王子様と、ふたりきりで。」



   *



 優しくノックされ、ドアを開けた緋女は、その場で丸々目を見開いた。玄関前の道路には立派な二頭立ての屋根付き馬車クーペ。御者台には年かさの雇われ御者。その脇で、物珍し気に寄ってくる近所の悪ガキどもの頭を撫で、「馬に寄るなよ、噛まれるぞ」と言葉穏やかに諭しているのは、騎士めいた正装の紳士。彼が緋女に視線を送る。

 緋女は小悪魔めいた笑みを浮かべ、ドレスのスカートをちょんとつまんで見せ、

「どうだ」

 と、ドキドキさせてやるつもりだったのに。

「きれいだ」

 なんて返されて、自分の方がときめいている。

 ヴィッシュ。緋女だけの王子様。

 彼のエスコートで馬車に乗り、石畳の道を揺られていく。まるで夢でも見ているよう。ふわりと柔らかな座席に身を沈め、バランスを崩したふりして彼の肩に寄り掛かる。彼は何も言わない。彼の吐息が髪を撫でる。彼の鼓動が頬に伝わる。その激しく乱れた音といったら。

 緋女は思わず吹き出してしまった。

「なに緊張してんだよー!」

「そりゃ緊張するだろ」

「固くなるなって。あたしがついてんだろっ」

 彼の肩をばしばし叩く。彼はほっとしたように顔をほころばせ、

「お前なァ、店についたらそういうノリは無しだからな」

「あん?」

「今夜は淑女だ」

「OK、レディな。こうか?」

 緋女は肖像画で見たような澄まし顔。彼は深く頷いた。

「いいぞ。そのまま10秒キープ」

 3秒で爆笑してしまう。

 あとはもう、笑いも収まらないまま店に到着だった。彼にそっと手を引かれ、クスクス笑いながら馬車を降りる。門前では店の給仕たちがずらりと並び、丁重な礼で迎えてくれた。最も年長の給仕長が音もなくふたりの前に進み出た。

「シュヴェーア討竜騎士、ヴィッシュ・ヨシュア・クルツティン卿でいらっしゃいますね。ようこそお越しくださいました。奥方様もご機嫌うるわしゅう」

 奥方様。緋女がきょとんとしている。ヴィッシュが苦笑する。

「いや、妻ではないんだ。妻ではないが」

 つないだ彼の手のひらが、僅かに血潮の温もりを帯びる。

「私の――大切な人なんだ」

 思わず彼の横顔を見上げた。緋女のその熱っぽい表情を、彼に見られず済んだのは幸いなのか。

 ずっとずっと後になって、この店の料理について感想を問われたとき、緋女はこう答えたという。

「味なんか、もう分かるわけない。

 入る前からお腹いっぱいだったよ」



   *



 ふたりが帰ってきたのは、とっぷりと日の暮れた後のこと。ぐでんぐでんに酔っぱらった緋女を支えて馬車から下ろしてやり、御者には迷惑料含めてチップを握らせ、片手で鍵穴を探って扉を開けて、とヴィッシュはあれこれ忙しい。緋女はひたすら寄り掛かり、上機嫌ににやにやしている。

「たのしいなー! うたおうぜー!」

「朝になったらな。みんなを起こしちゃ悪いだろ……ほらっ、もう一歩。寝かすぞ。いいか」

 緋女を居間の寝椅子に寝かせてやり、ヴィッシュはようやく一息ついた。だが緋女の腕はまだ物欲しそうにフラフラ揺れている。

「水ゥー」

「はいはい。お前こんなに弱かったか?」

「……気づけよ、ばーか」

 口の中の囁き声は、ヴィッシュの耳には届かない。甘えたくて酔っぱらったふりをしているんだ、なんて、万策のヴィッシュといえども想定外。緋女はそれがなんだか嬉しくて、つい、そのまま演技を続けてしまう。

 ヴィッシュが背中を支えて抱き起してくれる。水の入ったカップを唇にまで運んでくれる。そのごつごつした手のひらを包むように、緋女は彼から水を受け取った。向かいの椅子に彼が遠ざかっていく。ほんの一歩か二歩の間合い。戦場だったらいつでも斬って捨てられる距離。なのにその僅かな空間が、肌が触れあっていないという事実そのものが、今は妙にもどかしく、寂しい。

 ヴィッシュが水を口にして、低く唸った。

「いや、それにしても……美味かったな」

「お前のとどっちが美味いかな」

 にやりと不敵にヴィッシュが笑う。

「味は覚えた」

「さすが! 今度作ってよ」

「ああ、もちろん……」

 と。

 ヴィッシュが言い淀み、言い淀んだ事実を誤魔化すように、水差しから自分の杯に水を注ぐ。

 緋女は、深く……深く……溜息を吐く。

 夜の、美しいまでに純粋な沈黙が、涼しくふたりの間を流れていく。

「ね」

 斬り込んだのは、緋女だった。常にそうであるように。

 ヴィッシュの、水を注ぐ手が止まる。

 一口に飲み干す。

 次を注ぐ。

 口元に付け。

 僅か、唇を湿し。

 全てを諦め、ヴィッシュは杯を机に置いた。

「なんで……分かっちまうのかな……」

 ゆっくりと背を丸め、ヴィッシュは床に視線を落とした。膝の上で握った拳が、凍えて震え、静寂の中に小さな衣擦れの音を立てた。

 しかし。

「もう料理は作ってやれない」

 言わねばならない。伝えねばならない。黙ったままではいられない。

「俺はこの街を出る。これでお別れだ――緋女」

 せめて、まっすぐに見つめながら。



(つづく)

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