第14話-06(終) 聖女、汚辱
ふたりきりになった途端、アンゼリカは錬金術師を抱き締めた。慌てふためき、枯れ木のような老人がたじろぐ。
「離せ、離せ、小娘」
言いながら、嬉しそうな声の上擦りは隠せぬ彼であった。アンゼリカは言われたとおりに手を緩め、しかし片手は彼の胸に添えたまま、目尻を拭って微笑んだ。なぜ涙が零れたのだろう。ひと目で見抜いたのに違いなかった。己を訪れた懐かしい顔が、性欲をも凌駕する暖かな好意に満ちていることを。
「お久しぶり」
「その通りだ、合っている。本来ならもっと早くに来るはずだったが」
小首を傾げる彼女から、錬金術師は目を逸らす。愛らしすぎて直視することさえ耐え難い。
「お前を……その、抱きたくなったのだ。あれから3日目の夜に。焦がれた。恋をした。醜いこの老人がだ。笑うがいい」
「笑いません。嬉しく思います」
きっぱりと聖女は言った。
「あらゆる愛に貴賤はありません。若き愛も、老練なる愛も、たどたどしい愛も、歪んだ愛も。全ては命の源、神聖なる感情。恥じる必要はありません――もっとも、羞じらいは愛を美味しくもしてくれますが」
そこにいささかの嘘も嘲りも感じられぬ。教会で聖句を聞くが如く、心穏やかに彼はその言葉を聞いた。救われた、と確かに感じた。ゆえに、次は聖女自身が救われねばならぬ。
「聞き及んでいよう、かの若者がことは。街中の男を嘆き悲しませるそなたの不調は、それが原因と見た」
ためらいがちに頷くアンゼリカに、錬金術師は語って聞かせた。あの夜以来のことを。
あの夜。薬屋から少女が立ち去って3日目の夜。彼はアンゼリカの屋敷に忍んでいったのだ。大雪の中、どうにもならない性欲に駆られて。
ちょうど門が見えるあたりに差し掛かった時、力士が青年を担いで出ていくところに出くわした。途端、おかしなことに欲望がふっと消え失せた。やらねばならぬことがあると感じた。そこで力士の後をつけた。青年が棄てられたのを見ると、彼を助けるべく駆け寄った。
何故そうしたのかは、よく分からぬ。この青年が自分と同じ穴のムジナ――同じ女に恋焦がれる者であることは察していた。そのために恐るべき拷問を受けたことも。仲間意識のようなものが湧いたのやもしれぬ。
ともあれ、噂の化物はオーデルに相違ない。化物に変身してしまったのは、何が良くないものに取り憑かれたせいであろう。彼の狼藉はもはや許容できないところにきている。既に狩人が、勇者の後始末人が差し向けられたという話もある。このままでは、いずれ彼の命は……
少々の推測も交えて、錬金術師は知りうる限りを語ったのである。
寝椅子に腰掛け、黙って聞いていたアンゼリカは、話が途切れると、か細い声でこう問いかけた。
「私は……どうするべきなのでしょう?」
「それを知っているのは、お前自身ではないか?」
錬金術師は懐を探り、小瓶をひとつ取り出した。聖女が目を見開く。手のひらに収まるほどの他愛もない薬瓶。あの日手にした、あの愛の猛毒にそっくりな。
「それは……」
「私が調合した秘薬だ。ひとくち飲めば勇気が湧いてくる。己の成すべきことを見出させてくれる」
「まさか」
「私は誰だ?」
「世界一の錬金術師」
「その通り、正解だ」
薬瓶が差し出された。
伏した瞼をもたげれば、
吐息は、春のそよ風のよう。
「見えたか」
「はっきりと」
「ならば私の役目は終わった」
「どうして……こんなに私に親切にしてくれるのです?」
錬金術師は笑った。初めて見せた笑顔であった。
「すっかり毒気を抜かれたからだ。他の男どもと同様に」
つられてアンゼリカも微笑んだ。淫靡には遠い、無垢なる少女の微笑みだった。あの頃捨ててきたものを、ようやく少し、取り戻せたような気がする。
「ありがとう、愛しいおかた」
「嬉しい言葉だが、それは後にとっておけ。もっと相応しい相手がいるだろう」
「そうかもしれません。でも、今は」
聖女は不意に立ち上がり、錬金術師に身を引く暇さえ与えず、奇襲じみた口づけをした。彼女の得意とする、舐めるように丹念なキス。枯れた老人にはいささか刺激が強すぎる。男は藻掻き、足掻き、しかし引き離すこともできず、口の中のあらゆる所を
とうとう足腰が立たなくなり、彼は、アンゼリカのからだに押し潰されるように、絨毯の上にくずおれた。
無垢なる少女はどこへやら。上に覆いかぶさり、男を全身で押さえつけ、聖女が鼻先で淫らに笑う。
「今はあなたが恋人なの」
そして行われた愛の行為は、あまりに激しいものだった。激しすぎて危うく、錬金術師が命を落としかけるほどであった。
余談ではあるが、アンゼリカを奮い立たせた秘薬について次のような話もある。後々、かの薬の製法を問われ、錬金術師はこう答えたという。
「簡単だ。鍋に水を入れろ。沸かせ。それだけだ。
成すべきことは常に己の
……騙したのか、だと? そうだとも。
私はあの子に毒気を抜かれた。しかし、ペテンは毒のうちに入らぬと見える」
*
件の都市遺跡は、街から3日のところにあった。途中までは馬車で街道を、その後は慣れぬ
丘を越え、沢を渡り、森を抜けて、道なき道をひた歩く。貴人にとって、この旅はどれほど過酷であったろう。なにしろこれまで絨毯か石畳の上を、それもごく僅かにしか歩いたことがないのだ。脚はすぐに棒となり、豆ができては潰れ、薬屋が持たせてくれた膏薬はみるみるうちに減っていった。今やひと足ごとに激痛が走るありさまだ。それでも不思議と苦にならぬ。微笑みさえも浮かんでくる。あの夜、彼もこんな気持ちだったろうか。嵐の中、三夜も続けて逢いに来てくれた可愛いひとは。
意気揚々と進むうち、不意に森が途切れ、それは姿を現した。
広大な、あまりにも広大な。――“墜ちたルルフォン”。
あのひとが、ここにいる。
*
「おい、あんた」
話に聞いたオーデルの棲家へ向かう途中、彼女らを呼び止める声があった。男がひとり、脇にそびえ立つ傾いた建物を滑り降りてくる。全身に奇妙な道具を無数にぶら下げ、腰には飾り気のない真っ直ぐな剣を佩いている。
連れの男たちは警戒をあらわにしたが、聖女はそれを手で押し留めた。相手は男。恐れる理由がどこにあろう?
「何しに来た?」
「あるおかたに逢いに」
「こんなところにか? 一体誰が」
「オーデル」
と、囁いた名に、男は顔色を変えた。アンゼリカの目に浮かぶ、静かな決意の色を見抜いたようであった。
男は狩人、勇者の後始末人ヴィッシュと名乗った。彼は丁寧に教えてくれた。オーデルは確かにこの先にいる。しかし奴はもう人間ではない。何者かの魔術によって変貌し、今や手のつけられない凶獣に成り果てたのだ。たとえ昔の知り合いでも、近づくのはやめたほうがいい。もはや人の理性を残してはいまい。
「俺もこれ以上近づけないんだ。奴は強すぎる」
「では、ここで何を?」
「足止めしながら仲間を待ってる。連れが来りゃあ……」
「あのひとを殺せるというの?」
眼差しは氷の刃の如く。
狩人は絶句し、たじろいだ。もとより小娘だからと侮ってかかる男ではなかったが、今やひとりの人間以上のものをアンゼリカに見出しかけていたのであった。
聖女は厳かに歩みだした。我に返った狩人が慌てて止める。その時、物陰から様子を伺っていた肉食の魔獣が、アンゼリカ目掛けて飛び掛かった。獣から見れば、彼女は群れから離れた弱い獲物に過ぎぬ。
魔獣が止まった。本能的な恐怖を覚えさえして。
聖女は滑るように近づいていき、獅子に似た魔獣の首筋を撫でる。信じられぬことだが、決して人には慣れぬはずの獣が、うっとりと目を細め、恍惚に浸っている。
「この子は、男? それとも女?」
狩人が言葉に詰まっていると、聖女は親切にも問を投げ出した。
「まあ、どちらでもよいこと」
そして愛撫が始まった。一瞬のことであった。聖女の指が剣さながらに獣をなぞると、獣は心地よさげにひと声唸り、次いで体を大きく痙攣させ、すぐさま膨大な量の精を吐き出した。
唖然とする男たちの前で、獣が大人しい犬の如く跪く。聖女の、精に汚れた足元に。
いや。彼女自身では、汚れたなどとは思うておらぬ。
「狩人様。私に時間をくださいませ」
擦り寄る獣の頭を撫でてやりながら、聖女は願うでもなく願い出た。
「彼は私が救います」
*
そこは聖堂めいた場所。
元は何に使われた建物だろう。広い部屋には朽ちかけた椅子が並び、左右の壁には枠のみが残された窓。いつの間にか日は没し、月の輝きが差し込んでいる。真っ直ぐに伸びた光が、奥の祭壇を照らし出す。そこに黒黒とわだかまる、輪郭を持たぬ生き物をも。
「オーデル様」
名を呼ぶと、わだかまりが動いた。こちらを振り返った――ように見えぬでもなかった。
「君なのか」
「あなたなのですね」
わだかまりは、大きく伸び上がって後ずさった。すぐに壁に背がついた――それが背中であったなら。彼は、懐かしさと愛しさと、それ以上の恐れを込めて声を張り上げる。
「来るな! 来ないでくれ……」
「いいえ、参ります。かつてあなたがしてくれたように」
「やめてくれ。話ができるのは今だけなんだ。すぐに俺は俺でなくなってしまう。
外の狩人を呼んでくれ! どうして早く殺してくれないんだ! このままじゃ」
狂乱のさなかに、彼は腕を振り回し、近くの柱を一本圧し折った。腕。無くしてしまったはずの。近づいてみれば、それは腕ではなかった。オーデルの体の、本来四肢があるべきところに、うねり、ぬめくる、無数の長く細い触手が生えていたのである。全身を覆い尽くすほどの触手が絶えず――恐らくは彼の意思に反して――蠢き、ゆえに彼の体は輪郭さえも定まらぬありさまとなっていたのだ。
「来ないでくれ。君を傷つけてしまう。
俺は人間じゃないんだ」
「私だってそうでした」
と。
触手が、ざわめいた。
ひととき収縮したかと思うや、一挙に伸び上がり、アンゼリカを絡め取った。彼の嘆きが聞こえる。触手はアンゼリカの脚を、指を、腹を、首を、至るところを同時に舐め回し、その花びらのような唇から甘い吐息を零させた。触手の丸い先端が、服の上から胸を突く。いかにも柔らかげに、つぷり、と触手が沈み込む。
「やめろ! やめろ! 俺は……」
「いいえ。これで良いのです」
触手に縛り上げられ、両腕を頭の上にして磔刑の如く吊られ、頬を悦びの桜色に染めて、アンゼリカは涙を滲ませた。それは悲しみの涙ではない。喜びともまた違う。至るべきところについに至った、迷い、悩み、ときに邪魔され、それでも一歩ずつ歩み続けた、その重みが流さしめた涙。
「恥じることはありません。
誰もが求めているのです。愛の往く末。登り極めて往き果てるべき処を。
そして私も、淫らな女」
微笑みは、乙女のそれであった。
「ずっとあなたに抱かれたかった」
そこで――彼の意識は弾けた。
触手が殺到する。衣の中に分け入る。スカートの裾から、袖口から、脇の結び紐の隙間から。そして
「ひぁっ……」
声が出た。出さずにいられなかった。歌うように。狂ったように。しとどに濡れた。乙女の聖地が、衣の奥で。
触手が足元から腿を舐めつつ登っていき、ついに、そこに指先を触れる。
何本もの、何十本もの触手が、その先端が、乙女の秘所を突き、突いては離れ、しかし決して強くは責めず、聖女をたまらなく高ぶらせながら生殺しのままにいじめ続けた。
腰がひとりでに動く。動かさずにいられぬ。焦らされ、もてあそばれ、玩具にされて、それがアンゼリカを興奮させる。お願い、早く。ぽろぽろと涙を零し、アンゼリカは懇願した。
「お願い! 挿れて……挿れてぇっ!」
おねだりの褒美が一挙に子宮を突き上げた。
途端、絶叫が聖女の口から迸った。何という快楽。何という衝撃。奥の奥まで貫いた触手は、中の壁を擦り上げながら行きつ戻りつ、膨らみ、うねり、今度は螺旋を描いて回転を始める。最も敏感なところをいいように掻き回されて、意識が飛ぶほどの快感が炸裂する。なのにまだ終わりではない。全身を覆う触手の絨毯が、肌という肌を余すところなく、一斉に愛撫し始める。まるで唾液をたっぷりと含ませた百万の舌に舐め回されているかのよう!
アンゼリカは達した。行って果てた。だが次がある。その次もまた。敏感になった彼女の中を、触手どもは滑り行っては滑り出る。もはや行くのが止まらない。突かれるごとに果て、抜かれるごとにまた果て、永久にそれが繰り返される。ここは天国? それとも地獄? どちらでもない。
現実の世界を塗り潰す、終わりのない肉欲の宴。
ついに、オーデルが愛らしく呻いた。触手の先端から、花の咲くように白い精がぶちまけられた。甘やかな香りを全身で受け止め、アンゼリカは微笑した。依然、触手の拷問を受けながらであったが。
と、そのときであった。
オーデルの体を覆う触手の一本が、突如黒く爛れ、焼け落ちるように崩れ落ちた。
アンゼリカは目聡くそれに気付いた。今、彼の悪意がひとつ砕けた。彼を絶頂に至らしめるごとに、この触手はひとつづつ消えていくのだ。ならば、為すべきことはたったひとつ。全ての悪意が消え失せるまで何度でも交わるのみ。たとえ目の前に、何千、何万の触手が蠢いていようとも。
アンゼリカは囁いた。
「いっぱい出せたね」
淫らな聖女。あるいは、聖なる娼婦の声で。
「もっと、いっぱい、しよう?」
*
その後については、ほぼ、都の噂に登っているとおりである。
狂気の交わりは6晩7日に及び、その後ついに嬌声は途絶えた。狩人ヴィッシュが様子を見に行ってみれば、もはや触手の化物の姿はどこにもなく、ただ、おびただしい精液の海で寄り添い、安らかに寝息を立てるふたりがあるばかりであった。聖衣を引き裂かれたアンゼリカと、四肢と引き換えに大切なものを取り戻したオーデルとが。
オーデルは正気を取り戻し、その後はアンゼリカの屋敷で、彼なりの有益な仕事を始めた。
そしてアンゼリカは、今夜も男の暴威を鎮めている。
淫らな聖女、そのうるわしき愛の聖技でもって。
THE END.
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