第13話-04(終) 暗闇の中に、ひとつ



 分かり合うことはできるのだ。

 心は通じあえるのだ。

 たとえ人ではなかろうと。

 詩人がいた。詩人はひとりだった。詩人は闇を彷徨い、詩人は探し求めた。何を? 我が娘を。共に暮らしてきた愛しいものを。彼女に捧げたこの10年を。だがここには何も無い。森は閉ざされ、雨は容赦なく頬を打ち、ずぶぬれの衣服が鉛のようにぶら下がる。彼には猟犬の鼻もない。狩人の健康な肉体もない。

 どうすれば、逢える?

 必死に頭をめぐらし、思いついたことはひとつであった。

 歌。

 幾度となく聞かせた。狂おしいほどの、愛の歌。



   *



 速い。ナギの肌がぞっと粟立つ。どれほど走ろうと、どれほど飛ぼうと、猟犬はぴたりと背後を付いてくる。こんなことは初めてだった。自分に追いつける獣などいるはずがなかった。ナギは狩人だった。生まれて初めて、彼女は狩られるものの恐怖を味わっている。

「あッ……」

 救いを求めて、ナギは鳴いた。

 救いを、誰に?

 そのとき聞こえた。かすかに届く、愛おしい歌。

 詩人が、ナギを呼んでいる。

「うっ、うっ、うーっ!」

 ナギは叫んだ。腹のそこから、全てを吐き出し、必死の声で歌に応えた。もはやそこに狂気はない。血は雨が拭い去った。眼が潰れ、涙を流せぬ身の上であった。だのに、誰の耳にも明らかだった。彼女の放つ声、そのひとつひとつが涙であった。

 と。

 ナギの頭上で轟音が響いた。追いすがる猟犬はその目で見て、ナギは経験と感性で、事態を察した。この豪雨で崩れた土砂が、まさにこのあたり目掛けて襲い掛かりつつあった。ナギは逃げた。緋女は追った。度胸の差が明暗を分けた。すなわち、勇敢に後を追う緋女だけが、僅かに逃げ遅れて土の洪水に巻き込まれたのであった。

 犬の咆え声が後ろに遠ざかり、ようやく死の恐怖から解き放たれて、あとはただ、一心不乱にナギは走った。行くべき場所はただひとつだった。歌声はまだ聞こえている。ずっと彼女を待っている。行かねばならない。帰らねばならない。生半可な理屈など、この渇望の前にはどれほどの意味があろう。

 歌が、近くなる。

 ナギが、呼ぶ。

 つかの間の、心躍るふたりの対話。

 九つの泥を避け、十一の雨をくぐり、十三の藪を貫いて、ナギは暗闇に踊り出る。

「う―――――ッ!!」

 その先に。

 詩人はもろ手を広げていた。

 ナギは迷わず、その胸の中に飛び込んだ。



   *



 近くに手ごろな洞穴があったのは幸いだった。洞穴というよりも、斜面の下の山肌に出来た僅かな窪み程度のものではあったが、一夜の雨を凌ぐには充分だ。問題は、日が暮れて厳しく肌を突き刺し始めたこの寒気だ。春先とはいえ、夜ともなればまだまだ冷える。そのうえ、雨具をつけてきた詩人はともかく、ナギは全身ずぶぬれだ。

 詩人が服を脱がしにかかっても、ナギは抵抗ひとつしなかった。彼の手の為すがままにまかせた。彼女の瑞々しいからだが、月の光に晒された。詩人は息を呑む。何もかも忘れて裸体に見入る。彼の指が、ナギの腕に触れた――そこで我に返った。残りをさっさと脱がしてしまい、自分もぼろぼろの雨具を外した。

 濡れていない布は、詩人が身につけていたものだけだ。それをふたりで共有し、身を寄せ合って丸くなる。ナギの頬が詩人の腕をさすった。いつものように角が腋に擦れた。肩を抱き寄せると、彼女は嬉しそうに笑った。

「ごらん、西の空には雲がない」

 ナギは不思議そうに、詩人の顔を見上げた。吐息が顎の下をくすぐる。

「夜が明けて、雨が上がったら、ここを離れよう。どこか遠くへ行こう。狩人たちも、後始末人も、追いかけてこないような、遠い場所へ……」

「うー」

 言葉の意味は、分かるまい。

 それでも、この腿をくすぐる彼女の手のひらには、全幅の信頼が籠もっているのだ。

 放すものか。

 離れるものか……

 何日かぶりの温もりに、詩人はいつしか浅い眠りに落ちた。



 まどろみの中で夢を見た。どんな夢だか覚えていない。ただおぼろげな印象があるだけだ。言いようもなく激しく、この世の何よりも甘やかに、全てをかなぐり捨てて何かを求めていた。



 夢の途中で目が覚めた。月は天頂にかかり、雨音はもはやなく、隣には、自分に寄りかかって少女が寝息を立てている。

 ふたりを包むひとつの雨合羽が、わずかに、ずれた。

 少女の無垢な乳房が、零れ落ちるように、詩人の前に現れた。

 ここは――?

 いまは――?

 目覚めは現し世と常世のはざま。

 これは夢の続きか、それとも。

 定かならざる意識の中で、詩人の指は、彼のものではないかのように動き、滑り、乳房の先に、触れた。

「ぅ……」

 眠ったまま、少女が息を漏らす。

 おんなの声で。

 その瞬間、彼の何かが壊れた。

 優しさはどこかに消え失せた。粗暴が彼の全てとなった。引き寄せ、押し倒し、覆い被さり、夢中で少女の唇を奪った。少女が目覚める。暴れ始める。だが、自分を蹂躙する男が、自分の良く知る者だと知ると、一切の抵抗を諦めた。それどころか、

「ぁ……」

 と悩ましく吐息を零して、彼の背に腕を回したのだった。

 抱き寄せられるまま少女と肌を合わせ、暗闇の中で少女をまさぐる。なんと滑らかな肌か。なんと柔らかい肉付きか。誰にも許したことのないからだの全てが、いま男の手中にある。

 全て俺のものだ!!

 恐るべき肉欲の爆発が彼を奮い立たせ、今にも愛の茂みに分け入らんとした――そのときだ。

「ぎゃぁぁぁああああぁあああッ!!」

 詩人の悲鳴が音も無き夜空を覆いつくした。

 飛び退いた。狂って、喚いて、地面に手を突こうとして、体を引き裂かれたかのような痛みに悶え苦しむ。

 詩人は愕然とした。

 肩の肉を食い千切られた。

 涙が零れた。嗚咽が漏れた。脂汗は、止まることを知らぬ血と混ざり合って滝となり、重く岩を叩いて爆ぜた。

 月の下。

 あれほど魅惑に充ちた肢体が、今や、口から滴る血に濡れて。

 あまりにも美しく。

 あまりにも凄絶に。

 鬼がそこに立っていた。



   *



 ヴィッシュは、声を聞きつけ顔を上げた。

「……言わんこっちゃない」

 隣で横になっていた猟犬が、首を持ち上げ、鼻を鳴らした。その体には何箇所か包帯が巻かれている。土砂崩れに巻き込まれた時に負った傷だ。本来ならあの程度で負傷する緋女ではない。だが、なるべく殺すなというヴィッシュの指示が仇になった。

 彼は責任を感じていたのだ。

 ゆえに、立ち上がろうとする相棒を手で制し、彼はひとりで走り出した。

 たとえもう、すべてが手遅れであったとしても。



   *



 鬼が、鉄棍を持ち上げた。

 ひたり。ひたり。迫る足音を聞きながら、詩人はようやく理解した。

 たとえ心が通じ合っても、肉の体は――

 後始末人の言葉が蘇る。

 そうだったのだ。

 心と乖離した自分の体に気づき。思い通りにならぬ己の中の獣に怯え。それゆえナギは、詩人を避けた。

 どうにもならない食欲に、耐え続けていくために。

 詩人が、我が娘への肉欲を隠し続けていたのと同じように!

「わたしは……わたしは間違っていた……」

 涙が零れ、血に混じる。

「救ってやるつもりで、ずっとお前を、苦しめていたんだな……」

 決して溶けることなく、ふたつ、別れる。

 ナギの体はもう、眼と鼻の先にあった。

「すまなかった……」

「ぬるいことを――」

 声。

「言ってんじゃねえッ!!」

 上から。

 後始末人が舞い降りる。

 渦巻く不可視の鞭。鬼が飛び退り、しなり迫る刃の糸を、音のみを頼りに避ける。だが甘い。鞭はヴィッシュの手足の如く自在に動き、複雑な軌道を描いて絶え間なく鬼に襲い掛かる。ひとつ、ふたつ、小さな切り傷が肌に赤く線を引き、鬼はたまらず後退した。

「やめてくれ!」

 詩人は懇願した。見ていられなかった。ナギをこれ以上傷つけたくなかった。

「わたしはナギに食われるなら本望――」

「お前を食ったら、あの子はどうなる!」

 詩人が絶句する。

「まだあの子を苦しめる気か!!」

 ヴィッシュを黙らせようとでもするかのように、鬼は鉄棍を両手に構えた。

 ここからが本番だ。

 汗が額に玉となり、伝い降りて鼻から落ちる。

 雫が岩に跳ね返り――

 来る!

 鬼が走る。棍が唸る。ヴィッシュは鞭を巻き戻し、再び射出。手首を捻り、糸を棍に絡ませる。突如手元に生まれた抵抗、鬼は一瞬動きを止め、しかしすぐさま得物を棄てた。迷いのない動き。やってくれる、アテが外れた。

 舌打ちしつつヴィッシュは横に跳んだ。鬼の爪は僅かにヴィッシュの袖をかすめる。避けた、と息をつく暇もなく、鬼は着地するなり方向転換、恐るべき脚力で飛びかかる。この崩れた体勢で避けるのは、無理。

 ヴィッシュは手元の引き金を引き、最速で鞭を巻き上げた。

 先端に絡まっていた鉄棍が、唸りを上げて引き寄せられる。鬼がはっと気づいたときにはもう遅い。鉄の塊が背後から迫り、鬼の背中を強かに打つ。喘ぎ、倒れる鬼を睨んで、ヴィッシュは転がりながら立ち上がる。

 鞭の射出口を、鬼に向ける。

「いま楽にしてやる!」

 だが。

 その視界を塞ぐ影があった。

 詩人。

「おま……」

 一本きりの脚に全ての力を込めて、詩人がヴィッシュに飛びついた。驚きのあまり避けることも忘れ、重い一撃をみぞおちに喰らう。そのままもつれ合って倒れこむと、詩人は声を嗄らして叫び狂った。

「ナギ! 逃げろ!」

「何を……」

「行け! 走れ! 遠く離れればっ……」

 鬼が、ゆらりと、立ち上がる。

 弛緩した脚が、辛うじて肉体を支えている。

 ヴィッシュは焦り、詩人を引き剥がそうともがいた。だが、一体どこにこんな力を隠していたのか。枯葉のように軽いはずの詩人は、今や鉛よりも重くヴィッシュを押さえ込んでいる。

「たとえからだが傷つけあっても、想いは――!」

 迷いの気配がした。

 悲しみの匂いがした。

 最後には、ただ愛のみが残る。

 ようやくヴィッシュは、詩人を押しのけ立ち上がったが、そのときにはもう、ナギの姿は森の最奥へと消えていたのだった。



   *



「任務失敗、か」

 翌朝、猟犬を連れて山を降りる後始末人の姿があった。

 その瞳に力はなく、その背中に覇気はない。犬が心配して顔を見上げる。きゅうん、と鼻を鳴らす。ヴィッシュは苦笑した。

「しょうがないさ」

 彼は懐を探った。だが取り出した細葉巻は、昨夜の豪雨ですっかり湿気ていて、とても火がつきそうもない。諦めの溜息は、紫煙の代わりにはならなかった。このやるせない敗北感を、包み隠してはくれなかった。

「しょうがなかったのかな……」



   *



 詩人はそれから、またあの小屋で生活を始めた。

 ふたりの思い出に充ちた家は、ひとりになってしまったことを否応なく彼に突きつける。だがそれでよいと思えた。ここで、ナギを想い、苦しみ続けることで、せめて自分自身に罰を与えたかったのかもしれない。

 幸い、この10年の暮らしで鍛えた体は、山での生活にも充分堪えた。村々を巡って歌物語で稼ぐ手腕も、いつのまにか磨かれていた。必死でナギと歩んできた足跡のひとつひとつが、彼の新たな糧となってるかのようだった。

 ある夜、彼は懐かしい声を聴いた。

 慌てて小屋から飛び出し、辺りを見回す。耳を澄ます。何も聞こえない。静謐なる山の夜が広がるのみだ。ただの聞き違いだったのか。ナギを想う心が聞かせた幻だったのか。

 いや、しかし。

 彼は、その場に胡坐をかいた。

 そして歌い始めた。ナギのよく知る、ふたりを繋ぐ、あの歌を。力の限り声を張り上げ、いくつもの山々を越えて、遥か彼方のナギへ届けと願いを込めて。

 歌のこころは、誰も知らない。聴くものもなければ、伝えるものもなかったから。だが、ふたりだけが知っていた。その歌声は道しるべ。行く先も見えぬ現し世に、仄かに、あかりの灯るが如く。

 暗闇の中に、ひとつ。




THE END.




■次回予告■


 幼くして両親を亡くした貴族の令嬢アンゼリカ。疑うことも知らぬ無垢な少女は伯父のもとへ引き取られたが、それは果て無き凌辱の始まりであった。夜毎淫らに作り変えられていく心と体。渦巻く愛欲の海の底、溺れる天使は何を見出す?


 次回、「勇者の後始末人」

 第14話 “淫らな聖女、アンゼリカ”

 Angelica : the Sacred Prostitute


乞う、ご期待。


(7月下旬、公開予定)

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