第13話

24


 目黒浩一は悩んだ挙句、東山小学校に向けて車を走らせていた。作業からは外されたが、じっとしていられなかった。様子だけでも見に行こうと思っていた。

 香取新平から直接電話があったのだから、彼が作業に参加している可能性は高い。タイムカプセルを掘り出した後は、組事務所に持って帰るのだろう。なぜ自分が外されたのか。何度も考えた疑問を再度頭の中で繰り返す。

 香取は自分のことを信用してくれていないのだろうか。しかしその考えはしっくりいかなかった。信用しているとか信用していないとか、そんな問題ではない。小学校の校庭に埋まったタイムカプセルを掘り起こすという仕事に、それほど深い信頼関係が必要とも思えないし、香取とは今でも信頼関係が築けていると思いたい。それならば何か。さっぱりわからなかった。

 香取はつまらない仕事だと言っていた。しかし張真組ナンバー二の香取自らが出張るような仕事だ。組長も絡んでいる。作業自体は単純なものだが、張真組にとって大きな意味のある仕事に違いない。

 ならばなんだともう一度考える。どうしても理解できなかった。

 いてもたってもいられなくなって自宅を飛び出していた。学校には来るなと言われたが組事務所で待つことまで駄目だと言われたわけではない。そう思って車を出したが、様子を見に行くだけだと思い直し、結局学校の方向にハンドルを切っていた。

 香取と出会ったのは、目黒がまだ組長宅で住み込みをしている時分だった。張真組では必ず新しい構成員を半年から一年の間、組長宅で住み込みをさせる。そこでヤクザとしてやっていけるかどうか確かめられるのだ。しかし実態は、体の良いお手伝いさんと変わらなかった。この時期に逃げ出す者も多い。目黒と同時期に、後二人住み込みがいたが、ひとりは一カ月と持たずに失踪している。

 ヤクザになれば派手できれいな女を連れ肩で風を切って街を闊歩できると手放しで信じていたわけではない。ただ、それに近いものが味わえるのではないかと思っていた。しかし、組長宅での住み込みは自由が少なく、こき使われるだけの毎日だった。こんなことなら、近藤やコウタたちとつるんでいた頃の方がよほど楽しかったと腐っていた。

 ある日、組長宅に客が来た。同行してきた兄貴分より、リビングにコーヒーを持って来いと指示を受けた。リビングは三十畳近い広さで、壁際のサイドボードには洋酒が並び、十人ほど座ることのできる巨大な革張りのソファが窓際に置かれていた。

 組長の多門一樹の趣味は柄にも似合わない音楽鑑賞だった。リビングには防音設備が施されていて、重い扉を閉めると、大音量で音楽をかけても外には漏れない。早朝や深夜に、組長は一人でリビングに篭り、目黒には曲名も作曲者もわからないクラッシックを聴いていた。

 重いスライド式の扉を押し開け部屋に入ると、組長が難しい顔をしてソファに腰をおろしていた。その前のソファに、背中を向けて背広姿の男が座っていた。

 テーブルの上にコーヒーを置く。そこには数字が羅列された資料が広がっていた。客は何かのセールスマンか、それとも銀行の人間だろうと思った。ちらりと来客の顔をうかがい、目黒は思わず声をあげた。見知った顔だったからだ。


 ――遡ること数年前。目黒がまだ張真組の構成員になる前のことだった。

 繁華街の片隅にある雑居ビルの非常階段で、近藤が手に入れたソフトドラックをやっていた。

 雑居ビルには何店舗かバーやキャバレーが入っていたが、夜の時間帯に非常階段を利用する人間はいなかった。何もやることがないときには、この場所に来て近藤たちとドラックをやった。

 気持ちよくなった近藤が、目黒の制止も聞かず、ふらふらと表通りに出た。

 目黒は酩酊状態になかった。一生懸命がんばっていた空手が、怪我で満足な練習もできなくなり、腐っていた時期ではあったが、ソフトドラックとはいえ体をむしばむことがわかっている麻薬に溺れるほど自棄になってはいなかった。

 もちろん、頭の片隅には石塚のばあさんの顔があり、世話をかけた園長の顔が浮かんでいた。空手への未練もあった。だから麻薬も、付き合い程度に楽しむ程度でとどめていた。

 雑居ビルの前に、黒塗りのベンツが滑り込んできた。ガラスにはスモークが貼られ、中を覗き見ることはできなかったが、明らかにその筋の車だとわかった。ふらふらと道路に歩み出た近藤はご機嫌で、迫りくるベンツに大声をあげていた。

「近藤ただいま横断中―。おーい、止まれ!」

 ベンツは必要のない急制動をかけて止まった。ほとんど近藤とぶつかりそうな距離だった。

 近藤が怒った。

「こらー、あぶないやろ!」と言ってボンネットを平手で何度も叩いた。

 助手席から白い革靴を履いたガラの悪い格好をした男が降りてくると、まだへらへらしている近藤を路上に引き倒した。

「こんくそガキが! 轢き殺すぞ、ぼけ!」

 悪態をついて、男は近藤の脇腹を蹴りあげた。

 目黒の血が騒いだ。音もなく近藤を足蹴にする男に近づくと、助走をつけた前蹴りを男の背中に見舞った。大柄な男がもんどりうって顔面から路上に突っ込んだ。男はすぐに体勢を立て直すと憤怒を滾らせて立ち上がった。男の顔はどす黒く変色していた。

「なにさらしよんじゃ! こら!」

「友達を助けただけや」

 目黒の体躯に男は一瞬ひるんだが、ゆっくりと立ち上がると腰だめに光りものを構えていた。

 ――ナイフ。

 恐ろしく気の短い男だ。目が真剣だった。目黒の実力を正確に捉えているように思えた。すっと腰を落とす。目黒も体を緊張させて、浅く腰を落とし、男の襲撃に備えた。

「やめろ!」

 怒声に驚き声の方を振り返った。ベンツの後部座席から、男が一人降り立っていた。五分刈りに頭を刈り込み、高級そうなスーツを着込んだ男だった。五分刈の男の一声でナイフを腰だめに構えていた白い革靴の男は、手品のようにナイフをしまった。

「つまらんことで、ドスを晒すんじゃない」

 五分刈の男は白い革靴の男を叱責すると、目黒に向き直った。

「あんたの友達か」

 近藤のことを言っていた。目黒はそうだと頷き、地面に突っ伏してうんうん唸っている近藤を助け起こした。

「ドラックをやっているのか」

 五分刈の男の問いかけには答えず、近藤に肩を貸す。

「薬などやっても、いいことは一つもないぞ」

「ヤクザが道徳を説くんか」

「なめとんのか、われ!」

 白い革靴の男がつかみかかってきた。体の大きさは目黒とさほど変わらない。掴みかかってきた手を逆に取ろうとしたが、男は簡単にそれを許さなかった。もみ合いになる。

「やめろ」

 五分刈の押し殺した声に白い革靴の男が手を引いた。

「あまりヤクザをコケにしない方がいい。それ以上やると、俺でも抑えきれなくなる」

 目黒の体の芯がぶるりと震えた。高校一年のとき、極真空手の全国大会高校の部で迎えた決勝戦の時と同じだった。目黒より一回り小さい五分刈の男に、恐怖した自分を知り、頭の中が熱くなった。

 目黒の肩を借りて近藤が唸っている。近藤がいなければ恐怖した自分に耐えられなくて、五分刈りの男に挑みかかっていただろう。

「悪いことは言わん。ドラッグは辞めておけ」

男は最後にそう言い残し去っていた。


 その男がソファに腰をおろしていた。相変わらず髪を短く刈り込んでいた。彫りの深い顔立ちをしていた。男は目黒に気づいていない様子だった。

「おい目黒」

 お茶を出し、下がろうとすると組長に声をかけられた。

「お前、明日からここに来なくていい。香取の下で働け」

 五分刈の男が静かに視線を投げかけてきた。いきなりのお役御免だった。一日も早く組長宅から逃げ出したかったのに、あまりにも唐突な人事に、あっけにとられた。

「よろしく頼む」

 口元に笑みを浮かべ、香取が言った。その時には、あのときの獣性をみじんも感じ取ることはできなかった。

 香取の下で一年ほど働いた。主に香取の後について、不動産業、貸金業、賭博喫茶、パチンコ店などを回る。時間をかけて打ち合わせをすることもあれば、ほんの挨拶程度で帰ることもあった。

 どの店もそれほど大きくはなかったが、八祖会系広域暴力団の三次構成団体の張真組が、思いのほか手広く事業を展開していることを知った。

 賭博喫茶など限りなく業態が裏の世界に傾いている店は、従業員の全てが張真組の人間だったが、店の代表や主だった役員だけが組長の多門一樹と盃を交わした舎弟や若衆の店もあった。

 そういう会社の従業員は、自分の会社が暴力団により経営されていることを知らないものもいるようだった。

 ヤクザの世界にこんな仕事もあるのかと瞠目した。そして、やり手の経営者顔負けに采配を振るう香取に舌を巻いた。

 香取の仕事ぶりは、社会人として仕事をしたことのない目黒の目にも有能に映った。ほとんどの店の代表者は一癖も二癖もある人間ばかりだったが、みんな一様に香取に対して好意的だった。人柄がそうさせるところもあるだろうが、そのスマートな手腕が信頼されていることも原因の一つだった。

 普段、香取はどちらかと言えば寡黙だったが、部下の面倒見はよかった。目黒は香取の人柄に魅せられるに従い、門外漢の仕事にも精を出すようになった。いつかこの人の下で立身したいとの思いが日に日に強くなっていった。

 香取も目黒に期待しているところがあった。目黒が配置替えになった時も、いつか俺のところに戻ってこいと声をかけてくれた。

 今回、東山小学校の校庭からタイムカプセルを掘り返すという作業から外されたことには必ず裏がある。

 なぜ香取は目黒を外したのか。何度考えても答えを思いつくことはなかった。

 信号が青に変わった直後、横合いからワンボックスカーが交差点に突っ込んできた。

 派手にタイヤを軋らせて交差点を直角に曲がる。その後を、見覚えのある車が二台、追走していた。車内まで確認できなかったが張真組の組員の車に間違いなかった。

 目黒はアクセルを踏み込み、車を急発進させた。触媒を抜いたマフラーが盛大に破裂音を発した。

 前方ではまるでハリウッド映画のカーチェイスのように、数台の車が町中を派手に飛ばしていた。あちらこちらでクラクションの音が響き渡る。警察が駆けつけてくるのも時間の問題だろう。

 ショップで買ってきたばかりの携帯電話を取りだした。追跡している車の一台は目黒もよく知っている組員のものだ。状況を聴こうと思ったが、電話しながら運転できる状況ではない。

 携帯電話をポケットに戻し、アクセルを底一杯まで踏み込む。車高を落とした分、シーマの運動性能は落ちている。極太の扁平率30のタイヤを履いているため、パワーステアリングにも関わらず、ハンドルはいやになるほど重いし、ちょっとした段差を乗り越えるだけで、どつかれたように車体が振動する。

 前方の交差点で信号が赤になっていた。先頭を走るワンボックスは、躊躇いもなく交差点に進入し、右折した。遅れて飛び込んだ二台の車は、まっすぐ走ってきた車と接触しそうになって、急ブレーキをかけた。

「うわ!」

 急制動をかけた仲間の車がみるみる目前に迫る。ブレーキを踏み、ハンドルを左に切る。一瞬グリップしたタイヤが、たがが外れたように滑り始める。

 緊張であごの中に歯がめり込むほど噛み締める。制御を失ったシーマは車線を横切り、歩道のマウンドアップに盛大にフロントをぶつけて止まった。

 振り返ると停車していた二台の車がクラクションを鳴らし、混乱の中から脱出しようと躍起になっている。

 目黒の車はエンストしていた。キーを捻る。車体が振動を取り戻した。がりがりと音を立てながらバックする。フロントスポイラーが外れて路上に転がった。フルエアロで三十五万かかっている。取りに降りようかと悩むが、そんなことをしていたら逃走車も追跡する味方も見失うことになる。

 おそらく車は唇をむしり取られた馬みたいな顔になっているだろう。くそーと歯噛みしながら車を走らせた。

 交差点で立ち往生している張真組の車から柄の悪い男たちが顔を出し、周りの一般車両を脅してどかせ、ようやく体勢を立て直し、追跡を再開した。

 とっくにワンボックスの姿は消えていると思われたが、駅のロータリーの向こうに、その影を捉える事ができた。

 車の左前方から異音がしていた。タイヤとシャーシが接触しているのかもしれない。最悪だ。下手をすればパンクする。二台の車には随分先行されていた。

 苛立って目黒はハンドルをどんと叩いた。

 前方を走る車の一台がブレーキランプが点灯させ、Uターンを始める。トラックだった。車に見覚えはなかったが、ちらりと街灯に照らされた運転席と助手席の男に見覚えがあった。梅木と佐久間だ。トラックはUターンを終えると、駅のロータリーに入っていく。明らかに目的のある動きだった。

 目黒は少し悩んだあと追跡を止め、車を減速させると歩道際に寄せた。運転席のシートを抱え込むようにしてロータリーの中を覗き込む。

 トラックはロータリーの奥にあるバス停の前に停車した。梅木と佐久間が降りてきて、あたりを見回し、梅木は私鉄の改札口へ、佐久間はモノレールの改札に向かって走り出した。

 目黒はハザードを焚いて、エンジンを切ると、車を飛び出し、駅のロータリーへと向かった。


25


 できる限り自然に見えるように、タイムカプセルを小脇に抱え改札を通り抜けた。モノレールのホームは閑散としていた。街の中心部へと向かうモノレールは数分前に最終列車が出た後だが、郊外に向かう線の最終列車がもうすぐホームに流れ込んでくる。

 優斗と理香はベンチに並んで腰をおろした。脇に抱えていたタイムカプセルを膝の上に置く。金属の冷たさが服を通して体にしみ込んでくる。優斗や理香(幸子)と同級生だった十人の思い出が中に詰まっているのだ。

 しばらく二人、何も話さず座っていた。吐く息が白い。タイムカプセルを掘っていたのと、慣れないカーチェイスに巻き込まれた緊張のため掻いた汗が、めっきり冷たくなって体温を奪おうとしていた。

「川上さん、大丈夫かな」

 優斗は口を開いた。理香の兄だとわかっているが、君のお兄さんとも言い辛い。

「うん。たぶん大丈夫だと思う」

 言葉の接ぎ穂を探すが、うまくみつからない。優斗は膝に置いたタイムカプセルに視線を落とした。つられたように理香も視線を移す。

「これ、開けられるの?」

 沈黙に耐えられなくなったのか理香が口を開いた。

 優斗はポケットから持ち手の所も金属になった小さなドライバーを取り出した。タイムカプセル一つに一本。このドライバーが付いてくる。クーラーやテレビのリモコンなどの電池を換えるときに便利なので、子供の頃、自宅の隅に転がっていたものを一本拝借して今でも持っていた。今日はこのドライバーにとって本来の機能を果たしてもらう時だと思い、用意していたのだ。

「これでキャップの部分についているネジを外すんだ」

 全部で八つのネジがキャップの部分と本体を繋いでいた。

「僕の家で開けよう」

 終電に乗り、二駅目で降りれば、そこから優斗の家まで歩いて五分とかからない。しかし理香はそれを望まないのではないかとも思った。

「それとも、ひとりで中を確認する?」

 理香が首を振った。髪が揺れる。

「いいの。ごめんね」

 両手をベンチにつき、肩を竦める。彼女の横顔が見えなくなった。

 何について理香は謝ったのだろうか。正体を偽って優斗に近づいてきたことか、それとも暴力団との諍いに巻き込んだことか。

 彼女の、落ち込んだ様子が辛くて、大丈夫だよと応えようとした時、エスカレーターを駆け上がってくる足音が聞こえた。身を固くしてそちらに視線を送る。恰幅のいい若い男が、こちらに背を向けてホームに視線を走らせている。

「理香」

 理香を立たせてベンチの影に移動しようとした。身を隠す前に男がこちらに振り向いた。目が悪いのか一瞬眉間に皺を寄せるが、優斗と理香に気づきこっちに向かって足を進めた。助けを求めようとあたりを見渡すが、近くには誰もいなかった。

「おい!」

 と男が怒鳴る。

 優斗は理香を背中にかばった。男は足をゆるめ、優斗の背後をうかがうようにしながら近づいてくる。

 男の耳が餃子のように潰れている。ジャケットの肩に土がこびりついていた。タイムカプセルを掘り出していた男の一人だろう。

「それをこっちに渡せ」

 数歩手前で止まった男が、背後に庇ったタイムカプセルを指さした。巨大な芋虫のような太い指をしていた。

「これは、あなたたちが探しているカプセルとは違います」

「うるせえ。いいから渡せ」

「嫌です」

 全身に電気が走ったように震えが来た。黄色頭に向かって乱暴は辞めろと発言したときとは別の震えが体を支配していた。

「逃げるんじゃない」と父の言葉が脳裏を過ぎり、「逃げないよ」と力強く反目していた。「逃げるもんか」と優斗は呟いた。

 危機に直面しながら、どこか高揚感があった。背中に理香の体温を感じた。彼女を守りたい。でも逃げ場はない。

「あなたたちは、いったい何を探しているんですか」

 男に問いかけながらも、優斗は視線を男の後方に走らせていた。エスカレーターを上がってくる人の姿が見えた。中年の男だ。誰でもいい、こっちに振り返ってくれと念を送る。優斗の念が通じたのか、男がくるりとこちらを振り返り、さっと優斗に向かって手を挙げた。

 優斗は、「えぇ」と戸惑いの声をあげた。

「そんなことはお前に関係ない。いいからそれをこっちに渡せ。怪我するぞ」

 耳の潰れた男の様子がさらに剣呑になった。ポケットに手を突っ込んでいる。もしかしたらナイフでも隠し持っているのかもしれない。一歩近づいてくる。

 ホームにモノレールが到着するとアナウンスが流れた。耳の潰れた男は、優斗を睨みながら動きを止める。最終のモノレールがホームに流れ込んできた。

 モノレールから降りてきた客は、三人に気づくこともなく、足早に階段を駆け下りていった。

 発車を告げるベルが構内に鳴り響いた。男は優斗と理香が発車間際のモノレールに飛び乗ることを警戒している。

 優斗の腕を握っている理香の手に力が加わった。

 エスカレーターを登ってきた中年の男は落ち着いた様子で一度しゃがみ込むと、裸足になってゆっくりとこちらに近づいてくる。

「ヤクザの人が」優斗は生唾を飲み込む。「一般人に危害を加えていいんですか」

男の背後を見ないようにしながら時間稼ぎをした。

「うるせえ! 人のものを奪っといて被害者面するんじゃねぇ!」

 痺れを切らした男がポケットから手を出した。予想通りナイフが握られている。

中年の男が、男の背後に歩み寄った。

「あっ……」

 理香が優斗の後で声を上げ、若い男が理香の視線に気づき、後ろを振り返ろうとしたとき、乾いた音が構内に響き渡った。耳の潰れた男は半分首を捻じ曲げた状態で崩れ落ちた。

 背後から迫ってきた男は、片手に下駄を握り、無精ひげを蓄えた口を横に開いて、「久し振りだな、優斗」と言った。

 優斗は足もとに崩れた男が、ぴくりとも動かないのを確認し、下駄の男に視線を戻した。

「なんてことするんだ。父さん」

「御挨拶だな。助けてやったのに」

 手にはめた下駄の歯をカツカツと打ち鳴らした。

 ふっと肩から力が抜ける。よほど力が入っていたのか、ぎゅっと摘ままれたように肩が凝っている。

「母さんが心配して電話してきたよ」

 屈託のない父の笑顔を見ていると、今置かれている状況も忘れ、父子の会話をしてしまう。

「あぁ。さっき電話したらちょっと怒っていた。これは相当土産が必要かもしれんな」

「でも、どうしてここへ」

「こいつらと」足もとで伸びている耳の潰れた男を下駄をはめた手で示し、「一緒にタイムカプセルを掘ってたら盗難にあった」

 校庭でタイムカプセルを掘っていた張真組の中に、聞き覚えのある声が含まれていたことを思い出した。

「どうしてヤクザなんかと」

「仕事だ」と臆面もなく言い放ち、「しかしお前、どうしてヤクザから物を盗んだりするんだ」と不思議そうに尋ね、いろいろあってと口ごもる優斗に、「少し見ぬ間に成長したな。成長の方向が曲がっているかもしれんが、それはそれでいい」となぜか嬉しそうに笑った。

「あの……」

 と優斗の後ろで、理香が呟いた。

「あぁ」

 優斗は理香を振り返り、「父です」と紹介した。

 彼女のことを父にどう紹介しようかと一瞬迷い、「沢木理香さん」と説明した。

「はじめまして。優斗がお世話になっています。俺と違って金玉の小さい男だが、これはこれで頑張って生きている」

「父さん。変なこと言わないでよ」

「優斗さんにはお世話になっています」

 理香が頭を下げた。

「でも、おそらくはじめましてではないと思います」

 理香の言葉に戸惑ったのは優斗だけではなかった。父も怪訝そうに首をかしげる。しかし、「なるほど」と納得がいったようにうなずいた。

 足元でうつ伏せに倒れていた男が後頭部に手をやり、うーんと呻いた。上体を起こし、太い首を振る。

「とにかく逃げるぞ」父は駅の階段を指差した。「こいつらヤクザだ」

「あなたたち!」

 駅員の制服を着た男が二人、階段を駆け上がってきた。ようやく騒ぎに気づいたらしい。

「やぁ、駅員さん」

 こちらに背中を見せ、父は硬い表情で近づいてくる駅員に手を挙げた。手には下駄が嵌ったままだ。

「こんなところにヤクザが一人倒れています」

 そのタイミングを待っていたかのように、ヤクザがのたりと立ち上がり、父の背後から掴みかかろうとした。

「父さん!」

 父は予期していたのだろう、突き出された腕をひょいと避けると、ヤクザを腰に乗せ、くるりと地面に投げ付けた。

「うげ」

「こら、あんた!」

「こいつが襲ってきたんだ」

「しかし、背負い投げはないだろう。それに下駄で殴っていなかったか。防犯カメラに映っていたぞ」

 父は優斗に目配せをして、「ややこしいから行け」と言った。二人の駅員は父と、地面で暴れるヤクザに意識を集中している。優斗は理香を庇いながら、駅員を大回りして階段に向かった。

「ちょっと、君たちも待ちなさい」

 駅員の一人が気づいて声をかけてきた。

「あっ。暴れだしたぞ」

 と父の声がかぶる。

「ぶっ殺してやる!」

 耳の潰れた男の怒鳴り声だ。

 人間と人間が力比べをする騒々しい物音に見送られながら、わき目も振らずエスカレーターに向かって走った。

 ホームに、二度目の乾いた音が響き、こらっと駅員のどなり声が聞こえ、父が、「ヤクザを下駄で殴って何が悪い」と叫んだ。

 エスカレーターの上に到達したとき、終電が出発したにもかかわらず、下から上がってくる男が一人いた。優斗の父をも凌ぐ体躯。黄色に染めた髪。

「あっ」と理香が小さく叫び、「浩一」とつぶやく。

 黄色頭も理香を認め、優斗に視線を移すと眉を吊り上げ、エスカレーターを駆け上がってくる。

「理香! 何してるんや」

 黄色頭は獲物にとびかかる猛獣のように迫ってくる。優斗は無言で理香の手を引き、父が駅員二人を相手に押し問答しているのとは反対側に走った。

「どうするの!」

「線路を走って逃げる」

「線路って、空中じゃない! 一本だし!」

 情けない声を上げた理香は尻込みしたが、強引に腕を引くと観念したように一緒に走る。玉城さんの言葉を思い出していた。

『自動車専用道路の上を走るモノレールの線路は太い。』

 ホームの端に到達すると転落防止用の柵を越え、一メートル下のレールに向かって飛び降りた。

「早く!」

 理香が飛び込んでくるのを両手で受け止めると、一列になってレールの上を走った。線路は真中がへこんでおり、両側に腰までの高さの立ち上がりがあった。

屋根のかかった駅舎を抜けると線路は町の上空にむき出しになった。

 安全に走れる。玉城さんに感謝する。

 久しぶりに父に遭い、理香が親しく浩一と呼ぶ黄色頭を見て頭に血が上っていた。風が頬をなぶり、熱した頭が冷やされた。

 心に溜めた熱気と、外気の冷たさがぶつかって、叫び声になって溢れ出しそうだった。

 線路の幅は思いのほか広くて、下を見ずにすんだ。振り返るとホームの転落防止柵の向こうでこちらを睨む黄色頭の顔が見えた。追いかけて来られれば万事休すだ。

「彼、追いかけてこないわ」駆けながら理香が言った。「高所恐怖症だもん」

 黄色頭のことを語る理香に嫉妬を感じながら、それはよかったと呟いた。

「ねぇ。さっきの下駄の人、優斗のお父さんだったんだ」

「あぁ」息がはずんだ。「東山小学校に毎年タイムカプセルを売りつけていたのも父なんだ」

 部屋の隅に山積みになったタイムカプセルを思い出す。

「会ったことある」

 理香の息遣いが混じる。

「え?」

「昔、優斗の、お父さんに、助けられたことがあるんだ」

「あぁ……」

 優斗は頷いた。うどんすきの鍋をつつきながら、父の蔑むような視線を思い出していた。

「王様」と理香が言った。

「なに?」

「ううん。なんでもないわ。シャルル」

 夜風に吹き飛ばされてしまいそうな声だったけど、はっきりと聞こえた。

シャルルとはなんだろうと思った。

二人は一列になって、夜の街の上空を走った。

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