第15話

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 ――三年前。

 張真組の構成員が事件を起こした。キャバクラでの支払いを巡って店員と口論になった客に、用心棒として入っていた構成員が暴力をふるい怪我を負わせた。

キャバクラは張真組が経営しており、これをきっかけに警察はガサ入れに踏み切った。

 できれば張真組内部まで捜査の手を伸ばし、新しく組長に襲名した多門一樹のもと、徐々に勢力を盛り返しつつある張真組への牽制としたいというのが警察の目論見だった。

 事件の連絡を受けた香取はすぐに手を打った。キャバクラの店長に連絡を入れ捜査に協力を惜しむなと伝え、暴力沙汰を犯した若衆にもそのことを重々諭すように指示した。

 警察のガサ入れには香取自らが立ち会った。もともと何ら不正行為を働いていない店だったから、大した隠蔽工作も必要なかった。傷害の罪で起訴された構成員もおとなしく警察に従い、付け入る隙を与えなかった。

 しかしガサ入れは執拗だった。狭い店内に十数人の捜査員が溢れ、皆が一様に渋い顔と白い手袋をして売上伝票から、キャバクラ嬢の個人ロッカーの中まで調べた。

 香取新平は行き過ぎた捜査にクレームを言おうと、店に踏み込む時に、捜査令状を読み上げていた捜査員を探した。細身で長身。黒にピンストライプの入った背広を着た男だった。

 その男は店内の片隅に立ち捜査員が立ち働く姿を見ていた。香取新平は背広姿の男でごった返す店内を進み男に近付き、はっと息をのんだ。

 不用意に近づいたことを後悔し、どうにかこのまま気づかれずに店の奥に引っ込むことができないかと思案した。

 男に背を向け、捜査員の指示に不快そうに答える舎弟の肩を叩き事務室に戻ろうと歩いていると、後ろから肩を掴まれた。

 振り返るとピンストライプの背広を着た男が、口元に笑みを張り付けて立っていた。

「珍しいところで会うな」

 香取はさっと周囲に視線を送り、誰も見ていないのを確認すると目線で店の裏を示し、男を従えて先に歩いた。

 男と二人して、既に捜査員によって引っかき回されたロッカールームに入った。

「お前、警官になっていたのか」

 香取はピンストライプの男を上から下へと眺めた。

「君は」ピンストライプはよく通るテノールで言った。声変りはしても、声質は中学の時から変わっていない。「この店で働いているのか?」

 その言葉に、捜査を行う側と行われる側の間にあるはずの緊張感はみじんもなかった。

 宇宙人と呼ばれていた彼の気質は、なんら変わっていないようだった。

「違うな」と言って川上秀和は自分の推測を否定した。「従業員がそんな恰好をしているわけない」

 香取はアルマーニのチャコールグレーのスーツに身を包んでいた。上下で数十万する代物だ。

「張真組の総務部長をやってる」

 正直に答えた。隠してもすぐにばれる。

「張真組のナンバー2の名前は香取新平のはずだが……」

 川上は少し首をかしげた。

「どうして偽名を語っているのかな。内藤新平」

「その名前をここで口にするな。それとも警察は偽名を使うだけで逮捕するのか」

「偽名を使って罪を犯せば、それは立派な詐欺だ」

「何もしちゃいない」

「ふむ」

「お前はいつ大阪に帰ってきたんだ」

 川上秀和は中学でも有名な天才だった。授業中はひとり勝手に読書をしているか、窓の外を眺めているような男だったが、テストの成績はいつもトップだった。

 学校の先生も川上が静かにしている以上、授業中に何をしようと注意しなかった。

 普段、小走りさえしなさそうに見えるが、体育の授業では、スポーツ万能だった香取と肩を並べる存在だった。

 休み時間は誘えば校庭で野球でもサッカーでも何でもやったが、誘わない限りはずっと一人で教室にいた。

 ライプニッツの『モナドロジー』や、ニーチェの『ツラウツウストラかく語りき』など哲学書を読んでいることもあれば、誰かが持ってきた漫画や雑誌を読んでいることもあった。

 あきらかに変人だったが、気取ったところもなく、その容姿も手伝ってか、同級生から人気があった。

 高校を卒業したあと、東大に進学したと聞いていた。おそらくゆくゆくは実業家か、エリート官僚になるだろう。そう思っていた。その男が、今こうして暴力団が経営するキャバクラのガサ入れを指揮している。

「両親が事故で死んでね。大学を中退してこっちに戻ってきたんだ。毎日ぶらぶらするのもなんだから警察の試験を受けた。そして今に至る」

「それはご愁傷様だったな」と応えながら、香取は舌を巻いた。

 地方公務員として警官になった以上、学歴を問わずノンキャリアとして巡査からのスタートとなる。大きな事件ではないにせよ、これだけの捜査員のトップとして乗り込んでくる以上、既に警部くらいには昇進しているはずだ。ノンキャリアならば異例の早さで出世したことになる。さすがだなと思う。

「で、内藤新平は……あぁ、ごめん。香取新平はどうして張真組の盃を受けているのかな。私の記憶では、君も出身地の福岡で警察官になっていたはずだが」

「その通りだ。いろいろあってね。警察はやめた。ぶらぶらしていて大阪に戻ってきた。それでここの前組長に見染められてね」

「前組長。なるほど張真大吉か」

「そうだ」

「ふーん。警官が暴力団員に転身ね……。偽名を使っているということは、張真組に君の前歴は隠しているというわけだ」

「警官だったと言えば警戒されるから隠しているだけだ。それにヤクザも警察も同じようなものだ。と言えば、君は不愉快に感じるかい」

「いや、その点は同感だよ」

 川上はロッカールームの真ん中に据えられたテーブルに腰を預けた。長い脚を投げ出すように組む。

「この捜査で何か出てくると思っているのか」

 香取は本題を切り出した。

「いや。何も出てこないだろうな。君たちも馬鹿じゃない。事件を起こした構成員も、なかなかよく教育されていてぼろをださないしね。君の躾かい」

「出そうにもボロが出るようなことはしていない。それだけだ。うちは今、きれいなものだよ。警察の御厄介になるようなことは何もない」

「以前とは違うというわけか」

「そうだ」

 川上は、まぁそうだろうなと素っ気なく応えた。

「これだけガサ入れしたんだ。土産がないと警察の面子が潰れるんじゃないのか」

「まぁ、上は怒るだろうな。でも心配するな。出てこないものは仕方ない。変な裏工作をするつもりもないしな」

 香取は苦笑した。川上らしい発言だ。

「そうだ。さっきお悔やみの言葉をもらったことで思い出した。君の弟さんも亡くなったんだったね。東京に出ていたから後で知ったんだ。何もできなくて悪かった」

 感情を抑え込んで川上の表情を探る。言葉以外に何か含みがあるのかどうか判断できなかった。

「もうずいぶん昔の話だ」

「十二年前だ。確か十二年前の三月二十三日だったな」

「よく、覚えているな」

「ご愁傷様」

 香取は頷き、しばらく二人で無言のまま対峙した。口を先に開いたのは川上だった。

「内藤新平」と本名を呼ぶ。「近いうちに二人で飯を食べよう」

「どうして?」

「どうして? 旧知の間柄で、久しぶりに再会したんだ。誘う理由にはなるだろう」

「俺はヤクザで、あんたは刑事だ。お互い困ることもあるだろう」

「ないよ。私にもヤクザの知り合いの一人や二人はいるしね。君もヤクザとして生きるなら、警察に知り合いがいたほうがいい。箔もつく」と、しれっと言いきった。

 二人で、小奇麗な日本料理屋の個室で酒を酌み交わしたのは、それから一週間後のことだった。張真組への警察の捜査も、結局は空振りに終わっていた。

 川上が飲みに誘ってきたことは、久しぶりの再会だけが理由ではないことに気が付いていた。聡い川上が、偽名を使ってまで張真組に潜入していることに何の疑問も抱かないわけがない。全て悟っているのかもしれない。香取は覚悟を決め二人での宴席に臨んだ。気付かれた以上、川上の腹を探る必要がある。誘いを断る選択肢はなかった。

 酒を酌み交わし、上品な料理をつつき、しばらくは昔話に興じた。

 中学時代は友達と呼べるほどの間柄ではなかったが、思いのほか会話は弾んだ。おそらく互いに興味を持ちながら近づくことのできない存在だったからだろう。少なくとも、香取は川上のことがずっと気になっていた。不思議な魅力を備えた男だった。

 飲み食いを初めて、一時間と少しが過ぎたとき、そろそろ本題に入ろうと川上が言った。

「本題って。なんのことだ」

 香取はとぼけて見せた。

「君が張真組の構成員になっている理由だよ」

「昔っからのお前の欠点だ。クールに見えて人の人生に首を突っ込みたがる」

「どうでもいい人間には関知しない」

「ありがたいね。俺は関知するに足る人間だってことか」

「そうだ。それに理由によっては、私の仕事にも関わりが出てくる」

 やはり。と思った。川上は気付いている。

 美味い料理に、酒がかなり進んでいた。顔や手足が熱い。しかし体の芯は、内側から絶え間なく溢れる冷気に冷やされ凍てつく柱となっていた。

「理由はこの前話したとおりだ。警察組織が嫌になって退職したあと、ぶらぶらとしていたんだ。それで大阪に流れ着いた。そのとき、前の組長に見染められたんだ」

「めんどくさいなぁ」

 と川上が言い、

「なんだと」

「面倒だから、私の推論を述べるよ。間違っていたら訂正してくれればいい」

 香取は何も答えず徳利から猪口に酒を注いだ。

「君は弟の仇をとるつもりなんだろう。張真大吉に。いや、あの事件の首謀者にと言ったほうがいいだろう」

「訂正はその度にすればいいのかな」

「まとめてしてくれればいい。その方が合理的だと思うよ」

 川上の推論はほぼ的確に事実を言い当てていた。

 十二年前の三月二十三日。香取の弟、内藤健はアパートの一室で自殺した。遺体からは覚せい剤が検出され、自室からも末端価格数百万円の物が見つかった。

 内藤健は張真組の準構成員だった。張真組も傘下に従える広域指定暴力団組織である八祖会が、麻薬密売の容疑で全国的に警察の捜査対象となっている時期だった。内藤健の死は、張真組に対する大々的な捜査を実行するためのいい口実になった。

 警察の動きは迅速で、内藤健が死んだ翌日には、張真組の事務所、組長宅、主だった幹部や愛人宅にまで捜査員が詰めかけ、麻薬売買の証拠をつかもうと躍起になった。

 しかし張真組が麻薬の売買に関与していた証拠は挙がらなかった。

 代わりに拳銃一丁と日本刀数振りが押収され、張真組の準幹部級二人が検挙されるにとどまった。

 結局、内藤健は独自のルートで麻薬を入手し、売りさばいていた。そして、自らも麻薬に手を付け、麻薬の売買が張真組に露見しそうになったことを恐れての自殺として処理された。

 川上は事件の概要をよどみなく話した。香取は手酌で熱燗を口に運んでいた。脳みそがじんじんとした痺れを訴えていた。頭の奥にずっと仕舞い込んでいる怒りと悲しさが、酒の力を借りて溢れだしそうに騒いでいた。

「詳しいな」

「当時の調書を一通り読んできたんだ。この事件はおかしなとこだらけだな」

 香取は手元に視線を落とした。無表情を保つのが難しくなっていた。

「張真組が麻薬の売買に携わっていることは間違いなかった。しかし警察は途中で張真組追及の手を緩めた」

 酒を喉に流し込んだ。川上が手を伸ばし、徳利から猪口に酒を注いだ。

「その理由は、何だと思う」

 香取から川上に質問した。この男なら、思う通りの事を応えるだろう。そう思った。

「警察と張真組の間で、何らかの取引があったんだろうな」

 香取の頭の中をずっと支配してきた暗い疑念――既に確信に至っていたが――を、川上はあっけらかんと口にした。

「君の弟の事件がなくても、警察は近いうちに張真組には手を入れるつもりだった。ところが先に張真組準構成員の拳銃自殺という事件が起こった。しかもその準構成員は麻薬のバイヤーとしてマークされていた。警察は嬉々として捜査に乗り出した。勢いに乗って張真組一斉検挙に乗り出すつもりだったのだろう。しかし物証はなかなか上がらなかった」

 川上も手酌で熱燗を飲む。頬が赤くなっていた。

「準構成員の死は、張真組が仕掛けたものだった」川上が続ける。「警察のガサ入れが近々行われることを張真組も嗅ぎつけていたんだろう。麻薬をどこかに隠し、警察のガサ入れを待つという手段もあった。しかしその場合、警察は証拠が出てくるまで絶対に手を引くことはない。麻薬密売の容疑で捜査に踏み切れば、たとえ組長宅の庭の芝生を剥がしてでも面子にかけて麻薬を見つけ出そうとするだろう。しかし捜査に踏み切ったきっかけが別のものだと話は違う。既に内藤健の死と合わせて大量の麻薬が押収されているし、立ち上げた捜査本部も表立っての対象は内藤健の自殺に絡む麻薬密売捜査だ。張真組の一斉検挙ではない」

 川上が徳利を突き出した。香取は猪口で受ける。微かに手が震えた。

「捜査を長引かせても証拠は出てきそうにない。そこで、警察と張真組の間で取引が行われ、適当なところで手打ちとなった」

 川上はパシリと机の上で箸を叩いた。

「内藤健の血液からは麻薬が検出された。しかし検察医は常習性を否定している。つまり君の弟は、自殺に見せかけ張真組に殺された可能性がある。君はそれを疑っている。だから福岡県警を退職し、偽名を使って張真組に潜入した。目的は弟の仇をとるためだ」

 川上は静かに持論を述べ終えると、断定で締めくくった。

 香取は二人で会うことを承諾した時点で、ある程度覚悟をきめていた。

香取の目論見は既に看過されている。そして川上は暴対班の刑事だ。彼の真意はどこにあるのだろうか。過去の事件をほじくり返し、張真組を追い込むことか。それとも友人を諭し、思い留まらせようと考えているだけなのか。

 どこまで話すべきか。興奮と酒で正常な判断ができていないと自覚しながら、香取は感情の波にのまれていた。

「ご明察だ。弟は濡れ衣を着せられ、そのうえ、やつらの手で殺された」

 息を吐く。酒の匂いが広がった。

「あの日の前日、弟から電話がかかってきた。一年ぶりの電話だった」

《兄さん……助けてくれ。俺、やばいことになったんだ》

 健の声は、まるで井戸の底で囁いているように弱く陰鬱だった。弟はそれだけ言うと、電話の向こうでむせび泣いた。

 ――今から行ってやる。待っていろ。

 香取は健の居場所を聞いた。しかし健はしばらくの間声を殺して泣き、泣き終わると、ありがとうを繰り返し、最後にごめんな兄貴。俺、もうだめだと言って電話を切った。

 健とは仲が良かった。健が中学を卒業するまで大阪に住んでいたが、父親の仕事の関係で福岡県に転居した。健は福岡でできた友人とバンド活動を始めた。その後、高校を中退。バンド仲間とメジャーデビューを夢見て一度は東京に転居した。しかしなかなか結果がでず、バンド仲間ともたもとを分けた。

 健は福岡には戻らなかった。中学まで暮らした大阪にとどまり、アルバイトをしながら生活をしていた。そしていつしか暴力団の準構成員となり、日々の糧を得るようになった。

 香取は既に福岡県警で働いていた。日々の忙しさに忙殺され、弟の面倒を見る余裕はなかった。

「電話してきた弟は正気だった。薬なんてやってなかった。あの電話のあと、薬を打たれ、自殺に見せかけて殺されたんだ」

「電話のあと、自殺するつもりで薬を使ったのかもしれない」

「お前も自殺ではないと言ったではないか」

「あくまでも推論だ。殺された可能性が高い。そう言ったんだ」

「弟は、殺された。間違いない」

 川上が徳利を傾け、香取が猪口を差し出した。無言で酒を注ぎ、無言で酒を受けた。

「それで、君はこれからどうするつもりなんだ」

 川上の投げかけに、香取は自分が喋りすぎたことに気付いた。

最初は復讐のつもりで張真組に潜入したが、住めば都。今はそれなりの地位に納まり、この仕事が気に入っている。復讐などとっくに忘れた。そう言って取り繕ったところで既に遅い。

 二十年ぶりに再会した同級生に心を許した。いや、今まで心の奥底にぐっと溜め込んでいた暗澹たる思いは、僅かでも気を許すことのできる同級生に出会えたことで、岩の間から染み出る湧水のように、少しずつ、しかし抗いがたい力を持って漏れてしまったのだ。そして川上は一滴の水から、地下水脈の位置まで見通すだけの力を持っている。

 全てこの男にぶちまけてみよう。香取は覚悟を決めた。

「弟を死に追いやった張本人の当たりはついている。今は物証を探しているところだ。それが見つかれば証拠を突きつけて吐かせる」

「当時見つからなかった麻薬をどこかに隠しているということか」

「そうだ」

「物証が出てきて、それでその張本人が弟を殺したことを認めれば、君はどうする」

 香取は盃を煽った。無言が川上の質問への答えだった。

「……なるほど」

 川上は香取の答えを受け止めたようだった。しばらく押し黙り、そして口を開いた。

「それで物証の在りかは検討がついているのか」

「いや」

 張真組の事務所をがさ入れした時、警察は屋根裏はもちろんのことトイレの排水口や、道路へと繋がる汚水や雨水管の第一会所まで、薬剤を使って麻薬の反応がないかチェックした。警察の捜査は執拗だったが、結果として何も出てこなかった。

 時価数億円を超えると思われる覚せい剤が忽然と消え、警察は焦った。既に処分された可能性がでてきた。そうなればいくら探しても出てこない。

 警察は結実しそうにない捜査が長引くのを嫌った。そして張真組と手を打った。

 内藤健は独自のルートで麻薬を仕入れ売買をしていたが、そのしのぎを張真組に嗅ぎつけられ命の危険を感じ、自暴自棄になって自殺したと結論付けた。

 お笑い草だった。警察は張真組が用意した土産に妥協して食いつき、面目を保った上手打ちを決め込んだのだ。

 しかし麻薬は必ずどこかに隠蔽されていると香取は信じていた。生前、宴席で張真大吉が漏らした言葉が心に焼き付いている。

 弟の事件で八祖会の中枢から追い出されていた張真大吉が、数年ぶりに役員として復帰した祝賀会の席だった。兄弟分からの祝福を受け、したたかに酔った張真は、お気入りの香取を呼び寄せ、こう言った。

「パンドラの箱を埋めている」

「なんのことです」

 と問うた香取に、酩酊した瞳を向けた。そしてしゃべったことを後悔したように腕を振った。

「忘れたよ。完全に密封して過去に葬り去った話だ」

 二度と扱わないと公言した麻薬のことだと直感した。張真大吉は処分せずにどこかに隠蔽したのだ。

「いまの世の中、仇討は認められていない」

 川上の固い声に、香取は物思いから抜け出した。川上の顔を見た。アルコールで火照った顔の奥は、無表情だった。急におかしくなって、香取はふっと笑った。

「つまらないことを言う男になったものだ。おまえはもう少しおもしろい人間だった。仕事は人間の本質まで変えるのか」

「本質は変わらない。昔から私は私のままだ。つまり以前から私はおもしろくない人間だったというわけだ」

「俺が仇討をあきらめないと言えば、お前は俺を逮捕するのか」

 香取の口から再度笑いが漏れる。今度は自分に向けた苦笑だった。弟の仇を取るつもりで警察を辞職し、苦労して張真組に潜入した。

 張真大吉に気に入られ、盃を交わしてからすでに十年が経過している。それなのに、物証の糸口さえつかめていない。自分が口にした仇討という言葉の響きが、ことさら空虚なものに感じた。

「私は警察官として事実を言っただけだ。やめろとはいってない」

「止めないのか?」

「やり方によっては止めない」

「なんだそれ」

「仇を討てば君も傷つく。そうすれば弟さんも悲しむ」

「だからなんだ」

「物証がつかめたら、私のところに電話してくれないか。悪いようにはしない。それで弟さんも浮かばれる」

「弟を殺した犯人を警察に突き出せば死刑にでもしてくれるのか。自殺として処理された過去の事件だ。弟が自殺ではなく他殺だったとなれば、警察の捜査ミスってことになる。警察がそんなことを認めるわけがない」

「過去の事件に関係なく、張真組が隠した麻薬が出てくれば、警察も黙認できない。うまくやれば張真組に壊滅的な打撃を与えられるかもしれない」

「それで満足しろと言うのか」

「君は満足しないだろうな。しかし少なくとも弟さんは満足するはずだ。いや、既に満足しているだろう。君が彼を信じて危険を冒してまで張真組に潜入したことでね」

「わかったようなことを」

 吐き捨てる。川上は涼しい目で香取の怒りを受け止めた。目の奥には真摯な光があった。冷静な目に見つめられ、香取は目を逸らしていた。

「内藤新平。物証が出たら必ず私に連絡してくれ」

 弟の顔が脳裏をよぎった。まだ中学生のころの弟の顔だ。一緒にキャッチボールをした。近所の悪ガキと二人して喧嘩もした。風呂の湯船にふざけて頭を沈めた。シャワーで水を掛け合った。弟は笑っていた。笑っている弟は浅黒く日焼けした小学生の顔をしていた。最後に聞いた健の声。希望を失い、絶望に縁取られたごめんと言う謝罪の言葉。

 香取は唇を固く引き結んだ。そして「考えとくよ」と言葉をひり出した。

 警察の手に委ねることが、正解かもしれない。そんなことは何度も考え、考えた上での決心だった。決心が揺らいだわけではなかった。ただ、真摯な眼で香取をみつめる川上を前に、そう答えるしかないように思えた。


          ※


「見逃してくれ」

 香取は銃口を川上に向けたまま、頼みごとを口にした。

「そんなものを見せられたら、逮捕しなければならなくなる」

「見逃せと頼んでいる」

「それが人にものを頼む態度か」

 川上は両手を頭の横に挙げた状態で不平を言った。

「カプセルを、こっちに渡すんだ」

「中には麻薬が入っているのか」

「お前には関係ない」

「ある。証拠がつかめたら、私に連絡する約束だったろう」

「約束した覚えはない」

「どうするつもりなんだ」

「渡さないのか」

 香取は拳銃の撃鉄を起こした。

「渡さない」

 川上が一歩踏み出した。

 銃声が響きわたった。

 川上の足元を銃弾がえぐる。反響を残して静寂が戻る。遠くで犬がけたたましく吠えた。夜中に轟き渡る銃声に、目を覚ました住民も少なくないだろう。

「当たったらどうする気だ」

「どうだっていいんだ!」

 香取は叫んでいた。激情が口からあふれ出た。

「俺が自分の手で方を付ける。邪魔をするな」

「内藤新平。私に任せろ」

 今まさに弾丸を打ち出したばかりの銃口を向けられていても川上はいつもの川上だった。静かに泰然と構えている。

「たとえカプセルの中身が、健が所持していた麻薬と同一のものだとわかっても、もう十二年前の話だ。張真組との関連を立証できる見込みは薄い」拳銃を両手で支え、銃口を川上に向けたまま、香取は言った。「それでは健の仇をとれない」

「友人として君の気持はわかる。しかし、刑事として人殺しをしに行く人間を見逃すわけにはいかない」

 香取は拳銃を握りなおした。唇を舐める。のどが渇いていた。

「私は今、本部の捜査第四課に所属している。捜査に対する権限もそれなりにある。私に任せろ」

「ヤクザから盗みを働いて、改造車で逃げ回る刑事の組織内での力を信用しろというのか」

「課長からも放任されていてね。自由にやらせてもらっている」

「相変わらずだな。だがお前には何もできやしない。所詮、組織に属しているただの部品だ」

「最善を尽くす」

「歯切れが悪いな」

「俺にも妹がいる。かけがえのない兄妹だ。君の気持は理解できる。しかし健君に罪を押し付けた相手を殺して何の意味がある。兄が犯罪者になれば、弟さんも悲しむんじゃないのかな」

「俺は」香取は嘆息した。「自分を納得させたいだけだ。俺の大事な弟に罪を着せ、命まで奪った。そんな男を、俺自身が許せないだけだ。だから危険を冒して張真組に潜入し、ひとりで内偵を続けてきた。犯人は特定できている。ここであきらめることなど、考えることもできない」

 川上がゆっくりと両手を下げる。銃口が揺れる。

「俺の十二年間はこの日のためにあった。それが間違っていようがあっていようが、俺は止まらない」

 理解してくれ!

 川上に訴えかけていた。彼が了承しなければ引き金を引くつもりだった。

 健の仇を討つためなら、何だってする。躊躇いはなかった。この決意は十二年の間に凝固し、無為な生活に崩れることを繰り返してきた。

 そして今、鋼の強さを持って香取の心を支配していた。人として正しい選択であったかどうかは、すべてが終わった後に問われることになるだろう。

 世間は香取の行いを許すことはない。しかし香取が自分の行いを後悔することもない。あきらめるという選択は既にない。

「カプセルを渡せ」

 引き金を握る指に力が入った。

「どうしても行くのか」

「あぁ」

 川上の両肩から力がゆっくりと抜けるのがわかった。

「わかった。カプセルは車の中だ」

「見せろ」

 川上は無造作に踵を返すと、車に戻り、後部座席からタイムカプセルを一つ取り出した。

「ナンバーを振られていないカプセルが二つある。もう一つはここだ」とケースを示した。

「この二つに麻薬が入っている。どうする。持っていくか?」

「いや」香取は一歩踏み出し、「その車ごと借りたい」

「なるほど」

 川上は展示された最新鋭の車を勧めるセールスマンのように、一歩脇によって香取に車を示した。

「カギは付いている」

 香取は銃口を川上に向けたまま車に近づいた。

「見逃してくれるのか」

「あぁ。そうだな」困ったように頭を掻く。「刑事として間違った判断だ。だから明日にでも刑事を辞めるよ」

「なんだって」

「銃口を向けられたからといって、人を殺しに行く男を見逃すなんて刑事失格だからな。ちょっと後先になるが、けじめをつける。友人として見逃すんだ。止めるべきだったと後悔することになるかもしれんが、まぁ、止められる自信もないし。少なくとも君は後悔しないだろうし」

 香取は乾いた笑い声を立てた。

「やっぱりお前は変わってない。変なやつだ」

「ありがとう。ほめ言葉ととっておくよ。私の大事な車だ。無茶な使い方はしないでくれ」


          ※


 川上秀和は、香取はハイエースで闇に消え去るのを確認すると、大きくため息をついた。しばし考えを巡らすとポケットから携帯電話を取り出した。

アドレス帳を呼び出す。「幸子」と名付けたフォルダーから目黒浩一の名前を選択し電話をかけた。

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