第9話-02 萌え木のごときルクレッタ



 第2ベンズバレンからは、3本の大街道が発している。北には、馬車10台分もの幅を持つ王国の大動脈、通称“無制限街道”。西には、古ハンザ時代から続く由緒正しき“アレフの道”。そして東には、広大な田園地帯を貫く“ヴェダ街道”である。

 ギリアンは東のヴェダ街道を歩きだした。気はいていたが、無理が利かぬ身体なのは自分が一番よく分かっている。焦りを胸のうちに封じ込め、一歩一歩、確かめるようにギリアンは進んだ。

 途中、何人もの旅人に追い抜かれ、時にはいぶかしそうににらまれさえした。気にならなかったと言えば嘘になる。

 だが、彼は己に言い聞かせ続けた。

 ――比べるな。私は私の道をけ。

 第2ベンズバレンを出て、のどかな田園を越え、木の葉もまばらな寒々しい林に差し掛かった頃、彼の耳に悲鳴が届いた。

 見れば、林の中から焦げ色をした獣が一頭、飛び出してきたのであった。猪に似ているが、下顎したあごから長大な二本の牙が付き出している。“衝角猪ラムボア”、魔王の手になる危険な魔獣だ。

 前を歩いていた農民らしい母子が悲鳴を上げた。衝角猪がその声に刺激され、母子の方へ牙を向ける。

 ――いけない!

 と悪寒が背筋を貫くや、ギリアンの身体はひとりでに動いていた。小石を拾い、投げ付け、注意を引きつけておいて、走る。

 猪が来る。

 その動きが、細かな体毛の一本に至るまで手に取るように視えた。

 猪の突進を、僅かに半身ひねってかわし、すれ違いざまに愛剣を走らせる。

 切っ先は線を引くように猪の脚を裂き、一秒遅れて血が噴き出して、腱を切られた猪は横倒しに倒れ伏した。

 あとは楽なもの、であった。もはや立ち上がることも出来ず、怨嗟えんさの声を上げながらのたうち回るばかりの猪に、止めの一撃を突き立てた。

 死んだ魔獣に祈りを捧げながら、ギリアンは不思議に思っていた。今の動きは大変に良かった。強敵を一頭仕留めたというのに、自分は息ひとつ乱れていない。動きに無駄がないからだ。この病みきった身体であれほどの剣が振るえようとは、自分でも信じられない。

 死を目前にした今になって、彼の集中力はかつてないまでに高まっているようだった。

 勝てる、かも知れない。この剣の冴えがあれば――

 そこへ、先ほどの母子が恐る恐る声を掛けてきた。彼女らは愛らしく声を揃えて礼を述べ、何かお返しを、と申し出た。

 ギリアンは丁重に辞退したが、母子は引き下がらなかった。感謝の気持ちを形にせねば気が済まぬ、という素朴で熱烈な善意を感じた。どうしたものか、と思案するうちに、ふとギリアンは空腹を覚えた。

 空腹? まさか? 最近は流動食おもゆさえ受け付けなくなっていたこの胃腸が?

 しかし、確かに空腹だった。さらに信じられぬことに、腹が鳴った。何ヶ月ぶりのことであった。

「では……朝から何も食べていないので」

 申し訳なさそうにギリアンは切り出した。

「何か食べさせてもらえないか」

 母子はそっくりな顔をそっくりにほころばせ、ふたり揃って頷いた。



     *



 母子の住まいに招かれ、ギリアンは下にも置かぬ歓待を受けた。

 食事は大変に豪勢なものであった。カリカリに表面を焦がした塩漬け豚、濃厚な味わいのチーズ、豚の血の腸詰め、この冬に樽から出したばかりのみずみずしいワイン……ありふれたものではあったが、母子ふたり暮らしの農民には、とっておきの贅沢品であっただろう。

 ギリアンはありがたくそれらを頂いた。涙が出るほどに美味うまかった。胃の内側から熱い活力の炎が湧き出してくるかに思えた。まさか、再び食をたのしめる日が来ようとは。

 とりわけ、母親手作りの焼きたてパンは格別だった。かまどから引き出して、灰を払いけて、アツアツのままかぶりつくのだ。これが、美味い。小麦の旨味が口の中で花開くかのようだ。もういくらでも食べられる。

 それに何か、懐かしい味だった。

 昔、こうして焼きたてを食べさせてくれたひとがいた。

 そう、あれはもう10年も前のこと。

 あの頃、ギリアンはまだ17歳。成人してから5年目の、根拠のない全能感に取り憑かれた、どこにでもいる若造だった――



     *



 ギリアンは北部の小さな農家に生まれた。幼い頃から運動の得意な子供であった。とりわけ、騎士を真似まねて棒切れを振り回すのが好きだった。淡い憧れを抱いていたのだ。大人たちは、平民が騎士になれるはずはないと嘲笑あざわらったが。

 ある時、剣の達人として有名な老騎士が村を通りかかり、ギリアンのチャンバラ遊びを偶然に見かけた。そしてすぐさま両親に掛け合い、ギリアンを養子として引き取ったのであった。

 その日から、老騎士はギリアンの師となった。老師にはいくら感謝してもしたりない。ギリアンに素晴らしい剣術を仕込み、平民に過ぎない彼を騎士見習いに取り立ててくれ、いずれは自分の騎士株を譲る約束さえしてくれたのだった。

 ギリアンは師のもとで修行に明け暮れ、その才能を見事に開花させた。達人仕込みの剣は鋭く、15歳の頃にはもう、王国に並ぶものなしと評されるまでになっていた。

 もちろん、平民上がりの彼に、貴族の子弟どもはいい顔をしなかった。なまじ実力があればなおさらである。

 有形無形さまざまの嫌がらせがあった。中には耐え難いものもあったが、彼はじっと我慢を続けた。

 それが可能だったのは、ひとつ、大きな心の支えがあったからだ。

 ああ、萌え木のごときルクレッタ。唯一無二の想い人よ。

 ルクレッタは老師の孫娘だった。一つ年下の彼女は、ギリアンを深く慕い、どこへ行くにもついてきたものだった。剣の修行で散々に打ちのめされるギリアンを、いつも親切に手当してくれた。衣服のつくろいも弁当作りもかいがいしくやってくれた。早くに両親を亡くしたせいか、彼女はどんなことでも独力で器用にこなした。その指使いは見惚みとれんばかりであった。

 ギリアンは彼女を実の妹のように愛した――そして長じては、当然のごとく、ひとりの女として愛するようになっていた。

 いつか騎士の位についたなら、彼女を妻に迎えたい。彼はそんな夢を抱くようになっていた。愛しい人と寄り添い、憧れの職につく幸せな未来。それが目の前のことのように想像できた。

 もちろん、口に出して愛を語れるような度胸あるギリアンではなかったが、ルクレッタもまた同じ気持ちでいるはずだとは思えた。

 根拠のない妄想ではない。一度、成人したばかりのルクレッタに縁談が持ち込まれたことがある。縁談はすぐに立ち消えになった。ギリアンは詳しいことを聞かされなかったが、どうやら、ルクレッタ自身が強くこばんだらしいのだ。後で風の噂を耳にした。彼女が祖父にこう訴えたのだと。

「私、誰のお嫁さんになるか、ずっと前から決めてるの。お祖父じい様が誰より目をかけている人よ」

 ギリアンは舞い上がった。これが舞い上がらずにいられようか?

 以来、ギリアンはルクレッタを強く意識するようになったのだった。いったん女として意識してしまうと、それまでも充分に愛らしかった彼女が、この世に比類なき人とさえ思われるようになった。

 恋は魔法。今も昔も。

 とはいえ、快い魔法なら受けれぬ手はあるまい。

 彼女も同じ気持ちだったろうか? 確かめる術はもはや無いが、少なくとも、その頃からふたりの距離が急速に縮まったのは確かだった。手足に触れる指も、以前とはその甘やかさを変えていた。時には、心臓が破裂しそうなほど近く寄り添って――

 ギリアンはこれまで以上に修行に身を入れるようになった。ほとんど執念にも近い思いを抱いて、ひたすらに腕を磨いた。

 成すべきことはただひとつ。

 騎士になるのだ。鍛え抜いたこの力でもって。



     *



 それから2年が過ぎ、魔王の侵攻が始まった。

 ベンズバレン王国にもその魔手は伸び、東部から北部にかけての地域で激しい戦闘が繰り返された。度重なる敗戦で軍は致命的な兵力不足に陥り、窮余の策として大規模な人材登用が行われた。その中に、騎士見習いの大量一斉叙任も含まれていた。

 ギリアンは、ついに騎士となったのである。

 老師はこれを大いに喜んでくれた。無論ルクレッタもだ。叙任式の夜は祝の宴会で家に戻れなかったが、翌朝、帰宅したギリアンを、ルクレッタは暖かく迎えてくれた。

 ふたりは、どちらからともなく抱きしめ合った。

 その途端、爽やかな性欲が湧き上がり、互いが互いをむさぼるように求めあった。この日、初めてふたりは愛を交わした。

 それはとろけるように素晴らしい出来事だったが――なぜか、あまり記憶に残っていない。おそらく夢中すぎたのだろう。

 それよりも鮮明に覚えているのは、昼過ぎてからルクレッタが作ってくれた朝食のことだ。

 あの日、寝床で、汗ばんだ彼女の裸体を、濡れた手ぬぐいで拭いてやった。彼女は心地良さそうに鼻息を漏らした。その体を抱き寄せてキスを奪った。もう一度、と甘い声でねだられて、今度はうなじに唇をわせた。背中にも。乳房の上にも。最後はもちろん、再び唇に――

 それからルクレッタは、急に恥ずかしがりはじめ(つい今しがた、あらゆるところを惜しみなく開け広げたにもかかわらずだ)、いそいそと逃げるように衣をまとった。そして、速やかに妹の顔に戻ると、ギリアンのためにパンをこね始めたのだった。

 その時の、パンの焼けるうっとりするような香ばしさは、ルクレッタへの情愛と密接に結びついている。

 ギリアンは、ルクレッタを寝床に誘った。テーブルでは向かい合って座るしかないが、寝床なら横に寄り添うことができるから。

 ふたりは枝に並んだ小鳥のように身を寄せ合い、焼きたてのパンを分け合った。ひとつまみずつ千切り、互いに食べさせあった。何度も指が唇に触れた。パンと一緒に指先をねぶり合うこともあった。

 美味い、美味いパンだった。暖かく、柔らかく、何より甘く、ルクレッタの心が染み込んだようであった。一口ごとに活力が湧き出し、け口を求めて体内を駆け巡った。期待は胸の内で膨らみ、膨らみ、膨らみ上がり――ついに弾けた。再びふたりは獣となった。荒々しい行為が済むや、すぐさまもう一度。さらにもう一度、もう一度――

 求め求められることの快楽を、ふたりは心ゆくまでねぶり尽くした。

 それが最後の逢瀬おうせになるとは、夢にも思わぬままに。



     *



 農民の母子は、命の恩人たるギリアンをしきりに引き止めたが、彼は聞き入れなかった。手厚い歓待に礼を述べ、母子を振り切るように住まいを辞した。ふたりは街道に出て、ギリアンの姿が消えるまで見送ってくれた。

 ――ああ、よかった。

 ギリアンは、満ち足りた気分を味わっていた。

 少なくとも、今日自分が闘いにおもむいたために、ふたりの命を救うことはできたのだ。それだけでも、この人生は無駄ではなかったと言えるではないか。

 ギリアンの表情には生気がみなぎり、先ほどまでとは別人のようにさえ見えた。いまだ体の痛みは治まらず、杖無しで歩けるわけでもなかったが、背筋はぴんと伸びていた。道はまだまだ遠かったが、必ず緋女ヒメのもとへたどり着けると、無邪気な確信を抱いていた。

 意気揚々、ギリアンは街道を進んだ。

 途中で多くの旅人とすれ違ったが、その中に、大きな帽子で顔を隠した二人組の男もいた。彼らの片方は、ギリアンの横を通り抜けるやひたと足を止め、音を立てぬよう慎重に振り返った。もうひとりがいぶかって問いかける。

「どうした?」

「静かに。今の病人、奴だ」

「奴……」

 ふたりそろって帽子をそっと持ち上げ、ギリアンの背中を見やる。片方が、あっ、と小さく声を上げた。見る影もなくせ細り、人相も変わってしまっていたが、あの後ろ姿には見覚えがある。

「ギリアン! ギリアン・スノーかっ」

「まさかこんなところで会うとはな。おい、これはチャンスだぞ」

 ひとりが、己の右肩をさすった。彼の右腕は肩の下までしかなかった。かつてあのギリアンに切り落とされたのだ。

 もうひとりもまた、指で顔の傷をなぞった。眉の上から頬にかけて、斜めにばっさりとやられている。ギリアンの剣によってつけられた傷だ。

「やろう。10年前の怨み、今ここで晴らしてやる!」




(つづく)

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