第12話

22


 理香は激しく揺れる車の中で優斗の横顔を見ていた。

 対向車線を走る車が、ひきつった優斗の顔を照らしだし、闇に戻すことを繰り返している。

 優斗にすべて知られてしまった。昨晩は、高ぶった感情と動揺した気持ちに揺さぶられて、ほとんど眠ることができなかった。

 優斗を騙していたことは言い逃れのできない事実だ。もう優斗とは会えないかもしれないと思っていた。でも彼は、こうやって手伝ってくれている。

私のため? 私を許してくれるの?

 と尋ねる勇気を今の理香は持ち合わせていなかった。必死になって葬り去った過去が、いとも簡単に顔を出し、彼女を臆病にさせていた。毎日怯え、現実逃避に安らぎを求めていたあの頃に戻っていた。

 整形手術を受けてからの人生は、まさにそれまでとは別の人生だった。包帯が外れ、初めて自分の顔を見た時の高揚感は今でも忘れることができない。まだ少し腫れが収まっていなかったけど、それでも十分に美しかった。さなぎが蝶に姿を変え、水滴を鏡に自分の姿を見たとき、こんな気分になるのではないかと思った。

 数日が経過すると、高揚感が少しずつ収まり、変わりに不安が顔を出し始めた。道行く人が顔を指差し、笑うのではないかと恐れた。すぐに整形だとばれ、親に貰った顔を捨てた娘だと後ろ指を指されるのではないかと思った。

 あなたは何も変わってないのよ。生まれ変わることなんてできやしない。いつまでたっても、あなたはみにくいアヒルの子――。

 小学校の同級生が寄ってたかって理香を取り囲み、ニタニタと笑う夢を何度も見た。

 一か月の入院生活を経て恐る恐る街に出た。知り合いに会うのではないかと恐れ、人の視線に怯えながら歩く。まるで小学生の頃に戻ったような精神状態だった。

 広島に引っ越してから、理香は自分の容姿を変えるために心血を注いだ。

毎日フィットネスクラブに通い、食事にも気を使い、エステにも通った。少しずつ自信が持てるようにもなっていたし、もう誰も、理香の容姿をからかう人間はいなかった。

 それが整形手術を受けたことで、以前のように他人の視線を恐れる自分に帰っていたのだ。いくら姿かたちを変えても、皮一枚めくればいじめに怯える川上幸子がそこにいた。

 しかし理香の心配は杞憂に終わった。

 ある日、同じ短大の同級生とすれ違った。特段仲がいい子ではなかったけど、それでも講座が幾つか重なっていて、何度か学食でランチをしたことがあった。

 彼女は男友達と二人で歩いていた。すれ違う時、理香の心臓は音が漏れだしそうなほど高なった。目が合った。しかし彼女は何の反応も示さなかった。そればかりか、理香に視線を止める男友達を窘めてさえいた。

 街を歩くと、男たちの視線が彼女を捉えた。振り返り、彼らに視線を向けると、あわてたように逸らす姿が面白かった。

 いきなり声をかけてくる男もあった。さすがに、まだ新しい容姿を手に入れてから間もなかった理香は、男の顔を見ることもできず、顔を伏せたまま逃げた。

 はじめての外出で、自分の高揚感が幻でないことを確信するに当たり、これまで理香を馬鹿にしてきた連中を見返していやりたいという気持ちでいっぱいになった。

 短大を中退し、短大でできた友人と縁を切った。過去を捨て別人として生きる。

 そして生まれ育ったこの街に戻ってきた。辛い思い出しかない街。しかし、この街で彼女は生きることを選んだ。それは、この街とそして彼女を取り巻いていた人間に贖罪させるためだった。

 川上幸子という名前を捨て、沢木理香と名乗った。いつも教室の片隅で、ノートに書いていた女の子の絵。その女の子の名前が沢木理香だった。

 普段使う名前を変えても、戸籍を変えることはできなかったので、マンションの契約書などは本名でなければならない。集中ボックスに投函される電気代や水道代の請求はすべて川上幸子宛になっていた。だからいつも、封筒やハガキに書かれた宛名を見ないようにして開封するのが癖になっていた。

 本名を名乗るのが嫌で、定職にはつかなかったけど、中学生の時に亡くなった両親の遺産で十分に生活ができた。ただ何もせずに暮らすのは案外辛かったから、モデルの仕事でもしてみようかとも考えていた。

 繁華街で一人、ウインドーショッピングを楽しんでいるとき、ひとりの男に声を掛けられた。気さくで、スマートで、背が高く、笑顔の魅力的な男だった。その男がフィットネスクラブの店長をしている西川だった。

 何度かデートをするうちに、西川と付き合うようになった。西川には奥さんと子供がいた。しかし気にならなかった。その方がしがらみがなくていいとさえ思った。

「フィットネスクラブで働いてみる気ある?」

 ある日、西川から提案があった。彼は不倫相手を自分の職場に置いておくことに危険な魅力を感じているようだった。

 受付のアルバイトを決める権利は自分にあるから、履歴書に不備があっても目をつぶれるよと彼は言った。

 西川は理香が名前を偽っていることを知っていた。迂闊にも鞄に入れていた請求書の宛名を見られたことがきっかけだった。

 鞄から出てきた何通かのダイレクトメールや請求書を見て不思議そうにしている西川に向って、「ほんとはそっちが本名なの。でもその名前嫌いだし、使わないようにしているの」と説明した。

 理香の過去を知らない西川に、以前の名前を知られてもさして問題はない。そう思ったからだ。

 フィットネスクラブで働くようになり、西川との仲が深まるにつれて、彼の底の浅さが見えるようになった。彼の目的は理香の体だけで、美しい女を連れて歩くことをファッションのように考えている男だった。

 理香に声をかけてくる男は他にもたくさんいた。その中から誰もが羨むような男を選んで付き合ってきた。

 ――これまでの人生を取り返すんだ。私に見向きもしなかった男たちを虜にするんだ。

 目的は達成された。整形手術を受けて五年が経過した。声をかけてくる男は数限りない。男にちやほやされる彼女を、心の底では妬みながらも、おこぼれにあずかろうと理香の機嫌を取る女友達に囲まれている。

 寂しさはなかった。ないつもりだった。しかし物足りなさを感じ始めていた。やはり彼ら、彼女たちは川上幸子の本質ではなく、その新しい入れ物の沢木理香を見ているのだとわかっていた。

 付き合っている男性の一人に歯科医院のドクターがいた。歯科医院では保険証の提示が必要なため、川上幸子と名乗らざるを得なかった。

 だからドクターは当然のこと彼は理香のことを川上さんと呼ぶ。その名前を聞くたびに周囲をうかがってしまう。以前の川上幸子を知っている人間が彼女に気づくのではないか。あらぬ心配を重ね、ゆっくりとデートを楽しむことができなかった。

 彼のことは気に入っていた。気遣いができる人で、理香を大事にしてくれた。

 容姿が優れているだけではなく、明るい性格で知識も豊富だった。今まで付き合ってきた男とは違うと感じるものがあった。この人とならもしかしてと夢を描きながらも、彼が口にする川上さん、幸子さんという言葉にびくびくして落ち着けなかった。

 そして、果たして自分が整形手術を受けたことを打ち明けた時、彼はどんな反応を示すだろうかと考えると、決して楽観的にはなれなかった。

 やはりこの街では生きていけない。そう思い始めていた。この街での辛い出来事の数々は、すでに過去の事として気持ちの整理ができつつあった。辛かった過去の生活とも決別し、新たな人生を歩むことができるのではないかと思い始めていた。

 そんなとき、偶然優斗と再会することになった。

 物思いに沈み目的もなく街を歩いていた。駅前の大通りを一筋入った場所に雑居ビルが並んでいた。商業区域を抜けると両側の建物はマンションへと変化する。理香は足を止めた。そろそろ引き返そうと思った。理香の住むマンションへは電車に乗らなければならない。

 マンションの一階部分に喫茶店が一軒と、『Water Planet』と書かれた看板を掲げた店が見えた。ガラス張りの店が緑色に輝いていた。何の店だろうと思い、近づいて緑色の正体を確認した。

 それは水槽だった。一抱えもありそうな水槽が棚に積まれている。水槽の中には草が生い茂っていた。形も色も違う草が、照明の明かりを受け揺れていた。水草のジャングルを熱帯魚が泳いでいた。ほとんどの魚が見たこともない種類のものだったけど、ネオンテトラだけはわかった。

 理香が幼い頃、父が飼っていた熱帯魚だった。

 植えられた草の種類や配置、土の色、熱帯魚の種類がそれぞれ違い、水槽の数だけ世界があった。

 理香は誘い込まれるように店に入った。店はそれほど広くはなかった。壁際に並ぶ水槽、店の真ん中にも水槽が島になって置かれていた。水槽には水草が整然と並び、ネームプレートと値段が表示されていた。

 いらっしゃいませという言葉が聞こえた。顔を上げ声の主を探すと、奥の壁でホースを握り水槽に腕を突っ込んでいた青年が、笑顔でこっちを見ていた。

 彼を見た時の衝撃は今でも忘れていない。

――シャルル

 思わず叫びそうになった。シンデレラに登場する王子シャルル。

 幸子を苛めなかった唯一の同級生、大村優斗がそこにいた。

 それから優斗との付き合いが始まった。彼が理香に好意を寄せてくれていることはすぐにわかった。しかし彼が、理香の容姿を好きになってくれたのか、それとも性格を気に入ってくれたのか。そこまではわからなかった。

 彼といると楽しかった。決して近づくことのできなかった彼が、今目の前にいることに幸せを感じていた。

 しかしそれと同時に不安はあった。理香の正体を知ったとき、彼がどう思うだろうか。彼は理香の過去を知っている。理香がどれだけ姿を変えたかを知っている。付き合いながらも不安だった。自分の素姓をばらしたいと思い、そしてためらった。

所詮彼も、沢木理香という入れ物を愛しているだけかもしれないと猜疑心にさいなまれた。

 しかしいつかは全てを打ち明けたいと思っていた。結果がどうあれ、すべて話して楽になりたいと思っていた。そして彼が理香を幸子として受け入れてくれたとき、辛い過去はただの「過去」になるだろうと思っていた。

 なかなか踏ん切りがつかず、ずっと先延ばしにしてきた。目黒や西川との付き合いも続いている。歯科医からも相変わらず誘いがあり、デートを重ねている。そうすることが優斗への裏切りと知りつつ、生活を改めることができなかった。

 そして不本意な形ですべてを彼が知ってしまった。感情に任せ、すべてを口走ってしまった。自業自得だと思う反面、強引な兄の行いに腹が立った。もう少し時間があれば、もっと違った形で優斗に打ち明けられたのにと思う。

 しかしその反面、兄に感謝していた。

 優斗の横顔を街灯の明かりが通り過ぎる。優斗は後ろを振り返り、追ってくる張真組の車を確認している。再会した時、彼の視線を正面からとらえ、言葉を交わすことができるということに喜びを感じた。

 今はこうやって彼の顔を盗み見ている。

 優斗がどうしてタイムカプセルを掘り返す気になったのか、それが聞きたかった。


23


 後方から、ヘッドライトをハイビームにして複数の車が追いかけてくる。現状を理解したくなかったが、現実は目の前にある。

 つまり、暴力団から物を奪い、そして、暴力団に追われる身となっているのだ。心臓は普段より三割増しで活動し続けている。アドレナリンが全身を駆け巡っているのか、体が妙に熱い。

 ハイエースのエンジンが咆哮し、住宅街の細い道をぶっ飛ばす。川上の運転は迅速で、的確だった。体が右へ左へと振られる。この人はいったい何者だろうと改めて思う。改造された車。街中を恐れ気もなく爆走する腕前と根性。暴力団が現れた時点で、普通なら逃げようと考えるのに、川上は暴力団からタイムカプセルを奪取した。

変な人だと思っていたが、認識が甘かった。危険な人だ。

「これからどうするんですか!」

 エンジン音にかき消されないよう大声を張り上げた。

「追手を撒く」

 そんなことができるのかと疑問がよぎる。相手は奪われたものを取り返すために迫りくる獰猛なヤクザだ。いくら川上の腕が良くても、振り切ることができるとは思えない。

「警察に助けてもらいましょうよ」

「なんて説明するんだ。学校に潜入したヤクザからタイムカプセルを奪ったら、追っかけてきました。助けてくださいとでも言うのかね」

「しかし」

「いいから、自分たちが品物を入れたカプセルを確認するんだ」

「どうして?」

「急ぎたまえ」

 重ねて質問する余地はなかった。揺れる車の中を移動し、理香の座る後部座席に収まると、荷台からカプセルのケースをとった。蓋を開け中を確認する。ネームプレートに「1」と振られたカプセルを取り出した。表面は滑らかで、カプセルの両側は半ドーム状のキャップがネジで止められている。十三年間土に埋まっていたが、ケースに収められていたため、ほとんど汚れていなかった。

「これだよね」

 優斗の問いかけに、理香ははっとしてタイムカプセルを確認し頷く。不安そうな彼女に微笑みかけてあげようとしたけど、頬が引き攣りうまくいかなかった。彼女も強張った表情を浮かべている。

「揺れるぞ!」

 川上が怒鳴り、車が激しく左に流れた。優斗はサイドウィンドウでしたたかに頭を打った。言うのが遅いですよと叫ぼうとして、舌を噛みそうになる。

 タイヤが悲鳴を上げ、ハイエースは赤信号を強引に右折していた。ずりずりと車の後部が流れる。川上がハンドルを逆に切り、体勢を立て直すと一気にアクセルを踏み込む。クラクションの音が後方より聞こえる。振り返って確認すると、後を追ってきた張真組の車が直進車と接触しそうになって止まっていた。

「いいかね!」

 運転席から川上が怒鳴った。

「二人は自分たちのカプセルを持って、この先の駅で降りろ」

 前方に駅のロータリーが見える。私鉄とモノレールが交差している駅だ。

「おにいちゃんはどうするのよ」

「私はやつらを引き付ける」

「でも」

「大丈夫だ。うまく逃げる。車を止めたらすぐに飛び降りろ、いいな」

 反論する暇もなく、車は駅のロータリーに入っていた。最終電車から降りてくる客待ちをしているタクシーが数台。誰かを迎えに来ているのだろうか乗用車の姿が一台。

 乱暴にブレーキが踏まれ、ハイエースは停車した。

「降りるんだ!」

 有無を言わさぬ言葉に優斗はカプセルを抱え外に飛び出していた。理香が後に続く。お兄ちゃん気をつけてと車内に向かって叫ぶ。

「逃げきったら携帯に電話する」

 川上はドアを閉めるのももどかしく車を急発進させると、ロータリーを飛び出して行った。優斗は理香の手を引き、駅の改札に向かって走る。こうなった以上、ぐずぐずしていると見つかってしまう。私鉄に乗るかモノレールを選択するかで迷い、道路からホームが見えにくいモノレールを選ぶ。振り返ると、猛スピードの車が数台通り過ぎていく。追手はハイエースにターゲットを絞ったようだ。

「大丈夫かな」

 優斗が切符を買う間、理香はデッキから乗り出して様子を伺っていた。


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