■第2話 “蝉の亡骸”
第2話-01 鍛冶屋ガーラン
石畳の上に、蝉が一匹転がっていた。
てっきり死んでいるのかと思ったら――やおら、黒い羽根をばたつかせて暴れ出す。熱した油の弾けるような泣き声をけたたましく撒き散らしながら、闇雲に飛び跳ね、墜落し、跳ね返る。
もう終わりなのだ、こいつは。小さな虫のもがきは、哀れを誘う死の舞踏。
「蝉は10年土に埋もれる、て」
ガーラン爺は蝉のような声で言った。
「やっとこ這い出てくると、あとは交尾して死ぬだけ、て。
そんなら、飛び回るより、這い回るほうがずっと長い、つうて」
内心を推しはかることさえできない無表情のままで、爺は鎚を振るい続けた。彼の手許で火花が飛ぶ。赤熱した鉄屑が綺麗な放物線を描き、次第に黒ずんで、やがて空気に溶け、消えた。
「そんなことは知ってるよ。それがどうかしたのか」
ヴィッシュは穏やかに相槌を打ちながら、火花をじっと見つめていた。ヴィッシュの愛剣は今や太陽めいて赤く、打たれるたびに熱を増していくかに見える。ガーラン爺の何か――言葉にならぬものが、ひと打ちごとに刃に染みわたっていくかのように。
「蝉は本懐遂げたかや。いい女を捕まえたかや。そんで何かが残るかや」
ヴィッシュは何も言えない。
「そこにおったんで、聞いてみただや」
「なんて?」
「どんな気分だ、つうて」
*
鍛冶屋のガーラン爺と出会ったのは、もう7年も前のことになる。
ヴィッシュからかけた言葉は一言、「頼む」とだけ。返答は火花と、打ち直された剣が一振り。それ以来、付き合いは絶えない。
何しろ鉄と火花を心から愛しているような爺だ。剣だろうが槍だろうが鎚だろうが鎧だろうが、武具に限らず包丁、鍬、鋤、果ては鍋の鋳掛けから髪飾りまで、鉄と名の付くものなら見境なしに引き受けてくれる。そして、鋲一本にいたるまで納得のいく出来にならねば、決して品物を返そうとしない。
それだけに、仕上がりは見事の一語に尽きる。おかげさまでヴィッシュの家の台所は、さながら爺さんの作品展示会がごときありさまだ。
「いい鍋には味がある。鍋の味が料理に染みつくのさ」
今、ヴィッシュが得意気に振る鍋も、もちろんガーラン爺の作である。
「仕事上がりにこいつで肴の一つもこしらえて、夜風でも浴びながら孤独に一杯いくのが、俺の唯一の楽しみなんだが――」
彼の眉がぴくりと震えた。
「――なんでそこにお前らがいるんだよッ!!」
「いい匂いがしたから」
「夕焼けに誘われたから。」
台所から居間を睨んでみれば、そこに居座る女とガキの姿が見える。既にフォークをかまえて臨戦態勢。冗談じゃない。
ひとりは、炎のような赤毛の女。年の頃は17、8。顔つきは幼いが目は猛禽のそれ。体は細身だが痩せているわけではない。雪のような肌の下には肉食獣のしなやかな筋肉が包まれている。東洋風の着物を艶めかしく着崩して、引き締まった股と胸をきわどいところまで覗かせている。それが寝椅子の上にあぐらをかいているものだから、ヴィッシュは目のやり場に困ってしまう。見るけど。
名前は
ふたりめは、長い金髪を自由放埒な髪型に編み込んだガキ。まだ10歳かそこらだろうか。ゆくゆくは素晴らしい美人になりそうに思えるが、他人を斜め上から
名前はカジュ。ちょっと可愛い感じなのがまた腹立たしい。
「まったく、毎日毎晩タカりに来やがって……」
ぶつくさ言いながら、ヴィッシュは完成した男の手料理を居間に運んでいった。今日のメニューは、夏野菜と豚肉のナッツ炒め。甘辛く濃いめの味付けに、コリコリと歯ごたえのある砕きナッツのアクセントがポイントだ。酒は
かぐわしい香りに、
「うんまそー♪ いっただっきまー……」
がっ。と音を立て、振り下ろしたフォークがテーブルを貫いた。すんでのところでヴィッシュが皿を引っ込め、
「やらん。俺のだ」
「あンだよ! ケチ!」
「金銭感覚に優れていると言ってもらいたいね」
「腹をすかしたイタイケな少女をほっといて、自分だけ食う気かよ」
「誰がイタイケだ、筋金入りのすれっからしが! そんなに食いたきゃ自分で作れ。キッチンくらい貸してやる」
「ひょっとすると台所が爆発しちゃうけどいい?」
「なんでだよ!? 一体何を作る気だ!?」
いいかげん間の抜けたやりとりにも疲れて、ヴィッシュは大きく溜息を吐いた。こいつらが来るといつもこうだ。ヴィッシュはクールにいきたいのに、毎度毎度調子が狂わされる。これ以上はまっぴらだ。
「いいか? お前らとは前に仕事で一回関わっただけだ。仲間でもなけりゃ友達でもねえ! つきまとわれちゃ迷惑なん……」
と、言いかけたところで、ヴィッシュは気づいた。
さっきから沈黙を保っていると思ったら――ガキのほう、カジュが静かに、俯いている。ソファの隅に縮こまって。小さな細い肩を、もっと小さく震わせて。
「……おい?」
「……っく……」
――泣いてる!?
ヴィッシュは慌てた。泣かせたのか? 俺が? 泣かれたって困る。こっちは理屈を言ってるだけだ。女子供だからといって泣けば何でも解決すると思うなよ。とは思うのだが――涙がこぼれた! 今、ついにこぼれた! 表情こそ見えないが、カジュの膝の上、握りしめた拳の上に、ふたしずくの涙が落ちて、小さな透明の円を描き出す。ヴィッシュは思わず膝の上の皿をテーブルに戻し、腰を浮かせて立ち上がる。
「おい、何を……」
「ごぇっ……ごめん……そんっ……」
「あのな、泣かれたって……」
「あーあ。泣ーかした」
「うるっせえな!」
ヴィッシュは声を裏返す。
だが大声に反応してカジュの肩が一際大きく震えたのを見て取ると、それどころではないと思い直した。まずはとにかく、このガキを鎮火させるのが第一だ。柄にもなく床に膝を突いて身を屈め、座っているカジュの頭よりさらに下に自分の頭を持ってくる。上から目線じゃダメだ、こんなときは。
「おい、あのな、泣いてたって分からねえよ。言いたいことがあるなら言ってみな。別に怒りゃしねえから」
「……ぅ……ボク……この街で、知ってる人、いなくて……甘えちゃって……ごぇんなひゃい、友達じゃらいのに……!」
「いや、あのな、俺は別に、そういう意味で言ったんじゃないんだ」
「ないのか?」
「うるせえって! ああクソッ、大声出して悪かった。泣くなよ……しょうがねえな……あーわかった、わかったよ。メシくらい食って行きゃいいだろ。その代わり、仕事の時にはお前らにも手伝ってもらうからな!」
「……じゃあ……」
ヴィッシュは溜息を吐いて、そっぽを向いた。多分それは、照れ隠しだったのだが。
「ほら。さっさと取ってこい。そこの鍋にお前らの分もあるからよ」
「わーい♪」
「いっただっきまーす。」
……………。
「……おいチビ」
ヴィッシュが唸るような低い声をあげると、さっそく鍋にたかりにいったカジュが、涙の「な」の字も見えない目で、冷徹にこっちに視線を向けてくる。
「カジュですが何か。」
「『何か。』じゃねーだろ! 嘘泣きか!」
「失敬だね……優れた一時的疑似感情表現と言ってもらいたいよ……。」
「嘘泣きじゃねーか! ……あれ? 俺の分は?」
「いやーウマかったーお腹いっぱい! あたしゃこの時のために生きてるのよー」
と、ぽっこり出っ張ったお腹をさすっている
「やっぱ出てけお前らァ!!」
そういうわけで――
陰気で知られたヴィッシュの家が、最近見違えて賑やかになったと、近所ではもっぱらの評判である。
*
第2ベンズバレンは戦後復興計画の中核として建造された新しい港町だ。莫大な量の輸入品・輸出品を運ぶため、街の中央には背骨のような大通りが真っ直ぐに走っている。石畳に覆われた清潔な道、その幅は馬車十台が一列横並びになって走ってもまだ余裕があるほど。この道が巨大な城門を抜けてそのまま街道になっており、その果ては王都ベンズバレンの大広場にまで繋がっているという。まさに王国の大動脈――これが通称、“無制限街道”である。
数日後には着工10周年の記念パレードがここで開催される。パレードには国王陛下も参列するという。その準備もあってか、大動脈は連日休むことなく脈打ち続けている。
港を目指す人の波は絶えることなく、さながら悠然たる大河のようであった。頭に荷物を載せた女が、どこかの商家の丁稚小僧が、馬が、馬車が、観光客が、玩具を手にしたガキどもが、怪しげなごろつきやヤクザ者までもが、大河に身を浸し、共に流れ、時に支流へ別れ、混ざり合い、ぶつかり合いながら、今日という日を生きている。
「女子供は気楽でいいぜ、まったく」
と、ぼやくヴィッシュもまた、その中の一人。どちらかというと、ゴロツキの一種。いつもの細葉巻を口にくわえ、背中を丸めて、難しい顔して歩いている。
ざわめき蠢く大通りから脇道にそれ、複雑に折れ曲がる通りを進むうち、周囲の街並みはだんだんいかがわしく変化していった。旅人を迎え入れる石造りの大手ホテルは、下級船員御用達の木賃宿に。輸入の絹織物を扱う商店は、商品の出所も怪しい古着屋に。落ち着いた雰囲気の洒落たデュイル料理店は、湯気を立てる油麺が評判のボロ屋台に。お供を引き連れ馬車で行く令嬢は、肌も露わに男の手を引く美しい女達に。
薄汚い裏通りだが、まあ、こっちのほうが落ち着くというのがヴィッシュの正直な感想であった。
ガーラン爺の工房は、ここから更に奥まった、貧民街の一角にある。石畳もなく土剥き出しの小道を行けば、打ち捨てられた廃屋のような建物が目につき始め、徘徊する乞食やいかにもな傭兵くずれが、イヤな目で睨んでくる。
人を見たら盗人と思え、というのはここのことだ。油断なく周囲に気を配りながら、ようやくヴィッシュは工房のある界隈までたどり着いた。浮浪者の姿もないうらぶれた路地の向こうに、目指す工房の姿が見える。
と。
ヴィッシュは足を止め、反射的に物陰に身を潜めた。ガーラン爺の工房から、出てくる男がひとりいたのだ。ボロ布のフードを目深にかぶり、顔を隠した見るからに怪しげな男。一瞬だけ見えた口許に思い当たるものがあって、ヴィッシュは眉をひそめる。
――あの顔、どっかで……
ひとしきり悩むが、僅かな情報におぼろげな記憶ときては、思い出せようはずもない。
そのうちに男はどこかへ姿を消した。
――ま、いいか。必要なことなら、そのうち思い出すだろ。
*
虫食い穴だらけのドアを開けば、そこは鍛冶道具で埋め尽くされたガーラン爺の仕事場だった。金てこ、鎚、
「爺さん、俺だよ。仕上がってるか」
返事はない。ただ、爺さんが白髪の奥の目を、ちらりとこちらに向けただけだ。よく見れば、爺さんが研いでいる剣は、昨日ヴィッシュが刃こぼれ直しを頼んでおいた愛剣であった。なるほど、今、最後の仕上げ中というわけだ。相変わらず愛想のない爺さん。ヴィッシュは思わず笑みをこぼす。
「分かった。しばらく中で待たせてもらうぜ」
返事はない。なら、いいということだ。
待っている間の手持ち無沙汰に、ヴィッシュは工房の中をあれこれ見て回る。ヴィッシュは道具が好きだ。金物屋で主の手に渡るのを待つ新品を見るのも好きだが、使い込まれた骨董品を眺めるのは格別である。何の変哲もない金鎚一つとっても、使い手の好みによって柄の太さ、長さ、形、重み、留め具の形状まで、全てが異なっている。その微妙な変化も、染みついた手垢の色も、爺さんの仕事ぶりを空想するには充分すぎた。
ふと、自分がその鎚を振るっている姿を想像する。ずっしりと手に来る重み。持ちあげ、振り下ろし、飛び散る火花。鉄の硬さが跳ね返ってくるような、鎚越しの手の感触を思い浮かべるだけでワクワクしてくる。つい、鎚を触りたくなってくる。
……という具合に、以前、道具に触れてしまって、めっぽう爺さんに怒られた。今は我慢するようにしている。
ふと、鍛冶道具の中に、場違いな髪飾りがひとつ飾られているのに気付いた。素材は銀か。今は見る影もなくくすんでしまっているが、かつては、貴族の令嬢の黒髪にも、花嫁の白いヴェイルにも、鮮やかに映えたに違いない。
「へえ。爺さん、銀細工もやるのか?」
剣を研ぐ音が止まった。
珍しい反応に、ヴィッシュは驚いて振り返る。爺さんが手を止め、何事かじっと考えるように、刃に映った自分の顔を見つめている。
「売り物じゃねえだや」
「大事なもんか」
「かみさんの」
再び、爺さんの手が動き出した。砥石の上を刃が滑る、鋭い音が聞こえてきた。
「女皇さんにお呼ばれして。もう30年もどらねえ。
みんなみんな、もどらねえ」
ヴィッシュは頭を掻いた。悪いところに突っこんでしまっただろうか。話題を変えようと考えを巡らし、浮かんできたのは、さきほど見かけたうさんくさい男のことだった。
「なあ爺さん、さっき誰か来てただろ。客かい?」
返事はない。
沈黙が工房を支配した。
しばらくして、爺さんはヴィッシュの剣を水で清めると、汚れた布でさっと一拭きし、壁の虫食い穴から差し込む陽光に刃を照らした。芯鉄が生き生きと伸び、刃金が線を引いたような繊細さで澄ましている。ヴィッシュは息を飲んだ。見よ、この迫力を。これだから、他の鍛冶屋に剣を預ける気が起きない。
爺さんは無言で、だが完全な自信を湛えた目で、ヴィッシュに剣を差し出した。ヴィッシュは受け取った刃をじっくりと見つめ、惚れ惚れしながら鞘に収めた。
「お疲れさん。いい仕事してくれるぜ」
と。
そのとき、小さな音がした。初めは、立てかけておいた鞘か工具が、はずみで倒れたのかと思ったのだ。とても小さく軽い音だったから。だからヴィッシュは、何気なく視線を愛剣から持ちあげただけだった。
事態を見て、声を挙げるまでには、思いのほか長い時間を要した。
「……爺さん!」
倒れていたのはガーラン爺だったのだ。
(つづく)
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