■第13話 “暗闇の中に、ひとつ”

第13話-01 詩人と鬼子



 暗闇の中に、ひとつ。

 詩人は月明かりだけを頼りに荒野を這った。這うよりほかなかったのだ、脚切られた不具の身をもってしては。

 自業自得ではあった。素晴らしい美貌と美声、巧みな弁舌。歌の研鑽もそっちのけで取り組んだ下半身の技が、いったい幾たりの娘を快楽の泉に引き込み、幾たりの妻の獣性を解き放ったであろう。だが、彼女らに与えた悦びとは裏腹に、彼の手練手管は、彼自身にはろくなものを与えなかった。恐るべき罵倒、たっぷりの暴力、失われた片脚に、寄る辺もない放浪……

 今となっては、月も濃密な煙に遮られ、頼りなく空にかかるのみ。

 いい気味だ、と詩人はほくそ笑んだ。あの煙は街から上るものだ。魔王が隣国に侵攻したらしいとは、少し前に聞いた。その魔手がついにこちらへも回ってきたのだ。街を包む火が、遠くおぼろげに見える。今ごろあの煙の下では、《死》が刈り入れに奔走し、《陵辱》が下卑た笑みを浮かべながら闊歩していよう。

 追放され、苦難の中に彷徨えばこそ、詩人は難を逃れた。

 皮肉な運命に、彼は笑わずにはいられなかった。

 と。

 彼は、自分の笑いに奇妙な唸り声が呼応するのを聞いた。

 聞き違いではない。いささか不真面目とはいえ、それなりに鍛えた詩人の耳であった。子供のようだ。苦しんでいる。かすかな声色のみでそこまで察した詩人は、興を惹かれて、這いずっていった。なぜこんなところに子供が? という好奇心。呻く病人を見物してやるのもよい。という悪趣味。

 苦労して近くの岩の裏側まで回りこむと、果たしてそこに子供はいた。

 見たところ、ほんの2、3歳の幼児である。短い手足に大きな頭はまさしく幼子のそれであった。だが、かわいくはない。腕も脚も痩せて細く、頬に赤みもなく、無邪気なさえずりの代わりに、辺りの全てを怨む呪詛の声を挙げている。

 なにより、短く尖った角が左右一対、頭から突き出していたのだ。

 鬼。

「おまえ……」

 ついつい、声が出た。鬼の子は、それで他人の存在に気づいたようだった。いっそうけたたましく、怯えた犬にも似た悲鳴を矢継ぎ早に吐き出した。幼いなりに、精一杯の敵愾心を込めた声であった。だが、かつて詩人を襲ったあの罵倒に比べれば愛おしくさえある。詩人はもう少し這い寄った。幼子の声が増した。

 そのとき、月を隠していた煙が薄れ、子供の顔が照らし出された。ぞっと背筋に悪寒が走る。この子がこれほど怯え、警戒しているわけがわかった。

 鬼の子の目は、ふたつとも、なにか鋭い刃物で抉られていたのだ。

 恐らくは、魔王軍にゆかりの子であろう。魔王は鬼の軍勢を遣うというから。そして何かの事情で戦に巻き込まれ、こんな体にされてしまったのだ。とすれば、この子から光を奪ったのは人間か。詩人と種を同じくする、つまらなく弱いくずどもか。

 憐れな。と思うと同時に、自分の抱いた心情に驚いた。今までさんざん世間を舐めてかかり、他人など、敵か、金づるか、気持ちの良い穴か、くらいにしか考えていなかった彼だ。それが今、見知らぬ、ひとですらない餓鬼一匹を、抱きしめたいと感じている。

 それは同じ不具の身であることからくる同情か。それとも――

 どちらでもよいような気がした。

 もはや彼は迷いもしなかった。手を伸ばし、幼子を抱き寄せた。幼子が震えた。その丸い牙が、詩人の腕に噛み付いた。必死になって。血が滲むほどに。男は驚きもしなかった。少々ちくりとするだけだ。そのまま胸のうちにくるんでやり、角のそばを撫でた。腕の痛みが僅かに緩むのがわかった。

 詩人は歌った。たったひとつの、得意技であったから。

 歌声は甘く。

 いつもながら愛に充ち。

 いつもならざる愛に充ち――

 幼子はついに口をはなし、男の傷から漏れる血を、舌先に、舐めた。

 いつの間にか、月がふたたび戦火の向こうに隠れていたが、今となってはどうでもよい。

 月明かりなど、もう要らない。もっと温かな灯火を、こうして手に入れたのだから。



   *



 鬼が奔る。谷を、翼あるように。

 三つの岩を飛び、五つの木を叩き、七つの茂みを蹴散らして、青空に踊り出る。心まで引き締まる春先の寒気。まっすぐに肌を炙る澄んだ太陽。眼下には緩やかにうねる一面の緑。吸い込んだ息が、胸の奥で歌いだす。

「うッ、うッ」

 体いっぱいに風を浴び、鬼はあらんかぎりの声を出した。

「う―――――っ!」

 山という山がこだまを返す。肌がぴりぴり震えて痺れる。上機嫌にニパリと笑い、体をひねって宙返り。鬼は崖下の草地に勢いよく着地した。

 そこには一軒の丸太小屋が建っている。素人仕事のドアが軋んで開き、中から男が現れる。無くした片足を杖で補い、いくらかは筋肉もつき、目つきもすっかり穏やかになってはいたが、紛れもなく、あの詩人であった。

「ナギ。首尾はどうだ?」

 詩人が問うと、鬼は右手をぐいと掲げた。引きずってきた鹿は、鬼の体躯を超えるほどである。若き狩人の誇らしげなことといったら。思わず詩人は頬を緩め、彼女の凱旋を祝福するのであった。



   *



 あれから――鬼の子と出会ってから、はや10年の月日が流れた。

 詩人は鬼の子をナギと名づけた。故郷に伝わる、荒ぶる女神の名だ。あの時、まず汚れた体を洗ってやろうと思いついたのが幸いだった。でなければ、女の子だと気づかないまま、いささか不適切な名をつけていたかもしれない。

 この10年というもの、詩人とナギはたったふたり、彷徨いながら暮らしてきた。幼子を抱えた不具の身である。どれほどの苦労があったか知れない。詩人は子を背負って近隣の村々を巡り、歌物語を活計たつきとした。中には親切なものもいたが、おおむね客は傲慢でけちだった。わずか碗一杯の雑穀のために、もすがら歌わされたこともあった。

 だが不思議と不平不満は湧かなかった。あれほど好きだった女にも、手を出す気さえ起きなくなった。背中でもじもじと動くナギの感触が、彼を、ただ生きのびることのみに集中させた。

 やがて少しずつナギは大きくなり、角が伸びて、人里を連れ歩くのが難しくなった。

 同じ頃から、ナギはひとりで山中を駆け回り、食い物を採って来るようになった。はじめは木の実や茸がせいぜいであったが、やがて魚を、兎を、飛ぶ鳥すらも捕らえはじめた。

 彼女の目はぐちゃぐちゃに潰れたまま治ることはなかった。目元は帯布を巻いて隠しているのだ。にもかかわらず、耳と鼻だけで獲物を察知し、見事に狩ってのける。

 暮らしは、一気に楽になった。

 以来、ふたりはこの山に丸木小屋を建て、定住するようになったのである。



   *



 鹿の解体を終えたころには、もう日暮れが迫っていた。今日の夕餉はごちそうだ。水に晒してあく抜きした肝を、切って、ただ焼く。これ以上の贅沢はない。じゅっと湧き出す脂の香り。かまどに身を乗り出した詩人の背に、ナギもまた、甘えてもたれかかってきた。ウッ、ウッ、と浮かれた声が耳元で跳ねた。彼女の手が詩人の肩を叩いて急かした。口元のよだれを隠しもしない。

「もうすぐだよ」

「うー」

「まだまだ」

「う……」

「よし焼けた」

「うっうー!」

 皿にあげた焼きレバーに、ナギは手づかみで飛びかかった。さすがに熱いと見えて、なんどかお手玉しながら、それでもがぶり、と豪快にかじりつく。

「きゅーっ」

 甲高い喜びの唸り。ふたくち。みくち。止まらない。気づけば指は、脂でしとどに濡れている。その一滴さえ愛おしく、舌で丹念に嘗め回す。

 ふと気づいて、ナギは肝のひとかけを差し出した。かまどの番で両手が塞がっていた詩人は、彼女の手から直に食う。口に入れた肝は実に甘く、旨く、少し、ナギの味がした。

 満ち足りた食事が終わると、ナギは寝床にもぐりこんだ。藁と板とむしろで組んだだけの粗末なものだ。狩りに疲れ、腹も膨れて、彼女はたちどころに眠りに落ちた。その寝息を背中に聞きながら、詩人はもう一仕事にとりかかる。太い木の枝から、ナギのために棍棒を削り出すのだ。俊敏なナギも、刃物の扱いは苦手である。狩りの武器にも棒か石しか使おうとしない。

 それゆえ、こうした細かい手作業は詩人の役目だ。ナギは野山で食い扶持を狩る。詩人は彼女にできぬことをする。たとえば、裁縫、洗濯、料理。時に人里に降り、金を稼いで文明の産物を得ることもあった。もちつもたれつ、ふたりはここまでやってきた。

 都市にかぶれていた頃には想像さえできなかった安寧が、ここにはあった。

 背後でナギが寝言を言った。

 振り返れば、ナギは派手な寝返りでむしろをすっかり剥いでしまって、どころか、服もはだけてしまって、柔らかく上下する胸を無防備に晒している。詩人は思わず声を挙げた。この子も、もう13歳くらいになる。すっかり女のからだになった……

 照れながら詩人は彼女の襟元を調え、肩までむしろを掛けてやった。ナギの頬が不意に緩み、嬉しそうに唸った。楽しい夢でも見ているのか。夢の中でも、野山を駆けて獲物を追いまわしているのか。

 詩人は、仕事の続きに戻った。

 小さな仕事。小さな驚き。小さな喜び。小さな温もり。

 朝が来れば、鳥の声に目覚め。

 腹が減れば飯を炊き。

 夜が来れば、寝床で互いを暖めあう。

 ただそれだけの暮らしが、どれほど詩人を癒したであろうか。

 そしておそらく、それは、ナギにとっても。



   *



 あるとき、ナギが人間をってきた。

 出迎えた詩人はあんぐりと口を開け、しばらく声もでなかった。なにしろナギは、いつも鹿や兎をそうするように、誇らしげに人間の男を掲げて見せたのだから。

「うー!」

「ばか! これは食い物じゃない」

「う?」

 ふだんと違う父の反応に、ナギはこくんと首をかしげた。杖を頼りに詩人が寄っていく。ひざまずいて男の容態を見る。中年で小太り、旅装束ではあるが旅慣れてはいなさそうだ。怪我は頭にひとつ。派手な出血があるが、傷は深くない。ナギの棍棒に目をやる。血はついていない。

 おそらくどこかの崖に転落でもして、気を失っていたのだろう。ナギはそれを拾ってきただけだ。我が娘が襲いかかったのでないと判ると、ほっと安堵の溜息をつき、

「家の中に運ぶんだ。手当てをしてやろう」

「う」

「中だ」

 家のほうを指差す仕草で、辛うじて言わんとするところは理解したらしい。不承不承、ナギは男を引きずっていった。

 困ったのはそのあとだ。詩人はしょせん詩人に過ぎない。医者ではない。傷の手当など、野山の薬草を摘み、それをすり潰して傷口に貼ってやる程度のことしかできない。乏しい知識で行う頼りない素人仕事だ。あとはただ、祈り続けるしかなかった。

 ナギはその間、しきりに怪我人を気にして、匂いを嗅いだり、つついたり、時には舐めてみたりした。詩人が声をかけると、ぱっと飛ぶように離れて、部屋の反対側の隅に膝を丸める。しかししばらくすると、また、そろそろと患者に這い寄っていくのだ。

 彼女が詩人以外の人間をまともに見るのは、これが初めてと言ってもいい。右も左も分からない幼児の頃に、詩人の背中に負ぶわれたまま人里を訪れて以来だ。単に人間がものめずらしいのだろうか。あるいは他に、特別な興味があるのだろうか――お世辞にも見目良い男とは言えないが。詩人の胸に、雲のように湧き上がるものがあった。雲はやがて小さなしこりとなって、彼のうちに凝り固まった。



(つづく)

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