■第4話 “怒りをこめてふり返れ”

第4話-01 夢持てぬ若人



 ――笑え、ゴロー。苦しい時こそ笑うんだ。

 父が遺したものはその言葉ひとつきりであったが、その僅かな遺産は10年を経た今でも磨り減ることなくゴローの中に残っている。はたまた、教訓通り生きるうちに身体と魂に染みついて、ぬぐいがたい習い性となってしまったのか。

 いずれにせよ、父の教えが数々のトラブルからゴローを守ってくれたことは疑う余地もない。今だってそうだ。取引先の執事スチュワードさまの傲慢な見下し顔に対して、ゴローは反射的に、ニヘラと無害そうな笑顔を返すことができた。

「受け取れないなァ。こう品質が悪くてはね」

 執事の声は、その言葉とうらはらに愉快そうであった。出入り業者ゴローの愛想笑いで優越感を刺激されたものと見える。未来ある健康な若者が枯れ枝のような自分に媚びを売っている――その事実だけで非常な満足を得られるのだ。執事はそういう男だった。

 ゴローは、古い刀傷のある坊主頭をザラリと撫でて、しおれる雑草のごとく腰を折った。それで足りなければ平伏でもなんでもするつもりだ。今さら恥など覚えはしない。いつものことであったから。こうしていると、側頭部に彫った髑髏ドクロの入れ墨がいい具合に歪んで、一緒に頭を下げてくれてるようにも見える。

「お願いしますよォ、オレに調達できンのはこのくらいが限界で。どうかお目こぼしを、閣下」

「閣下などと呼ばれる筋合いはないよ」

 言いながらも執事は上機嫌だ。すかさずゴローはたたみかけた。

「すんません、オレ、バカなんでよく分かんなくってェ。

 でも、みんな言ってるスよ。お屋敷の屋台骨は執事のブリアンさんだって。ほんとの閣下はあの人だって。違うんスか?」

「教育のない連中はこれだからね……」

 苦笑しながら執事は受取証のボロ布にサインを走らせた。そしてその上にいくばくかの金貨を放る。その枚数が少々たりないことは一目で分かった。しかし――ゴローは笑顔を崩さなかった。ここで不正を指摘して何になろう。得られたはずの魚を捕り逃すだけだ。

 ならば、掴めるものを掴むまで。金貨は金貨。たとえ侮りと蔑みがたっぷりまみれていようとも。

「毎度ありざぁす、ブリアン閣下」

 ゴローは深く深く頭を下げた。今度は尊称の誤りが指摘されることはなかった。



     *



 ――しみったれやがって、あのブリブリ執事が!

 心の中で悪態をつきながら、ゴローは屋敷の裏口から通りへ出た。

 気分が悪い。こんな日は楽しいお店へ行くに限る。おいしい料理とおいしい酒、おいしい女の子が彼を待っているのだ。何を悩む必要があろう? 彼は今のところ金持ちだ。

 ゴローが第2ベンズバレンに連れてこられて今年で8年になる。彼の父はシュヴェーア帝国の兵士だったが、魔王戦争で死んだ。孤児となったゴローは2年間ネズミのように暮らし、そのあと人買いに捕まった。そして急発展を遂げつつあったこの街に送られたのだ。穀物樽を詰め込むような気軽さで船倉に詰め込まれて。

 この街では、父の遺した教訓が大いに彼を助けてくれた。僅かな銀と引き換えにゴローを買い取ったケチな商人でさえ、彼の媚びた笑顔には気を許したものだ。だからといって待遇が良くなるわけではなかったが、少なくとも、気まぐれな怒りの拳を他の奴隷にそらす効果はあった。そして、脱走を可能とするだけの隙を生み出す効果も。

 ゴローは13歳の時に奴隷部屋を抜け出し、貧民街に転がり込んだ。笑顔はそこでも役に立った。若く従順であった彼はたちまち地元ところの住人たちに好かれ、路傍の、雨が凌げるひさしの下に寝起きすることを許された。

 それから5年。今のゴローは、仲買人ブローカーの仕事で口に糊している。

 仲買人ブローカーと言えば聞こえはいいが、その実態はチンピラまがいの故買屋だ。貿易の盛んな第2ベンズバレンには、泥棒、強盗、倉庫荒らしの類が掃いて捨てるほどいる。その中でも犯罪組織と繋がりのないモグリの連中を相手に、盗品や横流し品の仕入れを行う。仕入れたそばから蛇のように素早く売りさばく。

 利益は決して大きくない。仕入れ先が盗賊だけあって一筋縄ではいかないし、顧客のほうも足元を見て買い叩こうとする。商売の手を広げればたちまち警吏や組織に目を付けられる。危ない橋を渡ったことも一度や二度ではない。まったくろくでもない商売だ。

 そのうえ、苦労して得た僅かな儲けさえ、その日のうちに呑んでしまうのが常だった。金があるなら使うに限る。貯め込んで何になろう? 明日の幸福など知ったことではない。そもそも明日が来る保証がどこにある?

 ゴローは年代記通りのいかがわしい酒場に足を向けた。昼間から飲んだくれどもが集っているうえ、給仕娘と娼婦の区別をしなくてよいような面白おかしい店だ。ゴローが戸をくぐると、案の定酒場は大いに盛り上がっており、ナイフのような目をした不機嫌なゴローを歓声で迎え入れてくれた。

「おー、ゴローちゃん! イェー!」

 それを聞くなり、ゴローはあの小動物めいた笑顔を取り戻した。真夏の海、迫りくる波に全身で飛び込むようにして、ゴローは酔っ払いの中に身を投げ出した。酒臭い息が彼の身体を受け止める。もののついでに、給仕をしていた女の子の胸を揉む。頬を思いっきりツネられる。周囲で下品な爆笑が起こり、ゴローも満足げに笑った。

「うぉう、ごろちゃんー、ょうよー?」

「なんスかおっちゃん、真昼間からちょー飲んでんじゃねっスかァ! まじカッケー!」

「よれっけー!」

 泥酔した男が杯をくれるので、ゴローはカパッと一口にそれを飲み干した。あとはやんやの大喝采。ゴローは空の杯を大将首よろしく掲げ、店主に酒と肉を注文した。そしてどこか他に絡む相手はいないかと店内を見回し、隅の席に彼女を見つけた。

 その女は、酒場の薄暗がりを切り裂くかのような、光輝く赤毛をしていた。ゆったりとした東方風の着物をまとい、肉食獣のしなやかな手足をのんびりと投げ出している。彼女の目がゴローを捉えた。抗いがたく魅惑的な視線に、ゴローはいつも通り人懐っこく笑いを返した。

緋女ヒメサン!」

 ゴローは酔っ払いたちの手を振り切って、赤毛の女――緋女ヒメに駆け寄った。彼女は軽く杯を上げて挨拶をくれた。その動きひとつでゴローの心はフワリと舞い上がり、そのまま天に昇るかのようだ。

「よっ。久しぶり」

「んもー、最近ぜんぜん顔見せてくんなかったじゃないスか。ゴローちゃんさみしいっ」

ワリワリィ、ちょっと仕事忙しくてさ」

「へえ? また傭兵?」

「後始末人ってやつ。知ってる?」

「えー! 知ってる知ってる、バケモン退治するやつっしょ? まァーじスか! やっぱ緋女ヒメさんヤベェ! まじ世界レベル!」

「あ? たりめーだろ? ナメてんのかコラ?」

「じゃ今日は緋女ヒメさんの就職祝いだァ! 今日はオレのオゴリってことで! みんな、飲むぞー!」

 とたん、狭い酒場に嵐のような歓声が沸き起こった。酔っぱらいどもが大挙して押し寄せ、緋女とゴローを揉みくちゃにする。オゴリと聞いては悪魔だろうとまつりあげる、そういう即物的な人間の集まりだ。

 だが、それの何が悪いというのだろう。少なくとも、常識人ぶって刹那の盛り上がりから身を引いてしまう、そんなつまらない人間よりはよほど上等ではあるまいか?

 その日は楽しい酒になった。下品な冗談が休みなく飛び交い、3人が全裸で跳ねまわり、酒樽は4つ空になり、最終的にはもちろん全員がべろんべろんに酔っぱらった。散会の後は力尽きたものたちが床に転がり、さながら戦場のごときありさまとなっていた――だが、こんな幸せな戦場なら、いつだって大歓迎というものだ。



     *



 気持ちよく酔ったゴローは、自宅へ帰るつもりで、うっかり女の所に転がり込んでしまった。というよりも、気が付いたら良い匂いのするベッドにひっくり返っていたのだ。

 給仕女――それは、この界隈では娼婦の別名でもある――のコンスェラは、突然訪れた酔漢に対して親切極まりない対応をしてくれたものと見える。ゴローの服は帯紐も襟も緩められ、汗みずくの身体は清潔な手拭いで丹念に拭かれていた。そしてゴローが目を覚ましたと知ると、コンスェラは水差しを口元まで運んできてくれた。

「ゆっくり飲むんだよ。むせるといけないからね」

 娼婦の声は優しかった。もしゴローが母親というものを知っていれば、彼女の中に懐かしい母性の灯火を見出したかもしれない。あいにくと彼には懐古すべき思い出さえ存在しなかったが。

 喉を鳴らして水を飲み、ゴローはいつものように笑みを浮かべた。コンスェラが不思議そうな顔をしている。ゴローは彼女の頬に手を伸ばし、お世辞にも見目良いとは言い難い顔と、無残に痩せた腕と胸とを、執拗に撫でまわした。

「ありがとな。お前かわいいな」

「お世辞でもうれしいよ」

 とコンスェラは困惑気味に苦笑した。自分の容姿が男の目にどう映るかは、ほかならぬ彼女自身が痛いほどに心得ていた。ここ半年ばかり娼婦としての仕事が開店休業状態であったのは、それなりの理由あってのことなのだ。

 唯一の例外は、ゴローであった。彼だけは、金ができると、決まってコンスェラを抱きに来た。他の女もちょくちょく買っているのは知っている――しかし、コンスェラにとってはゴローが唯一の男であった。少なくとも、ここしばらくの間に限っては。

「なあコンス、オレ、悪い奴だよね。お前をいいように使うばっかでさ」

「そうさ、悪い子だよ」

「えっへへぇ……」

 ニヤつくゴローは、まるで悪戯な少年のようだ。まさに少年の無邪気さでもって、ゴローはズボンを脱いだ。その下にあったものがボロリと露わになって、コンスェラは思わず、ワッと歓声をあげてしまう。

「オレってやつが、なんだか特別なことになってるぜ」

「そうみたい」

「おいおいコンス、お前だってよォ、この特別な状態をいいように使わない手はないんだぜ……」

 コンスェラはケラケラ笑って、それから、ゴローの言う通りにした。彼の状態はまさしく特別で、その夜もまた、過去に例のない特別な夜となった。

 夜明けごろ、コンスェラは彼の腕枕で心地よくまどろみながら、その耳元でそっと囁いた。

「ねえ、あんた、怒らないで聞いてくれる?」

 ゴローの鼻が鳴った。返事だったのか寝息だったのかは分からないが、コンスェラは構わず先を続けることにした。聞いてほしい気もするし、聞かせるのが怖い気もする。だから、通じなければそれはそれで構わないと思ったのだ。

「ときどき思うんだ。いつか、所帯を持てたらって……」

「そんな金がどこにあるよ」

 ゴローの指がコンスェラの首筋をくすぐる。コンスェラは撫でられた猫のようにその手に頭を擦りつけた。

「貯めようよ。そんなにたくさん要るわけじゃないだろ、安く祝福をくれる神父さまだって探せばいい。それに……それに、あのネ……」

 返事はなかった。見上げてみると、ゴローは目を閉じていた。いつのまにか眠ってしまったらしかった。コンスェラは諦め、彼の腕の中で丸くなった。ひとまずのところ、この小さな幸せひとつで満足できないこともなかったのだ。

 一方ゴローの意識は夢と現実の狭間にたゆたい、そこでぼんやりと思索に耽っていた。いくら考えたところで、導かれる結論は、この10年毎日彼を縛めてきたのと同じものであったが。

 ――未来なんて、夢見てどうするよ。

   オレたちみたいな貧乏人が。クズみたいな人間が……



     *



「だが夢は見るべきだ。見ること、それ自体が夢の入り口なのだからな」

 数日後、いつものように酒場でくだを巻いていたゴローに、その男はそう囁いた。知らない男だ。今日知り合ったんだったか――いや、数日前だった気もする――深い酩酊状態にあったゴローには時間さえ判然としない。

「ン……なんてェ?」

「でかい仕事をするつもりはないか」

 男の赤ら顔に左右一対の浅い皺が刻まれた。それが不器用な笑顔なのだと気づいて、ゴローは背筋を正した。酔いが急ぎ足に逃げ出していった。笑顔を武器として使うゴローであればこそ思うのだ。

 ――この笑い方をするやつは、ろくでもないやつだ。

「どんくらいでかい……」

「ねえゴロー、お酒、もうないみたいよ」

 給仕娘としてのコンスェラが、店の中をうろつきまわる途中でゴローを気にかけてくれた。しかしゴローはいつものように笑って見せる余裕すらなく、不愛想に手だけ振って追い払った。

 改めて、赤い顔の男のほうに半身を向ける。

 なるほど、でかい稼ぎだ。彼の言うことが本当なら。

「なんでオレなの?」

「あんたが“探し屋”のゴローだからさ」

「……で、何が要る」

「聞いたからにはやってくれるんだろうな?」

 ゴローは何も言わない。

 赤い顔の男は、またあの不気味な作り笑いを浮かべ、岩の擦れ合うような声でこう言った。

だ」

 ――鈴。

 しばらくの間、ゴローはその単語を頭の中でぼんやりと転がしていたが、その意味するところを理解するや、ぞっと悪寒に身を震わせた。コンスェラを呼びつけ、酒を大量に注文する。

 なるほど、でかい。でかい仕事だ。あまりにも大きすぎて――酔わねば正気ではいられない。

か」

さ」

 きつい酒を一気に胸に流し込み、ゴローは囁いた。怯え切ったネズミの声で。

竜使いの鈴ドラゴンルーラー……!」



     *



 竜使いの鈴ドラゴンルーラー――この業界に働くもので、その法具を知らないものはあるまい。魔王軍の“遺産”は数あれど、これほど強く恐れられている魔法の道具フェティシュは他にない。ちっぽけな鈴ひとつで万の軍勢に匹敵する。ことによると一国家さえ揺るがしかねない。それほどの品である。

 かつて魔王軍は、戦力不足を補う手段として多種多様な魔獣を用いた。その要となったのが、“獣使い”の術士たちと、その手に握られた竜使いの鈴ドラゴンルーラーであった。

 この鈴には魔獣を服従させる魔力が備わっているのだ。ちっぽけなその鈴がひとたび音を響かせるや、何十という魔獣たちが獣使いの意のままに暴れ狂う。魔王軍はその力を大いに用いて人間の軍隊を蹂躙した。たった3人の獣使いによって一国が滅亡した例さえ存在する。

 当然ながら、この危険な法具フェティシュは国際条約で厳しく規制され、どこの国でも第一級の禁制品に指定されている。所持していただけで摘発される――どころか、その場で首を刎ねられても文句が言えないほどの代物だ。

 にもかかわらず、竜使いの鈴ドラゴンルーラーの需要が絶えることはない。なぜなら、

「好事家にとっては垂涎の的だからな」

 ゴローの自宅に場所を変え、しばし密談を交わした後で、赤ら顔の男はそう言った。彼はレオと名乗った。なるほど、ぼさぼさに伸びたハシバミ色の髪とヒゲが獅子レオめいて見えなくもない。それに獅子は狩り以外では極めて自堕落だという。ぴったりな名前と思えた。

 レオが笑う。獅子の作り笑い。

「忌まわしい魔法の鈴は、その邪悪にもかかわらずたいそう美しいらしい。いや、邪悪だからこそか」

「簡単には手に入らないよ……」

「分かっている。探してほしいということだ。これは当座の手間賃だが――」

 と、レオは机に小さな布袋を置いた。丁重に、教導院の神父さまが聖体を扱うような手つきで、だ。ふと、執事スチュワードブリアンによるぞんざいな扱いが思い起こされた。この獅子レオには、ゴローを軽んじるようなところがないのだ――少なくとも、目につく範囲では。

 ゴローはそっと袋の中を確かめた。そこにあった金貨の数は、ゆうに想像の3倍を超えていた。思わず手が引っ込んだ。その動きは怯えて巣穴に逃げ込もうとする野兎にも似ていた。

「現物にはこの10倍払おう」

「はっ……!?」

「10倍だ。契約書でも作ろうか?」

 レオのにやにや笑いは、全てを承知した者の特権だ。彼なりの冗談だったのかもしれない。契約書だなんて危険な証拠を、ゴローともあろうものが残したがるわけがない。何もかも分かったうえでからかっているのである。

「なあ、ゴロー。あんたは今のままでいいのか?」

 レオは椅子に深く体を沈め、我が家のように落ち着いた動きで、パイプの煙草に火を付けた。たまらない芳香が狭い家の中に漂い、ゴローの酸い汗の匂いを上から塗り潰していく。

「あんたのことは少し調べさせてもらったよ。悪く思うな、こんな仕事を頼むんだ、慎重になって当然だろう?

 あんたのことを知れば知るほど、この件を任せたくなった。いい腕をしているくせに、小金があるだけのクズどもにこき使われて、得るのは薄給。

 この境遇で満足か、と訊いているんだ」

「オレェ……」

「満足できないのなら、掴め。

 ただの金なんかじゃない。ここにあるのは、あんたの夢だ」

 ゴローは石のように固まって、金貨の袋を見つめた。汗が額にじわりと湧き、やがて玉になって、鼻先から流れ落ちた。その雫が垂れる音さえ聞こえるような気がした。




(つづく)

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