勇者の後始末人

外清内ダク

勇者の後始末人

勇者の後始末人



 夜が、怯えている。

 少女ナジアの目に、村の光景はそう映った。あちこちに焚かれた貧弱な篝火。広場に固まってじっと息を潜める住人たち。その周囲を取り囲み、彫像のように動かぬ数百の軍勢。言葉にならぬ緊張の中に、生温い夏の夜風が音もなく吹き付け、不吉な気配ばかりを運んでくる。

 騎士団が手にする槍は鉛のごとく。身体を包む帷子かたびらは氷のごとく。陣を守るはずの木柵さえ、今は牢のごとく思われた。武器も防具も、みな人を縛める鎖に過ぎないのやもしれぬ。なまじ剣など持ったがために、見え透いた死地に向かわねばならぬ。なまじ鎧を頼んだがために、逃げ出す機会を見失う――

「大丈夫だよ、姉ちゃん」

 今年で8つになる弟が、妙に大人びた優しげな手つきでナジアを撫でてくれた。

「怖くなんかない。勇者さまがやっつけるさ」

 ナジアはぷいと顔を背けた。弟の無邪気は幼さゆえか、男児ゆえか。彼より4年分ほど余計に世間を知ってしまったナジアには、弟の根拠なき楽観が耐えがたく不愉快だった。

「勇者さまなんて来やしない」

 小声で、早口に。恋人の不貞を咎めるがごとく、ナジアは呪詛を口にした。

「来てくれるわけがないんだ」



     *



 ヴルムが姿を現したのは、ひと月ほど前のことだった。

 はじめは村から丸一日分も離れた森の中で。熊狩りに出た狩人たちが、見上げるような巨体と遭遇したのだ。幸いその時は満腹であったらしく、狩人たちは生きて戻ることができた――5人のうち2人だけではあったが。

 それで人間の味を覚えたのか、ヴルムはたびたび目撃されるようになった。その都度犠牲者の数は増えていった。そしてその狩場は、日に日に村へと近づいてきたのであった。

 遠からずヴルムは村を直接襲うだろう。そう予見した村長は、街に人を遣り救援を求めた。さる勇猛な騎士団が竜退治に名乗りを上げ、軍勢を引き連れて馳せ参じた。村人たちは勇者を讃え、盛大に出迎えた。これでもう安心だと誰もが口にした――ヒゲの立派な騎士団長も、村の大人たちも、そしてナジアの弟も。

 だが、ナジアの心が安まることはなかった。

 ――勇者など頼りになるものか。

 彼女の中には、冷たい諦観が満ちていたのだ。

 まだ母が生きていた頃、寝しなによく聞かせてくれた。魔王と戦う勇者のことを。

 伝説の魔剣に選ばれし勇者、その冒険の物語。苦難の旅路をともに歩むは、麗しき剣聖と謎めいた魔法使い。魔王軍に支配された街を解放し、並み居る魔物を蹴散らして、ついに宿敵、魔王を討つ――

 当時4歳だったナジアは、まるで見てきたように語る母の言葉に夢中になったものだ。勇者さまは人々の希望の光。苦しくても諦めてはいない。きっと勇者さまが助けに来てくれる。無邪気にそう信じていた。

 だがある日、母は魔獣に食い殺され、後にはナジアと乳飲み子の弟のみが残された。

 勇者は、来てはくれなかった。

 その時、ナジアは一切の希望を捨てたのだ。困った時には心優しい強者が都合よく助けてくれる、なんて、甘っちょろい夢物語だ。彼女は現実の世界を生きねばならなかった。弟も生かさねばならなかった。

 頼れるものはただひとつ。

 自分だけだ。



     *



 夜が深まるにつれ、重苦しい不安もまた膨れ上がっていった。この時にはもうハッキリと知れていた。騎士団も村の大人たちも、心から安堵していたわけではないのだ。大丈夫だと思い込まねばどうかしてしまいそうで、お互いにそう言い聞かせていただけなのだ、と。

 胸の張り裂けそうなほどの緊張に耐えかねて、ついにある兵士が口を開いた。

「一体、その――」

 年かさの農夫がそれに気づき、

「いけません」

 と、押し留める。

 兵が眉をひそめていると、農夫は岩の擦れるような声で続けた。

「山の言葉に言います。

 “獣を喚ぶ。獣は来る”」

 兵は黙った。いかにも迷信じみた言い伝えを信じ込んだものだろうか。あるいは――彼は由緒正しい騎士の家に生まれた血気盛んな若者であったから――泣き言を晒す恥を嫌ったのであろうか。

 ところが、その後の念押しが良くなかった。

「獣を恐れてはなりません」

 それを聞くや、若き兵は力強く地を蹴るさまを見せつけるように立ち上がった。老人の言葉は、若者の誇りに引っかき傷をつけるのに充分な鋭さを持っていた。真実を言い当てていればこそ。

 兵士は老人を睨みつけると、泣き叫ぶようにまくし立てた。

「恐れるものか! 竜など――」

 “獣を喚ぶ。獣は来る”

 喚び声に応え、世界が揺れた。

「来た!」

 ざわめきが拡がる。兵たちが一斉に腰を浮かせ、めいめいの武器を引っ掴む。子供が泣きだす。村人たちは団子に固まる。再び揺れる。揺れる。揺れる。振動は次第に激しさを増し、人々の不安を掻き立てていく。

 誰かの引きつった悲鳴が聞こえた。

 世界の主が、森の奥底から這い出てくる。

 途端、巨体が月も星も遮って、篝火の赤に浮き上がった。目にしただけで押しつぶされそうなほどの体躯。黒々とぬめる鱗。千年の大樹よりも太い両脚。無数に突き出した乱杭歯。瞼が、バチリと音を立てて開き、黄ばんだ瞳が矢のように獲物を射抜く。

 “鱗のヴルム”!

「撃てェッ!」

 騎士団長が恐怖に駆られて怒号を飛ばす。矢が飛ぶ。ヴルムに降り注ぐ。訓練された兵たちが力の限り引き絞って放った矢の雨は、しかし、鋼よりも硬い鱗に弾かれ落ちる。事も無げにヴルムが一歩踏み出す。揺れが恐怖となって下腹を突き上げ、弓兵の手が止まる。次なる命令が走り、槍兵たちが殺到する。

 だが押し寄せる軍勢に、ヴルムは、嬉しそうに目を細めた。

 ――ごはん、いっぱい。

 ヴルムが首を高くもたげた。腹の奥が蠢いて、塊が喉元にこみ上げた。来るぞ! 誰かが叫ぶ。逃げろ! 悲鳴が渦巻く。兵たちは走る。逃げる。誰かが転び、手を貸すものの一人とてなく、絶望の怨嗟が不気味な弦楽のように響き渡り。

 ヴルムの歯が火花を散らす。

 次の瞬間。

 口から噴きでた爆炎が、村の四半を薙ぎ倒した!

 炎の息、などという生易しいものではない。一瞬にして辺りを剥き出しの荒野に変える爆発。避ける術などあろうはずもない。騎士団の半数が息絶え、うち半数は五体ばらばらに千切れ飛び、さらに半数は跡形も無く消滅した。団長の姿ももはやない。残る兵たちは風に吹かれた塵のように四散していく。

 残り火を口元に揺らしながら、ヴルムは制圧した絶望の荒野をのし歩いた。

 目指すは身を寄せ合う村人たちだ。彼らは逃げない。逃げられない。頼みの綱の騎士団を、勇者たちを一蹴され、もはや村人にはすがる先など残っていない。ただ恐怖に駆られ、縮こまることしかできないのだ。

 それが無性に腹立たしい。

 ナジアは突然立ち上がり、雄叫びをあげ、村人の輪から飛び出して、助走をつけた全力投球でヴルムに石を投げ付けた。

 卵ほどの小石がヴルムの鼻先に命中する。その不気味な怒りの眼が、ちっぽけなナジアをビタリと捉えた。

 ああ、怖い。怖くないわけがない。

 それでも。

 ――戦うんだ! 私自身が!

「こっちだ! 来いっ!」

 一声叫び、ナジアは逃げ出した。ヴルムが追って来ることを、心の中で祈りながら。



     *



 なぜあんなことをしてしまったんだろう。

 涙を浮かべ、息を切らせて林の中を駆けながら、ナジアは早速後悔していた。

 後ろを見れば、ヴルムが巨体を左右に揺すり、木々を薙ぎ倒しながら追ってきている。その目には興味とからかいの色が見える。

 本能でナジアは察した。やつは遊んでいるのだ。いきのいい獲物を追い回し、逃げ惑うさまを楽しんでいるのだ。

 どうして自ら飛び込んでしまったのだろう。こんな窮地に。

 楽に死のうと思えば簡単なことだった。あのまま目をつむって、じっと丸まっていればよかった。そのうちに剣のような牙のひと噛みが、彼女を女皇さまの御許あのよに送ってくれたことだろう。わざわざ辛い思いをして走る必要などなかった。ましてや、苦しみ抜いた末に無残な死を迎える必要など。

 それでもナジアは我慢ならなかったのだ。ただ座して、誰かの助けを待ち望んだまま、漫然と死んでいくことが。

 それはささやかな復讐だったのかもしれない。あの日母を助けてくれなかった――そしてこの8年間手を差し伸べてくれなかった――あてにならない“勇者さま”への。

 やがて疲労が脚に絡みつき、ナジアはつまづいて転んだ。真っ暗な夜の林で転んだために、うまく手を付くこともできず、胸を強かに打ち付けてしまった。立ち上がろうとした途端、脚に激痛が走る。捻ったか、あるいは、折れたか。

 ――ああ、ここまでかあ。

 ついに――ナジアの目から、涙が零れた。

 なす術もなくへたり込んだまま、ナジアはヴルムかえりみた。黒い影がゆっくりと迫り、目前に、山のごとくそびえ立つ。

 ナジアの胸には満足感があった。これだけ時間を稼げば、弟も、他の村人たちも逃げることができただろう。ただ死ぬよりはずっと良かった。自分は生きた。そして、戦った。もう充分だ。

 ナジアそっと瞼を閉じた。

 ――ああ、それでも、本当は――

 牙が来る。



 その直後であった。



 絶叫。

 ヴルムの鼻先で光が弾け、闇が引き裂かれ、衝撃と轟音であたりの木々が震撼した。

 驚き、ナジアがまぶたを開く。彼女を噛み砕かんとしていたはずのヴルムが、今や苦悶に身をよじり、仰向けに卒倒している。唸る地響き。巻き起こる砂埃。

 それら全ての脅威からナジアを庇い守るかのように、男が、そこに立っていた。

 身体を包む軽装の鎧。闇色をした分厚い外套。腰には長剣。背中には斧。腿にはナイフ。左手に槍。右手につぶてを弄び、覆面の奥の狩人の目で、一分の隙もなく竜を睨めつける。

 その立ち姿は、さながら――

「勇者さま」

 呆然と呟くナジアに、男はひょいと肩をすくめた。

「違うね」

 肩越しに振り返った彼の目は、声に似合わず優しげだった。

「ただの害獣駆除業者さ」



 うそぶきを残して“勇者”が奔る。ヴルムが怒りに狂って起き上がる。長い首が後ろに引いて(来る!)顎が矢よりも素早く迫るが、“勇者”の回避はそれより早い。ヴルムの牙は外套の裾を浅く切るのみ。

 その隙に“勇者”の槍がヴルムの喉下に突き刺さる。無数の矢さえ弾ききった、鋼の鱗をも貫いて。

 再びヴルムの悲鳴。パニックを起こしたヴルムは、丸太のごとき脚で“勇者”を蹴る。だが事も無げに彼は魔獣の腹の下に転がり込んだ。脚は虚しく中を薙ぐ。

 首を引くのは噛み付きの予備動作。

 喉元は鱗が薄い弱点。

 蹴りは足元に潜れば当たらない。

 “勇者”――否、獲物の全てを知り尽くした“狩人”の、剛猛なる斧が轟と唸った。

 分厚い刃が、ヴルムの膝を、横一文字に叩き割る!

 今度こそ恐怖の声を挙げ、ヴルムが真横に倒れ伏した。生まれて初めて味わう痛み。憐れを誘うわめき声。

 腹の下から飛び退くや、“狩人”は腰の剣を抜いた。が、とどめを刺そうと斬りかかったのもつかの間、横手から竜の尾が襲い掛かった。

 これは“狩人”さえ見たことのない攻撃パターン、全く予想外の一撃だ。避けきれず、恐るべき力で玩具のように弾き飛ばされ、彼は地面に数回跳ねた。

 痛み、と認識すらできない、全身が砕けたかのごとき衝撃。震える腕で身を起こそうとする。胃液が逆流する。血の混じったそれを吐き出す。

 這いずる“狩人”を狙い、苦し紛れにヴルムが噛み付く。ほとんど転ぶようにして後退し、辛うじて避ける……が、剣を杖に立つのがやっとだ。

 “狩人”の苦しみようを目にして、気が奮い立ったのだろうか。ヴルムの瞳が、怒りに燃えた。

 首を高くもたげる。腹の奥から塊が込み上げる。あれは可燃性の液体を体内の燃料袋から吐き出そうとしているのだ。つまり――

 ――爆炎が来る!

 逃げられるか? 否、それよりも。“狩人”は弾かれたように振り返る。脚を負傷し、いまだ立ち上がることもできぬ少女がそこにいる。炎の息を放つのを許せば、彼女は確実に巻き込まれる!

 ――やるしかねえか。

 舌打ちひとつ。“狩人”は腰のナイフを抜いた。

「当たれよっ!」

 高く掲げたヴルムの口めがけて、白銀の刃を投げつける。

 ヴルムの硬質の乱杭歯が、音を立てて噛み合う――その直前、ナイフが歯の隙間に見事突き立ち、火花の散るのを阻害した。

 喉元まで逆流してきた燃料液が、火種を奪われて不発に終わる。こうなれば燃料液は強酸性の薬液でしかない。ヴルムが呻いて、嘔吐する。

 その一瞬の隙を突き。

 “狩人”は疾風のごとく肉迫した!

 狙いは一点。鱗を持たず、一撃で致命傷を与えうる、ヴルムにとって唯一の急所。

 眼球。

 “狩人”の剣が真っ直ぐに走り、ヴルムの瞳を貫いた。それからひととき、静寂があって――

 やがてヴルムは静かに身を横たえた。悲鳴も咆哮も挙げることなく、ゆっくりと眠るように息絶えた。

 それがヴルムの最期であった。



    *



 ナジアは手近なところに木の枝を見つけ、それを杖代わりにしてなんとか立ち上がった。痛む足を引きずりながら、男の方へ近づいていく。

 ひと仕事終えた彼は、ヴルムの死骸のそばにへたり込み、全身虚脱といった面持ちで、ただ大口を開けて喘いでいた。一瞬の攻防ではあった――しかし、命を懸けた戦いは、ひとりの男を芯まで疲弊させるに充分なものであったのだ。

 彼はナジアに気付くと、軽く片手を振り、にやりと笑ってみせた。

「よう。無事か?」

「はい……勇者さま」

 男は気まずそうにそっぽを向く。

「だから違うって言ってんだろ……」

「違わないよ」

 ナジアは、杖を捨てた。

 痛みでふらついてしまったのを幸い、そのまま彼の胸に飛び込んだ。胸に頬を押し付けてみれば、力強く耳心地良い鼓動が伝わってくる。彼が戸惑っているのが分かる。ナジアの背中あたりで、彼の手が行き場なくうろついているのも。

 ばかなひと。抱き締めてくれても良かったのに。

 だから、こちらから行くことにした。ナジアは顔を上げた。そっと吐息を浴びせかけ、彼の鼻先で囁いた。

 そしてもちろん、熱烈なキスを“勇者”に捧げたのであった。



     *



 勇者によって魔王が倒されてから、はや10年。

 世界は平和を取り戻したが、魔王軍残党たる魔族、魔獣、魔妖の類は統制を失って野生化・山賊化し、今なお人々を脅かし続けていた。


 そんな魔王の“遺産”どもを、金づくで始末する者たちがいた。

 かつて勇者にならんとして、果たせず挫折した中年男、ヴィッシュ。

 卓越した剣技を誇るも、生まれてくるのが遅すぎた女剣客、緋女ヒメ

 魔王の邪悪な血より創られし、呪われた天才少女、カジュ。


 歴史に名を刻むでもなく。人々の賞賛を受けるでもなく。煌めく伝説の裏側で戦う名も無き狩人たち。

 ひと呼んで――『勇者の後始末人』。

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