第13話-02 目覚め



 翌朝、怪我人は目を覚ました。ナギには朝早くから狩りに行かせておいた。彼女の角を見られては厄介なことになる。

「ここは? あなたは?」

 商人ふうの訛りで男は言った。詩人は食事の皿を運んでやり、

「わたしの家です。わたしのことは、名もなき世捨て人で結構」

「これは一体どういうわけで……」

「娘があなたを拾ってきました。それ以上のことはわかりませぬ」

「そうだ、崖から脚を滑らして……助けてくださったのですね。娘御に、ぜひお礼を」

「どうかお構いくださらぬよう。あれは……その、言葉がわからぬので」

 ああ、と商人は溜息をついた。腑に落ちた、お気の毒に、と言わんばかりに。彼がちらりと詩人のなくした脚を見たことにも気づいていた。気に食わないやつだ。表向きの言葉遣いが慇懃いんぎんなぶん、かえって態度の不躾ぶしつけさが増すように思えた。

 出された食事を、さして旨くもなさそうに食いながら、商人は、ところで、と切り出した。

「わたくしは、第2ベンズバレンで商いを営むものです。道楽で伝承や神話の類を研究しておりまして」

「ほう」

「ここには、奇妙な魔物がいるという噂を聞きつけて参ったのです」

 思わず詩人の眉が動いた。詩人は空になった皿を片付けるふりをして、商人に背を向けた。

「山の狩人に、見たというものがおるのですよ。翼あるように駆け回る鬼の姿を。魔王軍の生き残りか……ひょっとしたら、太古の種族が未発見のまま生き残っていたのやもしれません。おおかた見間違いでしょうが、ま、ロマンですなァ」

 ひとりで勝手に喋り、勝手に笑う。詩人は何も言わない。

「何かご存知ありませんか?」

「知りませんね」

 ぴしゃりと詩人は答えた。

「ここで暮らして7年になりますが、太古の種族など見たこともない。ただの噂でしょう」

「そうですか」

「それに、鬼なんてものがもしいるのなら、あなたの身が危ない」

「というと?」

「見つかったら喰われてしまいますよ」

 商人は大笑いした。もっともだ、まさにそのとおりだ、と、膝を叩いて笑い転げた。もうすっかり傷の具合は良いようだ。詩人はくすりともせず、じっと商人を睨み続けていた。

「あなたのおっしゃるとおりですな。気分もよいし、脚には傷もないようだし」

 商人は寝床から降りて、グッ、グッ、と床を踏みしめる。

「これ以上怪我しないうちに、わたくしは山を降りるとします。まことにお世話になりました」

 と、彼は懐から金貨を取り出し、詩人に押し付けた。商人は去っていった。しばらく詩人は、手の中の金貨を見つめていた。やがて、じわじわと、さっきのしこりが膨らんでいくのを感じた。しこりはざわめきとなって詩人を突き動かした。

 不安。何の不安か。寂しさ。それもある。

 いてもたってもいられず、詩人は杖を手に取った。

 ナギ。どこだ。



   *



 速く。

 そう焦るほどに、ままならない自分の体が呪わしい。得体の知れない不快。漠としたかつえ。逢いたい。ナギに。その一心で足を動かす。杖に擦れて腋が痛む。息が切れる。脂汗が噴き出す。遅々として歩みは進まない。心はとうに彼女の元へ飛んでいるのに、体がそれに追いつかない。

 ナギはきっと、いつもの渓流にいるはずだ。いつものように水に戯れ、いつものようにはしゃぎまわっているはずだ。靄のようだった不安が、突如形をとって詩人の脳裏に現れた。商人を名乗ったあの男は山を降りると偽り、ナギを捕らえに向かったのではないか? 奴がナギを打ち据える、ただその姿を想像しただけで喉が詰まる。肺が捩れる。心臓が何者かに握りつぶされ、行き場をなくした血潮が体を煮立てる。

 やっとの思いで、詩人は河原に辿り着いた。

 大岩に手をつき、そっと、向こうを覗き見る。

 目の覚めるような緑。その下で、淵は墨色に横たわる。水面に編み上げられた複雑な波紋がひたりと止まったかに思える。音もない。動きもない。その光景が、時の流れから切り抜かれた絵画となって、詩人の眼前に現れた。

 ナギが、そこにいた。

 全身を彩る、しなやかで引き締まった筋肉。筆を滑らせたかの如き曲線。健康的に焼けた肌は吸い込まれそうなほど深い。小ぶりな乳房が、吐息に合わせていきいきと弾む。濡れた薄布の下に浮かび上がる、女のからだ――

 詩人は息をするのも忘れ、見惚れた。

 いったいどれほどの間、そうしていただろうか。

 突然、足が滑った。詩人は転んだ。懐から金貨が転げ落ち、河原の岩に当たって甲高く泣いた。それでようやく、彼は、自分がナギに歩み寄ろうとしていたことに気づいた。知らぬ間に彼女に引き寄せられていたのだ。

 その音を聞きつけて、ナギが跳ねるようにこちらを向いた。警戒心がありありと伝わってきた。立ち上がろうにも、体が酷く痛む。詩人は伏したまま娘を呼んだ。

「ナギ!」

 その一声で、通り雨の過ぎ去るようにナギの警戒は解けた。元気よく水を掻き分け、駆け寄ってくる。その無邪気さには一片の曇りもない。その姿が詩人を安心させた。誰かに危害を加えられた様子はない。杞憂であった。あの商人は、言葉通り大人しく山を降りたのであろう。

 詩人のそばまで寄ってくると、ナギは小首をかしげ、しゃがみこみ、手探りで詩人の姿を探した。彼が倒れているのに気づくと、いたわりを込めて腕や脚を撫でさすってくれた。詩人は身を起こそうとした。すかさずナギが手を貸してくれた。半ば抱きしめるようにして、彼の体を支えてくれた。

 ようやく、座位にまで起き上がると、詩人は疲れをそっと吐き出し、岩に背中を預けた。

 川は、脚を伸ばせばかかとが浸かるほどの所にあった。そうしてみると、実に心地よかった。むやみに熱くたぎったものが、すっと冷めていく。そして隣にはナギがいる。彼女は甘えて、ずっと詩人に抱きついたままだ。頬が二の腕に擦り付けられた。角がちょうどいい具合に腋の下に潜り込んできた。

 反対の腕で角の付け根を撫でてやると、それに応えるように、彼女の指も詩人の首をなぞった。

 時はゆったりと流れだす。風が吹き、緑をざわめかす。水面に魚が跳ねた。温もり、涼しさ、どちらも肌で感じられる。えもいわれぬ幸福感があった。ずっとこうしていたかった。

「ナギ」

「う?」

「お前は俺の娘だよ」

「うー」

 詩人は苦笑した。言葉で言っても通じまい。

 だから彼は歌った。

 それは愛の歌だった。かつて脚が2本あったころも、絶えず歌い続けてきた歌だった。いまにして思えば、どれほど空虚な歌声だっただろう。愛を歌い上げながら、愛を信じてはいなかった。理解してもいなかった。

 今は解るか? 感じてはいる。

 今は信じられるか? そう、少なくとも。

 ナギの頭がもぞりと動く。頬の代わりに、唇が二の腕に触れた。舌先が詩人の肌をくすぐった。ぞくりと、快楽が背骨を這い上がった。驚いた詩人の視界に、転がった金貨が入る。金貨の浮き彫りが、黄金色の瞳で詩人を見ている。

 と、閃光のような痛みが腕を刺した。

 思わず詩人は悲鳴を挙げた。何事かと見れば、ナギが腕に噛み付いていた。鋭い牙が2本、詩人の薄い皮膚を突き破っていた。ナギが我に返る。弾かれたように飛び退く。詩人の傷口には、赤黒い血が玉を作る。

「ナギ?」

 その呼び声にびくついて、ナギは恐る恐る再び寄ってきた。申し訳なさそうに、舌を出して傷口を舐めはじめた。

 娘の舌にくすぐられる快感も忘れ、詩人はナギを見つめた。一体どうしたというのか。別に大した傷ではない、彼女も悪意あって噛んだわけではなかろうが。遊びのつもりが力が入りすぎた、のだろうか。子犬がじゃれあうとき、やってしまうように。

 そうなのだろうか。

 ふと見ると、渓流の淵は濁り、月のない闇夜にも似て、黒々と揺蕩っている。

 気がつけば、我が足先もまた、深淵に浸かり溶け込んでいくかのようであった。



   *



 さて、そのふたりの様子を、遠眼鏡で覗き見る男があった。あの商人である。

 商人、それは本当だ。魔物の噂目当てに来たのも間違ってはいない。

 ただ、ロマンを追い求めているという話、そこだけが嘘だ。

 彼が求めるものはただひとつ。金である。

 この小太りの中年男は、特別な人材派遣業である。奴隷商人と呼ぶ者もいる。本来の仕事は、貧しい僻地の農村などから女を安値でさらってくることだ。土臭い娘ほど、ひねくれた金持ちには好まれる。風呂に入れて、化粧をしてやり、下品にならないぎりぎりの所まで肌を晒せば、仕入れの100倍近い値が付くこともある。

 それにつけても欲望というのは不思議なものである。どれほど渇望したものであろうと――いや、強く望むほどに、かえって――手に入れた後には虚しさばかりが残る。満ち足りなくなる。別のものが欲しくなる。別の、もっともっと素晴らしいものが。

 こうして膨らみ続ける欲求を常に満たしてこそ、りっぱな奴隷商というものである。とはいえ、最近は少々行き詰まりを感じていたのだ。人間の娘に対して、少年に対して、時には動物に対して、あらゆる悦楽の技を試みたお客さまがたは、もはやまともな方法では満足できなくなりつつあった。何かが必要だ。これまでとは一線を画す、極めて斬新な何かが。

 そんなおり、仕入れに訪れた農村で噂を聞いた。野山を駆けずり回る、鬼の娘の噂を。

 聞いた瞬間ピンと来た。となれば、さすがに商売で財を成した男である。持ち前の行動力を発揮して、奴隷商はすぐさま山に分け入った。

 その鬼とやらが商品になるかどうか。見極めは、誰にも任せられない。長年鍛えた自分の眼でなければ。

 日ごろの運動不足が祟って転落事故を起こしたのも、むしろ幸いだった。おかげで世捨て人を名乗る貧乏人に出会えた。ひょっとして、と思ってかまをかけてみた。見事にアタリだ。世捨て人のあの行動。魔物の話を聞いて、思わず眉を動かし、表情を読まれないように背を向けた。奴隷商は見逃さなかった。

 いるはずだ。この近くに。世捨て人とともに生活し、よく人間に慣れた、鬼の娘が。

 そこで一計を案じた。わざと世捨て人を不安がらせるようなことを言っておき、山を降りるふりをして、小屋のそばに隠れる。あとは、養女を心配して飛び出す養父の後を追うのみ。相手の体はあのありさまだ。不慣れな山道といえども、尾行するのは難しくない。

 奴隷商の機転は見事に図に当たり、彼はついに目当てのものを見つけ出したのだ。

 遠眼鏡を下ろし、彼は深くため息をついた。

 すばらしい。

 これほどの原石が、このようなところに転がっていようとは。

 あの娘は美しい。捩れた角と潰れた眼が玉にきず、と素人ならば言うところ。奴隷商に言わせれば、それすら異形の美を際立たせるものでしかない。あれならば、いくら積んでも惜しくないというお大尽が、ごまんと現れるだろう。

 そうと分かれば、もうここに長居することはない。すぐさま荷物をまとめ、彼は山を降りた。あの鬼子は是非にも欲しい。だが焦りは禁物。人手を集め、入念に準備を整え、万全の態勢で挑まねばならない。

 奴隷商は大胆な行動力の持ち主でもあったが、他方、慎重で周到な男でもあったのである。



   *



 河原で詩人に噛み付いたあの時以来、ナギは明らかに豹変した。

 ひとくちに言えば、詩人を避けているようであった。朝早く、詩人が目覚めるより前に狩りに出る。戻ってくるのはとっぷりと日が暮れてから。作ってやった飯に口をつけないことすらあった。そして夜には詩人とは別の場所でひとり丸くなって寝るようになった。

 古今、娘は年頃になると父親を疎むものである。ナギにもその時が来たということなのだろうか。

 一方で、奇妙な気配を感じることもあった。ナギがじっと彼の背中を見つめている気配。彼女には眼がない、見えるはずがない。なのになぜか感じるのだ。確かに見られている、と。

 折悪しく、多雨の季節に差し掛かりつつあった。何日にも渡ってしつこく雨が降り続けた。狩りにも出られず、ナギはずっと家で悶々としていた。声をかければ寄ってくることも、逃げていくこともあった。時折、意味もなく獣のように唸ったりもした。

 ある日、痺れを切らしたナギは、ついに雨の中に飛び出した。

「おい!」

 詩人が呼ぶと、土砂降りを浴びながら振り返る。しかしそれも一時のこと。彼女は黒々と雲の重なる空の下、逃げるように木々の間へ消えていった。家の中を見れば、愛用の棍棒を置いたままだ。得物も持たずにどうしようというのか。

 だが、詩人には追うことも探すこともできない。この雨の中、彼の体で、逃げようとするナギに追いすがることなど到底不可能だ。

 一体何が、こうも彼女を苛立たせているのだろう――

 それから数時間。不安を拭えぬまま針仕事で気を紛らわせていると、誰かが小屋の戸を叩いた。

 ナギが戻ってきたのか? いや、違う。彼女はノックなどしない。誰何すいかしてみれば、ドアの向こうの男が応える。知らない声だ。

「旅のものなんですが。雨宿りさせちゃもらえませんか」

 薄く戸を押し開ける。

 ずぶぬれの赤犬を連れた、背の高い男が、善良そうな笑みを浮かべてそこに立っていた。



   *



「助かりました。雨具の用意はしてきたんですがね、こうも激しくちゃ」

 雨合羽を脱ぎながら男が言う。なるほど彼の言うとおり、猛烈な雨水が、あの頑丈そうな耐水革さえ貫いて、じっとりと染みこんでいるようだった。足元の犬が全身を振り回して水を飛ばす。

「冷てッ! おい緋女」

「ぐるるうーう」

「いま拭いてやるよ、まったく……」

 荷物から引っ張り出した布で擦ってやると、犬は上機嫌に尾を左右させた。詩人が差し出した白湯に、男は丁重に礼を述べる。悪人ではなさそうに思える。が、警戒心を拭うことはできなかった。あの商人は言っていた。ナギのことが噂にのぼっていると。ひょっとしたら、この男も彼女を狙って来たのかも知れない。

 犬を拭き終わると、男は荷物を探り、煙草を取り出した。舶来の葉巻煙草だ。さっきの雨合羽といい、身なりといい、この煙草といい、金の掛かったりっぱなものだ。男が煙草を勧めてくる。世捨て人には過ぎた贈り物だ。一度は断ったものの、雨宿りの礼だと言って愛想よく差し出されては、我慢できるはずもなかった。

 かまどで火をつければ、懐かしい香りが口の中に広がる。昔はこうした良い煙草も、好んで呑んだものだった。

 煙が垣根を覆い隠したのであろうか。ふたりは他愛もない話に興じた。この男の話は実に興味深かった。魔王戦争から10年、ろくに接点のなかった世俗の変化。王都やハンザのことは詩人も知っているが、新たに建造されたという第2ベンズバレンの威容は聞くだけでも胸が躍る。その賑わい。機能的に絡まりあった巨大な街道と運河。息つく暇もなく来たりては去る異国の船。無数に立ち並ぶ屋台に、老若男女の笑い声。

 まるで眼に浮かぶよう。詩人はつかの間、街の喧騒に遊び、潮の香りに酔いしれた。

「あなたは街で何をしておられるのです?」

 問われて、男は頭を掻いた。

「ま……何でも屋、みたいなもんです」

「こんな山中に、いったい何のご用で」

 つう、と男は紫煙を吐いた。

 その目が急に鋭く尖り、詩人を射抜く。

「あんたに会いに来たんですよ」

 詩人はとっさに腰を浮かせた。男は構わず続ける。

「結論から言いましょう。あんたは、あの子と別れたほうがいい」

「お前は何者だ!」

「俺の名はヴィッシュ」

 男の声は、飽くまでも静か。

「勇者の後始末人だ」



(つづく)

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