第2話-02 凶敵



 ヴィッシュにできることは限られていた。周辺住人に声をかけ、小遣いをやって医者を呼びに走らせる。その間に爺を工房の奥の、寝室だか居間だか分からないようなボロ部屋に運び込む。楽な姿勢を作って爺を寝かせた後、熱があることに気が付くと、汲んだばかりの冷たい井戸水に布を湿らせ、額を冷やしてやる。

 医学の知識などこれっぽっちもないのが恨めしい。そこから先は、医者をただ待つことしかできない。

 旧知のモンド先生は馬で駆けつけて来てくれた。そんなに呑気でいいのかとやきもきするほど冷静に、だが確実に、モンド先生は処置を施した。脈を取り、呼吸を計り、持参した薬を飲ませ、患者が落ち着いたのを見て取ると、自慢の口ひげを撫でながら、そそくさと出ていった。その間、言葉はたった一言、

「安静にな」

 とだけ。

 ガーラン爺が意識を取り戻したのは、モンド先生が出ていったその直後のことだった。

「わし、どうかや……」

 消え入りそうな声で爺は言う。

「医者、なんだ、つうて……」

 ヴィッシュは可能な限りいつも通りの笑顔を作り、

「俺は何も聞いてねえよ。ま、モンド先生は名医なんだ。言うこと聞いて大人しく寝てな」

 爺は何も言わない。表情からも、何も見えない。

 いたたまれなくなって、ヴィッシュは立ち上がった。

「俺、先生を送ってくるよ」



     *



 モンド先生を乗せた馬の手綱を引き、ヴィッシュは日の暮れ始めた貧民街を、足を引きずるように歩いていた。西に向かえば、沈みゆく夕陽が目に突き刺さる。影が後ろに長く伸び、どこまで続いているかも分からない。

 暗く、暗く、深く、深く、伸びて、広がって――

「どうですかね」

 やっとヴィッシュは一言発した。これだけのことを尋ねるのに、たっぷり30分は躊躇ためらっていたのだ。

「いかんなあ……」

 少し、無言。ややあって、

「いかん……ですか」

「ああ……いかん」

 モンド先生は、鞍の後ろにくくりつけた道具箱からパイプと刻み煙草の袋を取り出し、硫黄燧火マッチで火を付けた。白い煙が、ほとんど見えないほどの細さで空に立ち上り、風に溶けて消えていく。

「血に毒気が回っとるし、内臓もあちこちやられとる。命があるのが不思議なくらいだわ」

「どのくらい保ちます?」

 冷静な自分に腹が立つ。

「そうなあ、まず5日……いや、10日は保たせよう。痛みも薬で散らせるよ」

「……よろしくお願いします、先生」

「そりゃいいが、あの爺さん、金は持っとるのかね? 薬代だけで金貨で6枚にはなるぞ。

 わし、人情でただ働きはせんよ」

 ヴィッシュは懐を探り、財布にしている小さな革袋の口を開くと、中身にちらりと視線を落とした。

 あるのは金貨が3枚きりだ。仕方なく、それを先生の小さな皺だらけの手に握らせた。

「とりあえず5日分。残りは後日」

「まいどあり。確かに10日分」

「え?」

 なっはっは、とモンド先生は軽く笑う。

「お前さんは運がいい。わし、今ちょうど半額セール中なんだわ」

 不器用な老人のウィンクに、ヴィッシュも思わず笑いを零したのだった。



     *



 夜は来る。人が落ち込んでいようが、楽しんでいようが、構うことなしにだ。

 日が沈み、第2ベンズバレンを夜のとばりが包み込み、丸い月が上天にかかってもなお、この街が眠りにつくことはない。昼間港や大通りにあふれていた人波は、日暮れとともに歓楽街へ飲み込まれていく。煌々と灯る色とりどりの光の下で、人々は、灯り油の無駄遣いをしながら夜の営みに勤しむのだ。

 夜通し続くお祭り騒ぎをどこか遠くに聞きながら、やはりヴィッシュも、眠れずにいた。居間に灯りもつけず、寝椅子に仰向けになり、暗い天井をじっと見つめたまま。

 夜は来た。いずれ朝も来る。夜と朝が過ぎ去れば、一日が手の届かぬ場所へ流れていく。簡単なものだ。寝ていても、歩いていても、笑っていても泣いていても、時間は滝のように落ちていく。

 1日。100日。1万日。繰り返し、繰り返し、飽くまで繰り返し、それでも飽くことすらできないその果てに――

「一体何かが残るかや……か」

「びっくりした。そんな暗いとこで何してるの。」

 頭上から、子供っぽいが冷めた声が聞こえてくる。寝椅子に転がったまま首を上に向ければ、そこには逆さまにひっくりかえったカジュの顔がある。珍しいパジャマ姿のカジュだ。こいつめ、知らないうちに2階の部屋で寝ていたらしい。

「いたのかよ。家主に断りもなく泊まり込みか? もう完全に我が物顔だな、おい」

「駄目なら出てくけど。」

 ストレートなやつだ。そう真っ直ぐに言われると、嫌味を言ったこっちが情けなくなってくる。

「いーよ、もう……文無しを路頭に放り出せるか」

 ところがカジュは、その答えに不満そうであった。小さな腕を薄い胸の前に組み、例の蔑んだ目でヴィッシュを見下ろしてくる。

「勘違いしないでよね。別に養ってもらおうってわけじゃないよ。」

「あん?」

「必要な時にはこき使ってくれていいよ。ボクも、緋女ヒメちゃんもね。」

 ドライなヤツ。思わずヴィッシュは笑いを零した。かわいくないガキだが、こういうところは好ましい。

「いいのか? 相棒に内緒でそんなこと決めて」

「ボク、緋女ヒメちゃんのマネージャーなんで。」

「頼もしいこった。幸せ者だぜ、緋女あいつは」

「どうだかね。まあ、今は楽しそうだけど。」

 会話は一度、そこで途切れた。短い沈黙の後で、

「お前は……」

 ヴィッシュは口を開きかけ、やめた。

 何が言いたいんだ、俺は? 頭がぐるぐる回っている。何か聞きたいことがある。それが何なのか分からない。あるいは、とっくに分かっているくせに、口に出すのを躊躇ためらっているのか。

 思考は、言葉は、真っ暗闇の宝石箱だ。中に何が入っているのか自分自身にさえ分からない。望みのものを探り当てるのも一苦労。下手に手を突っ込むと、硬い金具が指に突き立つことだってある。

 突然黙り込んでしまったヴィッシュにやきもきしてか、カジュが先を促してくれた。

「なに。」

 向こうから背中を押されると、話しやすくはある。

「お前は、どうなんだ? 人生楽しいのか? ……不安とか、寂しいこととか、ないのか」

 カジュはしばらく無表情で黙っていた。いや、ただ黙っているのではなく、考えているのだ。やがて答えが返ってきたのは、窓の外を流れていた月が、隣家の影に隠れてしまった後のことだった。

「ボク、前は企業コープスにいたんだよね。」

 ほう、とヴィッシュは声を上げた。

 企業コープスは、内海地方全域に隠然たる影響力を持つ巨大商業組織である。いわば貿易商のオバケのようなものだ。最先端の魔法技術を商売の種にすることで知られている一方、色々と良からぬ噂も絶えない。

 カジュがそこに所属していたとは初耳だった。彼女の実戦的な魔術は企業コープス仕込みというわけだ。

「あそこだと、生活って保障されてるから……。」

「不安なし、か」

「逆だね。何のために生きてるんだろう、ってずっと思ってた。」

 言いながら、カジュは奥のキッチンに引っ込んだ。木のカップに水を汲み、両手で後生大事に抱えて戻ってくる。ヴィッシュの向かい側の寝椅子に、ちょこん、と腰を下ろして水を一口。

緋女ヒメちゃんと出会って、企業を飛び出して。保障が全部なくなって……。

 それからかな。楽しくなったの。」

「忙しけりゃ、暗いことを考えてる暇もねえ。ただがむしゃらに生きていられる」

「うん。毎日バタバタ。楽しいね。」

 思わずヴィッシュは目を奪われた。普段無表情なカジュが、珍しく微笑んでいる。不意に気恥ずかしくなり、さり気なく視線を逸らしはしたが、彼女の笑顔は目に焼き付いて、天井の闇にさえ浮かび上がるようだった。

「だがそれだけじゃないだろ。不意に立ち止まっちまう時もあるだろ」

「そのときは緋女ヒメちゃんと一緒に寝る。」

 ヴィッシュは笑い出した。おかげでカジュは元の無表情に戻ってしまった。カップをテーブルに叩きつける音が、不機嫌に響く。

「真面目に言ってるんだけど。」

「いや、悪い。ずいぶん子供っぽいことを言うからさ」

「子供なんだけど。」

「全然そんな気がせん」

 カジュは目を閉じ、肩をすくめる。

「不思議な人だね。ボクを子供扱いしないの、緋女ヒメちゃんの他にはキミだけだよ。」

「大人も子供もあるかよ。言葉が喋れりゃ、誰にだって考えはあるんだ」

 ふと、頭の中に浮かんだのは、ガーラン爺の物静かな横顔。

「いや。言葉にならなくたってな……」

 またしても沈黙。待ちくたびれたカジュが呆れ気味に言う。

「で、キミは。」

「ん?」

「ボクにだけ喋らせといて、自分は腹の内を見せないつもり。」

「俺か……」

 結局問題は、最初の疑問に立ち返ってくるのだ。

「なあ……俺は一体、何にこんなに打ちのめされてるんだ?」



     *



 言葉にならない。

 ヴィッシュは居ても立ってもいられず、その夜のうちに再びガーラン爺の工房へ向かった。看病には近所の女が交代でついているはずだ。そのために幾ばくかの銀貨を掴ませもした。しかしどうにも不安が消えなかった。胸の中に、灰色の何かがモヤモヤとわだかまっていた。

 なのにそれが、言葉にならない。

 こういうときは、動くにくはなし。

 考えていても駄目なことが、歩き回っていて答えが見えることもある。伊達に30年も生きてない。対処法の心当たりは、色々あるのだ。

 夜道を足早に進み、ガーラン爺の工房にたどり着いた。ひっそりと静まりかえった、冷たい貧民街の夜。穴だらけのドアをノックしかけ、ヴィッシュはそこで異変に気づいた。

 静かだ。

 静かすぎる。

 人の気配が全くない。

 ノックもなしにドアを開け、奥の寝室に上がり込む。相変わらずの散らかった部屋。木と藁で作られた粗末なベッドは空だった。背筋を冷たいものが駆け上がっていく。ベッドのそばには、看病を頼んだ近所の女が一人、倒れ伏して寝息を立てている。

「おい!」

 抱き起こし、肩を揺すり、耳元で声を張り上げても、女が起きる気配はない。

「……魔法か!」

 歯噛みしてヴィッシュは耳を澄ました。聞こえてくる音。数人の気配。車輪が回り、車軸が挙げる軋み声。遠くない。まだ追いつける。

 思うが早いか、ヴィッシュは工房を飛び出していた。



     *



 貧民街の一角、影が色濃く淀むかのような狭い通りに、その一団はいた。

 黒いボロ布で鎧を隠した、見るからに盗賊然とした男達だった。中には荷車が一台。その上には、剣やら槍やら鎧やら、武具の類が山と積まれ、荒縄でしっかりと固定されている。

 そして荷車の横には――足を引きずり歩く、ガーラン爺の姿。

「待ちな!」

 追いついたヴィッシュが低く声を張り上げると、一団はざわめきながら足を止めた。

「その爺さんは、医者から安静を言い渡されてるんだ。連れ出してもらっちゃ困るんだがな」

「連れ出したのではない」

 応えたのは、致命の毒液を思わせる不気味な声。その声の主が歩み出るにしたがって、盗賊らしき者どもが左右に割れた。その光景は教導院の古い伝承を思わせる。海を割り、乾いた水底を悠然と歩む偽りの聖者――すなわち、天恵の者カリスマ

 天恵の者カリスマは、全身をフード付きの黒い外套に覆い隠した、細身の男であった。時折外套の下に見え隠れするのは腰に提げた長剣か。全身黒ずくめの姿が奇妙なほどしっくりと闇の中に溶け込んでいる。一見して、特徴らしい特徴もない。

 だがなぜか、ヴィッシュには確信できた。

 ――あの男だ。

 昼間、ガーラン爺を訪れたとき、工房前で見かけた男だ。

 あの時は遠目で分からなかった。だが、今こうして近くで目の当たりにすると……この身のこなし。かなり、

 天恵の者カリスマが感情の籠らぬ冷たい声色で言う。

「こいつは自らついてきたのだ」

「なに……」

 天恵の者カリスマが進み出た。ヴィッシュも僅かに間合いを詰める。距離は4歩あまり。ふたりはそこで対峙すると、申し合わせたかのように足を止めた。ここが互いに臨界点。突然仕掛けられても対応できるギリギリの間合いだ。

「どういうことだ。おい、爺さん!」

 ガーラン爺は何も言わない。

 だが、滅多に表情を変えぬガーラン爺が、心なしか躊躇ためらいを顔に浮かべたように見えた。夜の闇の中でのこと、気のせいであったかもしれないが。

「運の悪い男だ」

 天恵の者カリスマが、言う。

「余計なことに首を突っ込まねば、安穏と生き延びられたものを」

 その手が、剣の柄に触れ――

 瞬間。

 閃光!

 刃交わり、光が散った。

 一瞬の煌めき、狩人の本能、それがヴィッシュを突き動かした。目ではない。頭でもない。ただ嗅覚と反射のみがそれを捉えた。天恵の者カリスマが放った抜刀からの一撃。4歩以上もあった間合いを瞬時に詰めての抜き打ちだ。すんでの所でそれを受け止めたヴィッシュの愛剣は、まだ鞘から半分も抜かれていない。――

 ――こいつっ……

 悪寒が走る。恐怖が膨れあがる。

 ――強い!!

 思うが早いかヴィッシュは動く。男の腹を蹴りつけながら、その反動で飛び退る。流れる動きで剣を抜き、防御重視の中段構えで鋭い切っ先を真っ直ぐに向ける。男は早くも蹴られた蹌踉めきから立ち直り……いや、違う。蹴られる直前に自ら飛び退き、蹴りの威力を殺したのだ。

 対峙する。青く輝く満月の下。吹きすさぶ砂塵の中。

 やがて風は収まり、砂埃がそっと舞い降り――

 男がはしる。肉薄まで一息。地を舐めるかのような下段からのすくい上げがヴィッシュを襲う。それを叩き落としたのもつかの間、返す刀が横から、上から、無尽に迫る。ヴィッシュの捌きは几帳面で精密、だが受ける以上の余力などありはしない。

 舌を巻くような達人だ。息も吐かせず相手を追い込む強烈な攻めの剣術だ。ともすれば見落としそうになる斬撃を辛うじて受け、流し、あるいは避けつつ、ヴィッシュは必死に勝機を探る。いかに強くとも、攻撃一辺倒のスタイルならば必ずどこかに隙が――

 ――見えた!

 男が喉狙いの突きを繰り出した瞬間、その足捌きが微かに乱れる。猛攻が生んだ隙。それを見逃すヴィッシュではない。

 身を捻り、突きを受け流し、体勢を崩した男の肩に必殺の一撃を振り下ろす!

 が。

 次の瞬間、流されたはずの男の剣が、横手からヴィッシュの腕を狙った。

「なっ……!?」

 ――返し技だと!?

 驚き一色に意識が埋まり、それでもヴィッシュの脳はめまぐるしく動く。捌く? 無理! 後退? 間に合わない! いっそ前進? 思う壺だ!

 ――ならばこれしか!

 咄嗟とっさにヴィッシュは自ら地面に倒れ込んだ。敵の剣は狙いを逸らされ、ヴィッシュの腕を軽く薙ぐ。そのまま転がり、片膝突いて身を起こす。

 予想外の対応に驚いたか、天恵の者カリスマの動きが一瞬止まる。またしても隙だ。すかさずヴィッシュは打ち込みをかけ――

 半ば本能的に刃を引いた。

 代わりに地面を蹴って間合いを広げ、荒い息を整えながら仕切り直す。

 駄目だ。打ち込めない。こいつの隙は罠だ。抜刀術に始まる攻め一辺倒、隙の多い剣術と見せかけて、その実、わざと見せた隙からカウンターで討ち取る。

 この返し技への対策がない限り、隙への打ち込みはむしろ自殺行為。

 ――どうする? 考えろヴィッシュ!

 だが――

 男の猛攻がその暇を与えない。

 刃が迫る。



(つづく)

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