第12話-09(終) ジャイアント・キリング
微かな風切り音が森に流れ、ひとときの静寂が戦場を支配する。
次に聞こえてきたのは、絶句したムードウの、呪わしげな呻き声だった。
「間一髪ってとこだ……」
ヴィッシュが、地に這うように身を低くかがめ、荒い息を吐きながら苦しく笑う。
彼の頭上では、
お互いにもつれ合い、複雑に絡まり合って、何ヶ所もの結び目で固定されていたのだ。
「……馬鹿な!? 何故!?」
ようやく事態を悟り、ムードウが頓狂な声を上げる。ヴィッシュは
「仕掛けは簡単。横糸だ」
ヴィッシュが小枝を拾い、頭の側の
昨夜の戦いのとき、ムードウは転んだ拍子に
この糸をあらかじめ剣とナイフに結び付けておき、取り落としたと見せかけて剣を足元に設置。あとはうまく結び目を作るようルートを計算しながら逃げ回り、敵の
「糸ってやつは一度縦横に絡みついたら滅多なことではほどけない。頑丈な素材だからこそ切ってほどくことも難しい。そもそも視認困難な
ヴィッシュは木の枝を
「あんたの不覚なんだッ!」
自分の糸に引きずられ、樹上から魔族ムードウが墜落した。痛々しい激突音が響き、ムードウが眼球をこぼさんばかりに目を見開く。辛うじて即死は免れたようだが、この高さから無防備に落下したのだ。骨折程度では済んでいないだろう。
もはや手足を震わせる体力さえ残っていない。耐えがたい苦痛に上げる呻き声さえ消え入ろうとしている。悪逆非道の魔族の、あまりにも痛々しい姿。
ヴィッシュは溜息を吐き、手投げ用の小さなナイフを抜いた。
「長く苦しませはしない。すぐにとどめを刺してやる」
その悲惨な光景を、目の当たりにした者があった。
巨人、ゴルゴロドン。
親友の敗北を視界に捉え、ゴルゴロドンは丸太の槍を取り落とした。大地よりも重く強靭な腹の底から、地鳴りにも似た重低音が湧き上がってくる。眼孔の奥の熱く
「ムゥ―――――ドォ―――――ッ!!」
絶叫し、ゴルゴロドンはムードウの方へ飛びかかった。突然の襲来にヴィッシュが大慌てで逃げていく。ゴルゴロドンは雑草でも掻き分けるように森の木々を左右に掻き分け、跪き、嘆きむせびながら、両の掌で、虫の息の親友を、そっと、周囲の土ごとに掬い上げた。
「ムードウ……おお、わが親友よォッ……!」
涙は滝となって流れ落ち、ムードウの身体を湿らせた。長い長い戦いの日々で渇ききったムードウの心に、それは恵みの雨の如く染み込んだ。ムードウ自身の涙が雨に混ざる。か細い懇願が、彼の口からこぼれ出る。
「たの……む……ともに……」
ゴルゴロドンは、ゆっくりと、うなずいた。
「ああ、いっしょだ。最後まで、わしがいっしょだよ」
友の身体を手のひらの中に包み込み。
ゴルゴロドンが立ち上がる。
鬨の声で天を震わせ、脚のひと蹴りで大地を踏み割り、ゴルゴロドンは走り出した。突如の突進で風は竜巻めいて渦を巻き、空中のカジュはまともにそれに巻き込まれ、木の葉のように吹き飛ばされた。
巨人が走る。走る。走る。山を越え、川をまたぎ、宿場町の上をひとっとびに飛び越えて、ただ一直線に――第2ベンズバレンへ。
常人の10倍の歩幅、10倍の速度だ。街の城壁はみるみるうちに近づいていく。もはや目と鼻の先だ。
――やるぞ、友よ。
見ていろ、ムードウ。
わしは征くぞ! お前の望んだところに、一歩でも、近く!!
「やっば。」
その様子を見たカジュが大慌てで《風の翼》の制御を取り戻し、地上のヴィッシュのもとへ舞い降りる。彼は疲労困憊して木の根元に腰を下ろし、負傷した腕に包帯を巻いているところだった。
「治すよ。急いで追わなきゃ。」
「いや、心配ない」
ヴィッシュは苦痛に脂汗を浮かべながらも、不敵な笑みをカジュに返す。
「あいつがいる」
まさに、その瞬間。
巨人の胴鎧が――真紅の砲弾に粉砕された!
突然の衝撃。恐るべき痛打。巨人ゴルゴロドンは一瞬意識を失い、なすすべもなく背中から卒倒する。大地は震撼し、土煙はもうもうと立ち込め、鳥も、獣も、城壁から不安げに見守る衛兵や住人たちも、誰もが音を殺し、固唾を飲んで見守る中、巨人を打ち倒した砲弾が――いや、剣士が、凛然と巨人の前に立ち塞がる。
「……立てよ、ゴルゴロドン。
あたしが、テメーを」
その姿は、研ぎ澄まされたひと振りの太刀。
「メッロメロにしてやるよ!!」
“刃”の緋女!!
その呼び声に応え、勇ましい雄叫びが土煙の中から湧き起こった。
ゴルゴロドンが重々しく立ち上がる。山脈そのものの巨体で緋女と正対する。巨人のどす黒い眼光が緋女を捉えた。彼女の瞳は火の如く燃え、一点の曇りさえなく燦然輝いている。
――さらに一段、強くなったな、お嬢!
なんと嬉しいことだろう。なんと武人冥利なことだろう。人生の最後に得た最大最強の好敵手が、苦悩を越え、躊躇を断ち、己の前に向き合ってくれる。全身全霊を込めて正々堂々の戦いを挑んできてくれる。これほどの幸福が他にあろうか!
ゴルゴロドンは、魔族ムードウを、そうっと、後ろの木陰に寝かせた。
緋女の前に進み出て、背中の巨大剣を正面に構える。
ふたりの達人が、ひとつの戦場で対峙した。
もはやこれ以上の言葉は、無用。
風が流れ。
草木がなびき。
やがて風景の全てが消える。
天もない。地もない。山も、谷も、林も岩も、何もかもが意識の外へ追いやられる。あるのはただ、刃と一体となった肉体。静かだが力強い剣気を湛える対手。間合いの内か、あるいは外か、その一事のみが存在する空間。絶え間ない修練の過去。生と死の可能性煌めく未来。それら全てを了解し、不断に見つめ続ける自己。その拠って立つ場所。
心、静まる。
無限に思える対峙の果てに――ふたりは、動いた。
刹那、光が爆ぜた。
あまりの早業。その場にいた誰にも、剣士たちの動きは見えなかった。卓越した技は常人の目には留まらず、ただ結果が残るのみだ。気が付けば緋女とゴルゴロドンは互いの横を切り抜け、背中合わせに立ち尽くしていた。岩のように微動だにせず。
人々が息を飲む。
ひとつの岩が、揺らいだ。
「見事……だ……!」
ゴルゴロドンという巨大な岩が。
ゴルゴロドンは血を吐いた。巨体が重力に任せてゆっくりと傾いていき、ついに地鳴りを起こしながら倒れ伏した。
途端に街から湧き起こる大歓声。城壁の上から、あるいは街道から、戦いの様子を見守っていた人々が、声を
しかし。緋女は一顧だにしなかった――ただ、好敵手の方を振り返り、仰向けに寝返りを打った彼の、横顔を寂しげに見つめるばかりだったのだ。
言葉がない。
緋女は己を呪った。己の無知を。あるいは無能を。お喋りは好きだった。話すのは得意なはずだった。なのにこんな時、一番言葉が必要なこの時、死に逝く友にかけてやる言葉が見つからない。
「ヌフッ……そんな顔をするな、お嬢。わしはな……満足しておるよ……」
ゴルゴロドンが温かく笑う。ついこの間、酒を酌み交わしながら笑いあった、あの夜と同じように。
「因果な商売よな、戦士とは……
わしはのう……ほんとうは……戦士なぞより、詩人になりたかったのだよ……酒と、風月を愛し……雅と情のなかを、漂泊して……」
「聞かせてよ」
ゴルゴロドンが
「お前の
巨人は目を閉じ――高く、清く、
道の果て
そこで声が止んだ。
緋女はひとり、天を仰いだ。
空は無神経に青く、どこまでも澄み渡っているのだった。
*
ひとつの仕事が片付き、後始末人たちは日常に戻った。
朝起きて、身体を鍛え、飯を食い、仕事を探し、道具を買い揃え、勉強し、付き合いに顔を出し、剣を手入れし、酒を楽しみ、よく眠る。いつも通りの、新たな仕事に備える日々。
それから1ヶ月ほどした、ある夕暮れのことだった。
カジュが居間の机で勉強に勤しみ、ヴィッシュが台所で夕食の支度をしている側で、緋女は床にあぐらをかき、太刀を念入りに手入れしていた。
窓から射し込む夕陽を浴びて、刃が茜色に煌めく。
軽快にペンの走る音。魚の脂がよい具合に焦げていく香り。光がつんと目を刺して、緋女は、すう、と目を細める。
なぜだろうか。
そのとき不意に、かつて味わったことのない衝動とともに、胸の奥から言葉が湧き出した。
道の果て
夢の中なら また戦える
静寂。
緋女は苦笑する。
「ダーメだあ。ぜんぜんダメ」
「いや」
振り返れば、ヴィッシュは、おかしいくらい真面目な顔をしていた。
「いいんじゃないか。俺は好きだぜ」
まばたきをふたつ。
緋女が太刀を鞘に納めると、鯉口がキンと、澄んだ声で哭いた。
「ありがと」
THE END.
■次回予告■
足切りの刑を受け追放された詩人は、両目を潰された鬼の赤子と出会う。寄る辺を持たぬ者同士、山中で親子の如く暮らすふたりであったが、やがて目覚めた鬼の本能がその平穏を壊していく――
次回、「勇者の後始末人」
第13話 “暗闇の中に、ひとつ”
Alone in the Dark
乞う、ご期待。
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