第3話-03(終) 安堵
食事を出したら、すぐに部屋から出て厨房に戻るよう、ブリギットにはよく言い含めてある。ヴィッシュは彼女が山盛りの食事を載せた盆を運ぶ後ろについていき、部屋の外で壁に背を付け待機。
待つことしばし。ブリギットがお辞儀しながら部屋を出る。命令通り厨房に戻るのを見届け、さらに待つ。部屋の中では鬼が食事に手を付ける物音。
と。
狂ったような咆哮が響く。
――好機!
即座にヴィッシュは部屋に躍り込んだ。テーブルの上に載せられた料理を派手に散らかしながら、鬼が飲み込んだばかりの肉を吐き下している。
ヴィッシュが先ほど肉に仕込んでおいたのは、粘膜を傷つける毒である。飲み込めば、喉や胃に激しい痛みを生じる。吐いてしまえばそれまでなうえ、相手を完全に行動不能にするほどの効果はないが、その代わりに無色、無味、無臭。五感の鋭い獣にも有効で、一瞬敵の動きを封じる程度のことはできる。
そして、その一瞬で充分。
気配に気付いた鬼が、血走った目をヴィッシュに向けたその瞬間、かねて準備の
ヴィッシュ特製の目潰し玉。相手の目を狙って当てるのは難しいが、毒で動きを封じた上でならこの通り。
突如視界を塞がれ、混乱した鬼は咆えながら腕を振り回した。だが狙いも付けない大振りの一撃、身をかわすのは容易いことだ。軽々とその攻撃をかいくぐり、剣を抜きつつ肉薄すると、膝を狙って斬りつける。
ヴィッシュの腕では、分厚い毛皮に覆われた丸太のような足を切断することは難しい。が、膝骨を叩き割ることなら不可能ではない。手応えはあった。鬼が悲鳴を挙げて倒れ伏す。巻き込まれぬよう、ヴィッシュはソファを跳び越えて距離を取る。
毒で自由を奪い、目潰しで視界を塞ぎ、足を斬って行動を封じ、しかも
何しろ敵は岩をも砕く膂力の持ち主。一発でも食らえば、それだけで絶命しかねない。万に一つも攻撃を受けるわけにはいかないのだ。
――次は、腕。
とにかく敵が混乱し、まだ目潰しを拭い取れずにいる内に、可能な限り畳みかけておく。ソファの横を走り抜け、身を起こそうと床に突いた鬼の腕に近づく。だが肘を狙って再び斬りつけようとした矢先、物音で察知したか、鬼がその腕を振り上げた。
ヴィッシュは舌打ちひとつ、攻撃を諦めて後退する。せっかく目を塞いだのに、当てずっぽうで振り回しただけの腕に殴られてはつまらない。
だがその時、予定外のものが視界に入った。
【? ?? デス?】
音を聞きつけて駆けつけたに違いない。部屋の入口あたりに立ち尽くしたブリギットが、状況を理解できず頭を回転させている。
その声に、岩砕き鬼が気付いた。
振り上げた拳が、そちらめがけて振り下ろされる。
――まずい!
思うのと。
足が動くのは同時だった。
ブリギットに駆けよって、彼女を
肺が潰れ、背骨が軋む。ただの拳の一撃が、まるで鉄の棒を叩きつけられたかのよう。その衝撃で吹き飛ばされ、ヴィッシュはブリギットと一緒になって部屋の壁に身を打ち付けた。
僅かな間、気を失っていたのだろうか。
やっと正気に戻ったとき、岩砕き鬼は、目潰しを拭い、折れた片足を引きずりながら、こちらへ迫ってきていた。その手には粗雑ながら巨大な棍棒――
慌てて立ち上がろうとするが、その瞬間、背中から全身に激痛が走る。呻きながらヴィッシュは膝を突く。まずい。今の一撃で、骨を折られたかもしれない。
――くそっ! 馬鹿か俺は! 何やってんだ!
自分を呪う。自分の甘さを。何のために卑劣な手段を用いてまで、慎重にことを運んできたのだ? この状況を回避するためではないか。なのに情にほだされて――!
岩砕き鬼が棍棒を振り上げる。このままでは終われない。奴が棍棒を振り下ろす一瞬が勝負。大振りの攻撃を懐に飛び込んでかわし、急所を狙って斬りつける。それしかない。
痛みを気合いで抑えつけ、ふらつきながら立ち上がる。
その頭目がけて、棍棒が振り下ろされた。
――今!
床を蹴り、前に跳――
ぼうとしたその時、痛みが電流のように体を駆けめぐった。
跳べない。足がもつれる。為す術もなく倒れ伏す。棍棒が迫る。ヴィッシュの頭が叩きつぶされる――
その直前で、ぴたりと、鬼の動きが止まった。
思わず痛みも忘れ、茫然としてヴィッシュは鬼の顔を見上げた。苦しげに歪んだその形相。全身に筋肉が痙攣し、体を動かそうと藻掻いている。だがまるで強靱な鎖に縛り上げられてでもいるかのように、鬼は指一本動かせないまま、立ち尽くすばかり。
――なんだ?
状況を理解できずにいるヴィッシュに、低くくぐもった声が届いた。
「戦士……斬れ……」
他ならぬ、鬼自身の口から発せられた声が。
「何?」
「早く……憑……時間が……」
――まさか。
「ギルディン? 賢者ギルディン、あんたなのか」
「そう……頼む……守って……」
悲痛な声と共に。
一筋の涙が、鬼の目から零れた。
「あの子……ブリ……ギット……」
ようやく、ヴィッシュは全てを理解した。
屋敷に入った時。寝室に足を踏み入れた時。この屋敷に来てから二度感じた異様な気配。何のことはない、ブリギットが言っていた通りだった。この屋敷の主人は、ずっと屋敷の中に住んでいた。ここに居たのだ。死してなお、死にきれず。100年もの永きにわたって。
彼の愛する
「わかった……」
痛みを堪えてヴィッシュは立ち上がった。
「後のことは任せろ」
鬼の顔に、笑みが浮かんだように見えるのは気のせいか。
ヴィッシュは両手に剣を握りしめる。
雄叫び。
瞬きひとつするほどの時間の後には、ヴィッシュの剣が、一刀のもとに鬼を切り伏せていた。
*
倒れた鬼を足で蹴り、完全に事切れていることを確認すると、ヴィッシュはその場にへたり込んだ。終わった。危ないところだったが、なんとかなった。いや、単に幸運に恵まれただけか。
見れば、ブリギットが立ち上がり、またいつものように頭を回しながら、ヴィッシュに近づいてくる。衝撃でどこか壊れでもしたのだろうか。駆動音がおかしいのが気になる。カジュに頼めば直してくれるかもしれない。
その時、鬼の死体が青く発光した。ぎょっとして、ヴィッシュは思わず剣を取る。だが青い光は吸い上げられるように死体から立ち上り、渦巻きながらまとまって、人の形を取った。神経質だが、不思議と安らいだ表情の、老人の姿。これは――
【ギルディン サマ】
ぽつりと、ブリギットが呟く。
ヴィッシュは弾かれたように、彼女に顔を向けた。
【イッテラッシャイマセ】
慎ましく、深々と、心を込めて、彼女は体を軋ませながらお辞儀する。
まだ事態を信じられないヴィッシュの目の前で、老人は微笑み、薄らいで、虚空に溶け、消えた。
後に残されたのは、ただ、静寂。
終わった。
もう、全て、終わったのだ。これで、やっと。
そう思った途端、静寂を金属音が切り裂いた。見れば、ブリギットが糸の切れた人形のようにくずおれていた。慌てて這い寄り、抱き起こす。声を張り上げて呼びかける。
彼女が蒸気を吹き出して頭を回すことは、もう二度と無かった。
*
いつの間にか、雨はすっかり止んでいた。
ヴィッシュは森の中に穴を掘り、寝室の白骨を集めて埋葬した。手近な岩を一つ転がしてきて、墓石代わりにする。庭園に咲いていた花を一輪そなえ――
最後に、もはや動くことのないブリギットを、墓石にもたれかからせる。
これは推測に過ぎないが、賢者ギルディンが亡霊化した原因は、ブリギットにあったのではないだろうか。自分を世話するように、という命令を解除せぬまま死んでしまって。主人の死を理解できぬまま、永遠の労苦に苛まれる彼女を、見ていることしかできなくて。
だが、とヴィッシュは思う。
本当に彼女は、主人の死を理解していなかったのだろうか?
もちろん、答えは誰にも分からない。真相は全て闇の中。
ヴィッシュは細葉巻に火を付ける。
「あっ。いたーっ! コラァー!」
遠くから耳慣れた声がする。振り返れば、ぶんぶか手を振って駆けよってくる
「よお。無事だったか」
「無事だったかじゃねーっつーの。何はぐれてんだよ、心配させやがって」
「そりゃお互い様だ」
「とにかく、雨も止んだし、早いとこ仕事済まそうぜ」
「もう済んだ。たまたま鬼と出くわしてな」
ヴィッシュが言うと、
「片付けたの? あんた一人で?」
「ああ」
「やるじゃん」
「怪我したけどな。治してくれよ」
「いいけど。そのお墓、何。」
カジュが指さす先は、ヴィッシュが作ったばかりの墓石。ヴィッシュは頭を掻く。
「それが……俺にもよく分からねえ」
「はあ?」
「うわ。すっげ。
カジュがブリギットの亡骸に寄っていって、しゃがみ込み、ぺたぺたとその体を触りはじめた。関節の隙間から中を覗き込み、目にはまった赤い宝石をじっと観察し、
「持って帰ろ。」
「あ、いや、待ってくれ」
慌ててヴィッシュは制止した。
「これ、お金になるよ。」
「知ってる。でも……頼む。そっとしといてやってくれないか」
自分でも、どうしてこんなことを口走っているのか分からない。
ただ、墓石に寄り添い、安心しきった表情の彼女を見ていると――
「そいつはずっと、働きづめに働いて――
今やっと、大仕事をやり遂げたところなんだ」
煙草の煙を、秋風が吹き流していく。
見上げれば空は、一欠片の白も黒もない。青。
THE END.
■次回予告■
夢。それは悪魔の誘惑なのか? 禁断の果実に触れた若者は、何も得られず死ぬだけなのか? 希望ゆえの焦燥。渇望ゆえの至誠。不条理という名の巨人が迫りくる。だから
次回、「勇者の後始末人」
第4話“怒りをこめてふり返れ”
Look Back in Anger.
乞う、ご期待。
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