第13話-03 心と、肉と
何かが自分の中にいた。
そうとしか思えなかった。言葉を知らぬナギには、それを訴える術はなかったが。
内側で暴れる何者かに突き動かされ、ナギは山を駆けた。細部まで知り尽くしていたはずの山々が、今は全く違って視える。眼ではない、肌が違うと感じている。降りしきる雨。暗闇の肌触り。光なき世界。
野兎が身を潜めるのを聴いた。と思ったときには、既に獲物は手中にあった。兎の肉を力任せに引きちぎった。はらわたが溢れ出た。それを牙もて噛み千切り、雨水交じりの血を啜る。歓喜の雫が喉を潤す。
「あ!」
ひとときの充実が、声となって漏れた。
だが、欲望は不思議なもの。
もっともっと、欲しくなる。
もっともっと、素晴らしいもの。
と、そのとき、森の木々がざあっと揺れて、何かがナギの上に覆いかぶさった。それは大きな投網であったが、眼も効かず知識もないナギには知る由もない。ただ混乱を来たし、突如戒められた自分の体に苛立ち、暴れ狂うのみだ。
その耳でナギは足音を聞いた。ひとつ。ふたつ。たくさん。森の獣とは全く違う、鈍重で二本足な足音。
「おうおう、いきがいいねえー」
心底うれしそうに、男は言った。
ナギには見えまいが、そいつは小太りの中年の――あの奴隷商であった。両脇には屈強な男たちが数名。そのうえ魔法使いじみた格好の者もいた。
「野性味が残るくらいがいいからねえ。料理したあとでも」
けだものの声でそう言って、奴隷商は、笑う。
それを聴きながら、ナギは何を思うだろう。
怒り。ではない。
恐れ。違う。
彼女をたったひとつのものが埋め尽くす。
嬉しい。
鬼が牙を剥いた。
*
「“腑分け鬼”って知ってるか」
詩人が怒りを顔面に貼り付けたまま何も言わないのを見て、ヴィッシュは一方的に続けた。
「魔王軍が創り出した魔物のひとつさ。鬼をベースとして、人肉を好んで食うように操作が施されている。もちろん、味方の魔族はお好みじゃないって寸法だ」
「あの子がそうだというのか」
「幼いうちはまだいいが、成体になれば本能的に――」
「ナギはそんなことはしない!」
「もう、ひとり食われてるんだ」
雷鳴が走った。
体が石にでもなったかのようだった。
この男が何を言っているのか、詩人にはとても理解できなかった――いや、理解したくなかったのだ。
「5日前、この近くで狩人が襲われた。その相棒が逃げ帰って言うには、襲ってきたのは女の鬼なんだと。年のころは12、3。目元に眼帯を巻いていたそうだ。
心当たりはないか? 人肉に執着を示していたり。長いこと家に戻らなかったり。よそでたらふく食べてきたようなそぶりだったり……」
全てに思い当たるふしがあった。
詩人は、浮かした腰をむしろの上に落とした。体中の筋肉という筋肉が萎え、まるで他人の体でもあるかのように、重荷となって彼に圧し掛かった。
「うちの若いもんに言わせりゃあ、鬼とヒトが似てるのは、
あの子は俺たちとは別物だ。
あんただって例外じゃない。このままじゃ……あんた、あの子に食われるぞ」
「そんな……わけがない……」
詩人の声は、雨音に掻き消されそうなほどに、細く。
「ずっといっしょだったんだ……
わたしとナギは、通じ合っているんだ……」
ヴィッシュはたっぷり時間をかけて、長く長く煙を吐くと、短くなった煙草をかまどの火に投げ込んだ。
「たとえ心が通じ合っても、肉の体は――」
と。
「わん!」
そばで丸まっていた赤犬が、ぴんと耳を立て跳ね起きた。一声、勇ましく吠え立て、体当たりで戸を開け飛び出していく。何か聞きつけたのだ、と察したヴィッシュは急ぎ後を追う。
「あんたはここにいろ! いいな!」
そう言われて、大人しくしていられるはずがなかった。
あのヴィッシュという男は、ナギをどうするだろうか。
始末人らしく、魔物を始末するのだろうか。
それを許せるわけがない。
詩人は杖を手に取った。
*
猟犬が走る。矢のように。
ヴィッシュには必死に後を追った。緋女が聞きつけたのは荒事の音であろう。もはや一刻の猶予もならない。腑分け鬼は――ナギは、人肉の味を知ってしまった。ふたたび同じことを繰り返せば、もう二度と戻れなくなる。
こちら側には。
――ほとほと甘いぜ、俺も。
軽く舌をうち、茂みを飛び越え、その先で、はたとヴィッシュは足を止めた。
先行していた緋女が止まっている。耳を立て、尻尾をじっと寝かして、油断なく気配を探っている。
「どうした?」
問いに答えたのは猟犬ではなかった。山道の奥から、足を引きずり現れた、ひとりの男。
「助け……ばけもの……」
男は、倒れた。
豪雨が洗い流してなお、止まることなく吹き出る血。地面がどす黒く染まっていく。
「……遅かったか」
苦虫を噛み潰した顔で、ヴィッシュは呟く。猟犬と狩人は、慎重に、一歩ずつ歩みを進める。獣道。深い茂み。得物の鉄棍を片手に構え、そっと、向こう側に回り込む。
獣が、そこにいた。
倒れた男が、みっつ。そのうちのひとつ、小太りな中年の奴隷商、だったものの上に、股を開き、圧し掛かり、身をかがめ、下腹部に口よせ、そこを、刃よりも鋭い牙もて食い千切る、鬼。
欲望に閉ざされた眼で。
血塗れの臓物をぶらさげた口で。
鬼子は、ニパリと笑みを浮かべた。
「馬鹿野郎ォ!」
狩人が走る。大振りに薙いだ鉄棍。鬼は地面に手を突き宙を舞い、その一撃を軽々と避ける。だがこちらは陽動。本命は、着地を狙って喉元へ――緋女の牙。
「あっ!」
歓喜の声。鬼が身を捻る。蹴りは一陣の風となり、犬の横腹に食い込んだ。悲鳴と共に転がる緋女。無事でいろよ! と祈って狩人が踏み込む必殺の間合い。体を張って仲間が作ってくれた隙。鉄棍が唸る。
だが。
板金鎧さえ
「なッ……」
反撃の拳が来る。咄嗟の判断、棍を放して後ろへ跳ぶ。その腹に鬼の鉄拳が食い込んだ。革鎧を抜け、筋肉の守りを破り、衝撃が臓腑へ貫き通る。漏れる苦悶の呻き。逆流する胃液。直前に後退した機転がなければ、背骨の一つも折れていた。
「あっは!」
奪い取った鉄棍を、鬼は嬉しそうに振り回す。
敢えて選んだ得物が裏目に出た。ヴィッシュは歯噛みする。甘く見ていた。なるべくなら殺したくない、10年ヒトとして生きてこれた、その事実を切り捨てたくない、なんてぬるい考えだった。
「こいつは切れすぎンだよ……」
懐から、取り出したのは白く短い棒。剣の柄だけを切り取ったかのような。
「もう加減はできねェからな!」
棒の先端が爆ぜ飛んだ。弓なり風切る、親指の先ほどの錘。その後ろ、雨粒を裂いて一筋の線が走るのが分かる。細く、あまりにも細く、雨滴がなければ眼にも見えなかったであろうそれが、ヴィッシュが手に入れた新たな切り札。
細く強靭な
短く息吐き、ヴィッシュの手が舞う。不可視の鞭は彼の意のまま、生き物のようにうねり渦巻き鬼の周囲を取り囲む。本能で危険を察したか、鬼が後退する。が、その肩が鞭にあたった途端、ぱくりと裂けて血を迸らせた。
これが
鬼の悲鳴が怒りに変わった。逃げられぬと判断したか、鬼は真っ直ぐヴィッシュに向かって走る。振り上げる鉄棍。この動きは予想済み。柄の引き金を引き、魔導機械で鞭を巻き上げ、短くした糸で前方に輪を描く。鞭の壁、いや待ち伏せの罠だ。知らずに突っ込んでくれば相手の体はずたずたになる。
が。
そこに飛び込む直前、鬼は地を蹴り跳躍した。
狩人の背筋に悪寒が走る。鞭の壁を飛び越え、宙返りして鬼が来る。振り下ろされる鉄棍を、辛うじて横っ飛びに回避する。その拍子、予期せぬ動きで舞い上がった
痛みで一瞬、体勢を立て直すのが遅れた。鬼が仁王立ちして鉄棍を振り上げる。
――やられる!
が、これを緋女は待っていた。
鬼がヴィッシュひとりに夢中になり、緋女から意識を放すこの瞬間を。
風よりも速く、馳せ寄った猟犬が、間欠泉の如く鬼の喉下に喰らいつく。
鬼がのけぞる。緋女を狙って拳を繰り出す。長居は無用、とばかりに口を離し、猟犬は軽々と四足に着地した。鬼はふらつきながら踵を返し、森の奥に逃げていく。犬が追う。ヴィッシュも、いつまでも転がってはいられない。
「情けねえ。いつまで迷う気だ」
吐き棄てるように言った言葉は、幸い雨音に紛れ、緋女の耳には届くまい。腕の痛みを堪え、鞭の残りを巻き上げ、ヴィッシュもまた、ふたりの後を追った。
(つづく)
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