■第9話 “最後の闘い”

第9話-01 死にかけの剣士



 ある晩冬の午後、名医モンドは往診に出かけたが、これは気の進まぬ仕事であった。

 患者は30手前の男。住まいは貧民街の朽ちかけた小屋。そのような男に金の気配があろうはずもなかったが、まあ、それはよい。金が無いなら無いで、無いなりに手を尽くせば良いだけのこと。よくある話だ、いとう理由はない。

 彼の気を重くしているのは、その患者が死の床にあるという、ただその一事である。

 モンドが訪れた小屋は、いつもながら綺麗に片付いていた。というより、物らしい物がないのだ。家具といえば粗末なわらベッドくらいのもの。その上には頬のこけた男が横たわり、まぶたを閉じて深く眠っている。あたりに漂う濃厚な死の気配は、どこか、神聖なる教会の静謐せいひつをすら思わせた。

 臭いがする。仕事柄、これまで何百何千と嗅いできた――そのくせいまだに嗅ぎ慣れない――避けるべからざる運命の臭いだ。すぐ目の前にまで迎えに来た《死の女皇》さまが、ほのかにその体臭を漂わせているのだ。

 これを嗅ぐと虚しくなる。自分の仕事は何のためにあるのかと。人の命を救うのが役目のくせに、最後には必ず死を見届けねばならぬ因果な稼業。

 その困惑を顔に出すような名医モンドではなかったが――

「ギリアン。ギリアンくん。起きてるかね。ワシだよ」

 声をかけると、患者ギリアンは静かに目を開いた。首を動かす気力もないと見えて、ただ眼球のみをこちらに向ける。

「先生……今、起きました。今日は具合が良いようです」

「そりゃあ何よりだ。

 ほい、いじらせてもらうよ」

 モンドは患者のそばにあぐらをかき、服を脱がせた。

 せた体だった。まさに骨と皮、いや、それ以下とさえ思える。

 ギリアンは元々、屈強の剣士であった。その腕前を活かし、後始末人として幾多の魔物を狩り殺した。壮健だった頃の鋼のような肉体を、モンドも目にしたことがある。それが病ひとつでこうまで衰えようとは。

 モンドは汗を拭いてやり、床ずれに軟膏なんこうを塗って……と、流れるように作業を済ませていった。その間、ギリアンは指ひとつ動かしはしなかった。糸の切れた人形のように腕を垂らし、されるがままに任せていた。

 処置が終わりにさしかかった頃、ギリアンは不意にこうささやいた。

「先生。私はもう長くありませんね」

「む……」

「いいのです。先生の見立てを教えて下さい」

「……そうだよ。君の言うとおりだ」

「あと、どれだけ?」

「さあ、2日か、3日……」

 と答えたところで、処置は全て終わった。再び服を着せ、最後に薬を飲ませる。薬といっても、今となっては体の痛みを和らげる程度の効き目しかあるまいが。

 ギリアンはベッドに横たわり、濁った目でじっとモンドを見上げた。

「先生、長い間ありがとうございました」

「なあに。こっちも商売だよ」

 モンドは笑ってみせたが、患者はくすりともしなかった。思えば、元気な頃から、滅多なことでは顔色を変えぬ男であった。死を目前にしたこの時に至ってもなお落ち着き払った態度を崩さずにいる。日々の鍛錬によって磨き上げた精神力のなせる技だろうか。

 もはやそれ以上の言葉はなかった。モンドは、耐え難い沈黙から逃げるように、小屋を抜け出したのだった。



     *



 その夜のことだった。

 ギリアンは夜の暗闇の中、静かに思いをせていた。これまでの人生、さして長くも華やかでもなかった道程に。

 ――私の人生は、一体何だったのだろう。

 思うようには、生きられなかった。本当は、もっと違う生き方をしているはずだった。もっと違う死に方も。かつて彼は剣の道に命を捧げ、騎士として栄達を望んだが、果たすことなく、いつの間にかこの貧民街に落ちてしまったのだ。

 妻もない。子もない。親しい友もない。磨き上げた剣技を受け継ぐ弟子もなければ、歴史に名を刻むこともできなかった。

 何も遺せず。

 何も果たせず。

 ただ病だけを得て、無為な人生に幕を閉じる。

 涙が零れそうになった――辛うじて残った最後の矜持が、それを止めてくれたが。

 ――もう私には何もないのだ。何も。執着すべきものさえも――

 いつしか微睡まどろみが彼に忍びより、夢の世界へと誘い込んだ。死の床の浅い眠りは現実と混ざり合い、夢の中でなお彼は考え続けた。何もない。本当にそうか? 残されてはいないのか? 為すべきことが――?

 朝日が差し込み始めた頃、彼は不意に覚醒した。

 ――ある。心残りが、ひとつ。

 ギリアンは、カッと眼を開き、震えながら身を起こした。ベッドのそばに立てかけておいた剣に手を伸ばす。革の鞘に触れると、ひやりとした感触が指に吸い付くかのようだ。

 ――あのひとと闘いたい。もう一度。

   緋女ヒメ

   我が生涯で最強の相手と!



     *



「そっちに行ったぞ、緋女ヒメ!」

 森の奥の廃村に、ヴィッシュの声が響き渡る。

 その声に追われるように、小鬼どもが湧いて出た。朽ちかけた農家の、壁に空いた大穴から、ぞろりぞろりと次々に――その数10匹あまり。

 鉄面皮ゴブリン。かつて魔王軍が雑兵としてこき使っていた鬼の一種だ。大した力はないが、繁殖力が高く、よく廃墟や打ち捨てられた古城などに群れで住み着く。そして近隣の村や街を襲い、野党まがいの真似をやってのけるのである。

 そのゴブリンどもを待ち受ける者がいた。大刀を軽々と肩に負い、両足に草を踏み蹴散らして、仁王立ちに行く手を阻む、目もくらむような美貌の剣士――勇者の後始末人、緋女ヒメである。

「来な」

 その声も姿も、キンと真っ直ぐに張り詰めて、さながら剣そのもののごとし。

「まとめて片付けてやる!」

 彼女の挑発を理解できたわけでもあるまいが。

 ゴブリンどもは奇声を上げるや、緋女ヒメに殺到した。棍棒、石、盗んだ農具。原始的とはいえ充分に強力な武器の数々が、あらゆる方向から襲いかかり――

 白刃一閃。

 次の瞬間には、小鬼どもが一斉に血の花を咲かせ、死体となって転がっていた。

 その中にただひとり、平然と立つ緋女ヒメ。フッ、と胸に溜め込んだ気合を吐き下したところへ、相棒の声がかかった。

「おお。流石だな」

 ヴィッシュは、足の踏み場もないほど散らばったゴブリンの死体を、ひょいひょいと飛び越えながら、緋女ヒメに近寄ってきた。

 見れば、ゴブリンはみな、正確に頸動脈けいどうみゃくのみを切り裂かれている。大きく肉を切ったり骨を断ったりすれば、どうしても剣の切れ味は鈍ってしまう。よって、大勢を一度に相手取るなら、切っ先だけを用いて最小限の傷でたおすが最も良い。

 と、口で言うのは容易いが、実戦でその通りやってのけるのは至難の業。相変わらず緋女ヒメの技量は舌を巻くほどであった。

 緋女ヒメは、刀についた血をボロ布で拭いながら、口を尖らせそっぽを向いた。

「ほめられたって嬉しくねーからな」

 声はとても嬉しそうであった。これが犬に変身している時なら、意に反して尻尾がバッタバッタと振り回されていたところだ。

「そうか?」

「嬉しくねーし」

「はいはい」

「ころすぞテメコラァ!」

「さてー次はどこだー」

 と、そこへ仲間から《遠話》が届いた。耳元で響く声に曰く、

[CQCQ、こちら絶世の美少女カジュさん。でっかい群れクラスタはっけーん。]

「分かった、すぐ行く!」

 勇ましく返事をしたはいいものの、ヴィッシュは正直なところ疲労気味であった。何しろ昨夜から今朝まで夜通しゴブリンどもを追い回していたのだ。

「忙しいなァ」

 肩をすくめてヴィッシュがボヤく。緋女ヒメは握り拳を突き出して、トンと彼の胸を打った。

「がんばろっ」

 こう素直に言われては、頷こうという気も湧いてくる。

「よし。やるか」



     *



 同じ頃、第2ベンズバレン四番通りの外れに、病んだ剣士ギリアンの姿があった。

 衰えきった彼には、貧民街からの僅かな道のりが千里にも万里にも思えただろう。痛みは絶え間なく襲い来る。疲れは一足ごとに積み上がる。それでも彼は歩み続けた。頼りは杖代わりの剣一本。こだわり抜いて仕立てた頑丈な鞘は、木の葉のように軽い病人の体を充分に支えてくれた。

 緋女ヒメにまた会いたい。闘いたい。ただその一念が、死にかけの体を動かしていた。

 彼女を想うと、疲労も苦痛も不思議と気にならなかった。むしろ再戦を待ち望む気持ちがいや増して、胸の高鳴りさえ覚えてしまう。この情熱を言い表すだけの語彙ごいをギリアンは持たなかった。身体の中を駆け巡るのは声ならぬ声、言葉ならぬ言葉だ。

 緋女ヒメ

 彼女の剣を初めて目にしたのは、夏の終わりのことだった。

 あの頃、まだこの街に来てから日が浅い緋女ヒメの仕事ぶりを、偶然にギリアンは見かけたのだ。彼女は街道沿いに湧いた戦車蟲せんしゃむしを狩っていた。象ほどもある巨大なカブトムシ。板金鎧なみの装甲を持つ厄介な相手だ。普通なら、大勢で取り囲んで鉄槌で外殻を叩き割るしか対処法はない。

 それを彼女は、ひょいと――湖畔でのんびりと釣り竿でも振るうような気軽さで――刀を走らせ、ただの一太刀で仕留めてしまったのだ。

 美しかった。あの太刀筋は完璧であった。一切の無駄なく正確無比に敵の要点のみを切り裂く、まさに剣の極めて至るべき型。かすみの如く柔らかで、風の如く素早く、大地の如く落ち着いて、そのうえほのおの如く燃えている――

 あまりのことに、ギリアンは見惚みとれた。

 堪えようもない興奮を覚え、ギリアンはすぐさま彼女の元へ駆け寄った。そして息を切らせながら、頭を下げて丁重に頼みこんだのだ。手合わせを所望いたす、と。緋女ヒメははじめキョトンとしていたが、やがてニッカと無邪気に笑い、

「いいよー」

 と、気楽に答えた。

 日を改めて、ふたりは決闘を行った。結果は、散々なものであった。ギリアンの木剣は一度たりとも相手を捉えられず、緋女ヒメの木刀は七度ななたびこちらを打ち据えた。愛撫するような優しい打ち方であった。事実皮膚には傷らしい傷も付かなかった。にもかかわらず、一瞬遅れて骨に重い衝撃が走るのだ。力の全てが身体の芯に叩き込まれているからだ。

 刀の芸術、と言うより他なかった。

 滅多打ちにされながらも、ギリアンはよろこびを覚えた。もはやそれは法悦であった。この木刀を通じて、自分は神秘に触れたのだと、そう思えた。

 勝負の後、緋女ヒメは軽く汗など浮かべながら、楽しそうに微笑んだ。彼女は、神聖なる嶺に凛然りんぜんと咲き誇る大輪の華。剣の巫女――いや、女神そのものであろうか。

 緋女ヒメ

 過去を思い起こしているうちに、ギリアンは目的の場所にたどり着いた。後始末人ヴィッシュの住まい、三階建ての細長い一軒家だ。戸を叩いてみるが、返事はない。ドアには鍵がかかっている。

 留守か、と落胆したところへ、背後から声がかかった。

「あら。ヴィッシュくんにお客さん?」

 振り返れば、よく肥えた中年の女性がひとり、喋りたくてたまらないといった顔をしてこちらを見ている。彼女はギリアンの顔をまじまじ見つめるや、胸の前で手のひらを打って、

「あらあら! ギリアンさんじゃあないの? ずいぶんせたのねえ。

 わたしよォ、隣のパン屋の」

 と、隣家を指さす。正直に言って彼女の顔に覚えはなかったが、おそらくヴィッシュを訪れた時に紹介されたことがあるのだろう。興味のない相手のことは全く記憶に残らないのだ。悪い癖だと思ってはいたが、ついに最期まで直せなかったらしい。

緋女ヒメさんに会いに来たのだ。お留守かね?」

「昨日から3人一緒にお仕事よ。確かトーレスでゴブリン狩りだって」

 トーレスは、ここから東に1日ほどの距離にある小さな街だ。たかがゴブリン狩りにあの3人が駆り出されたとなれば、獲物は並大抵の数ではあるまい。少なくとも50匹以上、ことによると100匹。ヴィッシュたちの力を以てしても、狩り尽くすには軽く丸一昼夜は要するに違いない。

 すると、帰宅は早くとも今夜遅く、あるいは明日のことになろう。

 それまで命がもつかどうか。仮にもったとしても、その時に剣を握る力が残されているかどうか――

「分かりました。ありがとう」

「どういたしまして。戻ったら、あなたのこと伝えとこうか?」

「いいえ、結構。こちらから出向きます」

 そう答えて、ギリアンは歩き出した。パン屋の女性は、枯れ草のように風に揺れるギリアンを見ると、不安に駆られ、再び声をかけた。

「ねえ、大丈夫? 出向くって……トーレスまで行くの? その体で?」

 ギリアンは何も答えなかった。無礼は承知であったが、今は、声をあげる体力さえも惜しかった。もう心を決めたのだ。身体に残った力の全てを、最後の闘いに捧げると。




(つづく)

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