第10話


 大藪兄貴のセルシオを運転するといつも、ここまで車を快適に作る必要があるのだろうかと疑問に思う。

 目黒は革巻きハンドルに右手をあてがい、革張りのシートに背中を落とし、片手で運転していた。

 大藪は助手席で足を組み、焦げ茶色の革靴を小刻みに揺すっていた。薄いまゆ毛の下の細い目を時折り激しくしばたたかせるのは緊張感の表れだろう。

 今日はみかじめ料を回収する日だった。その前に一つ大口の仕事があった。張真組の縄張り内で公営住宅の建て替え工事が行われる。その第一弾として市が既存住宅の撤去工事を発注し、数日前から落札した撤去業者が工事を始めている。業者のバックには張真組と同系列の八祖会系暴力団菊水会がついていた。

 菊水会からは事前に、張真組の縄張りの中で工事を請け負ったとの連絡が入っていた。しかし昨日の時点で撤去業者からの挨拶がない。菊水会の連絡不行き届きが原因か、それとも撤去業者の不手際かはわからないが、張真組として黙って見過ごすわけにはいかなかった。

 今朝、組長から直々に大藪に挨拶をしてくるように指示が飛んだのだ。大藪はポケットからタバコを取り出すと咥え、ゆっくりと燻らした。窓を小さくあける。指にタバコをはさみ、手のひらでパンチパーマを何度かしごいた。時折りぶつぶつと独り言を呟いている。

 撤去工事の現場は背の高い仮囲いが張り巡らされ、入口に警備員が一人立っていた。目黒は濃紺のセルシオをゲート前に付けると、窓を降ろし、「おっちゃん、現場事務所はどこや」と尋ねた。

にしめた雑巾のような浅黒い顔をした警備員は無表情にセルシオを確認すると、ゲートを入ってすぐ左側だと教えてくれた。

 セルシオを現場内に突っ込む。タイヤの下で砂利が跳ねる音がした。現場は静かなものだ。あちらこちらにシートが掛けられ、コンクリートの残骸が散らばっているがまだ解体作業には入っていないらしい。ちょうど昼休みの時間のためか作業をしている人の姿はなかった。

 ゲートを入ってすぐの所に、平屋建ての現場事務所が二軒並んでいた。奥の方の事務所の前にセルシオを止める。大藪が無言で降り、目黒はそのあとに続いた。

 大藪は右手にサイドバックを持ち、腕には太い金の鎖をぶら下げている。背広は黒に近い青色で、白地に柄の入ったシャツにネクタイはしていない。いかにもその筋と言った格好をしている。普段はここまであからさまな格好はしない。目黒を振り返り、顎をしゃくる。

 目黒は先に立って現場事務所の引き戸を片手で軽くたたいた。返事を待たずに引き開ける。中にはスチールデスクが二台にコピー機、電話機に壁際に棚が一つ。奥のデスクで図面に目を落としていた中年の男が顔をあげた。

「土門興業の人?」

 目黒の質問に男は押し黙ったままもう一つの現場事務所の方向を指差した。おそらく市に雇われた現場監督員だろう。目的の人物とは違う。

 礼を言って隣の現場事務所に向かう。扉を開けるとさっきと同じような机の配置で、作業着を着た男が二人談笑していた。目黒の顔を見ると敵意とも無関心とも判断が付かない視線を送ってきた。

「土門興業の人かな」

 年嵩の男が頷いた。もう一人の男は机の上の缶コーヒーを掴み立ち上がると、目黒と視線を合わそうとせず現場事務所から出て行った。大藪の姿を見つけ、ぎょっとした表情を浮かべ遠ざかっていく。

「現場代理人の篠原ですが、お宅は?」

「邪魔するよ」

 応えようとした目黒の脇を通り、大藪が事務所に足を踏み入れた。その服装で判断が付いたのだろう。篠原と名乗った男は表情を固くして腰を浮かした。大藪は気づかぬ振りをして、さっきまでもう一人の男が座っていた椅子に腰を下ろした。

「大藪ってもんです」

大藪は細い目を更に細めた。

「菊水会の吉永さんには世話になっております。今日はうちの多門の代理で参りました」

 慇懃にゆっくりと言葉を繋ぐ。張真組の名前は出さないし、名刺を差し出すようなことはしない。暴対法施行以来、そういったものを差し出すだけで警察にしょっぴかれかねないからだ。相手が同業者の息のかかった業者だとわかっていても、用心に越した事はない。

 篠原と名乗った男は、四十代後半といった感じだった。浅黒く日焼けしていて恰幅がいい。大藪と目黒が何者か、目的は何かすぐに悟ったような顔だったが、「ご用件は」と言った。

「さっき表の看板を見させてもらいましたが、工事期間は今月の五日からとなってますな。目黒、今日は何日や」

「八日です」

「となると……もう三日も経っとるんか」

 大藪は首をぐるりと回しポケットから煙草を取り出した。卓上の灰皿を引き寄せる。目黒は近づいていってライターをかざす。深く吸い込んだ煙を大藪は上に向かって吐き出した。

「公共の仕事ですからね。五日からと言っても現場に入ったのは昨日です。箱番建てたのもね」

「篠原さん。お互い忙しいんだ。面倒くさいことは無しにしましょうや」

 大藪が革靴でスチールデスクを蹴り飛ばした。ガツンと音が響き、卓上の灰皿が跳ねた。篠原は予測していたのか驚いた様子はなかったが、なお一層顔つきは固まっている。

「三日前に現場に入ったんなら、遅くとも一昨日には挨拶にこなあかんのとちゃうか。それとも吉永がそんなもん必要ないと言ったんか」

 大藪は一服だけ吸った煙草を灰皿でもみ消した。篠原を正面から睨みつける。篠原も視線を逸らさずそれを受けていた。菊水会からは張真組に一報が入っている。仁義を欠いた行動に出るつもりはないと推測できた。土門興業に挨拶に行くよう指示を出していないとは考えづらい。

 数秒間沈黙が流れて、篠原が重い口を開いた。

「いや。挨拶に行くように言われてますよ。昨日は現場監督員と工程の調整をしてましたんでね。あまり遅い時間に行くのも何かと思いまして」

 篠原はそう言うと顎をしゃくるようにして頭を下げた。少しも申し訳なさそうな態度ではなかった。

「じゃぁ、今日来るつもりだったんだな」

「えぇ」

「で?」

「は?」

「俺達が来てやったんだ。事務所に来る手間を省いてやったわけや」

 大藪が椅子の背もたれに体を投げ出した。体重を受けて椅子がギシリとしなる。篠原が小さく溜息をついて立ち上がろうとした。

「延滞料も入っているんやろうな」

「延滞料……」

 篠原が気色ばんだ。目黒は箱番の隅で様子を伺っていた。もし篠原が抵抗するようなことがあれば目黒に出番が回ってくる。

 狭い室内の空気が焦げ付くほど強い視線を大藪と篠原は交し合った。張真組の縄張り内で工事を行う以上、挨拶料としていくばくかの金銭を包むのは常識だった。篠原が最初の時点で、挨拶が遅れたことを謝罪していれば大藪も延滞料を請求する事などなかっただろう。

 睨みあいから先に離脱したのは篠原だった。ポケットから携帯電話を取り出す。

「電話してもいいですかね。私の独断では決められませんから」

「構わんよ。なんなら電話を代わってくれてもいい」

 篠原は立ち上がると目黒の脇を通り抜け、現場事務所から外に出て行った。大藪を見る。小さく頷く。そのままにしておけという合図だ。

 二分ほどで篠原が戻ってきた。大藪とも目黒とも視線を合わせようとせず、奥のロッカーに近づく。シリンダー錠に鍵を差込み、こちらに背を向けたまま小さな金庫を取り出した。ちらりと茶封筒が見える。茶封筒は少し膨らんでいるように見えたから、既に挨拶料は用意していたらしい。それに新たな金をいくらか詰めたようだ。

 振り返ると茶封筒を大藪に差し出した。

「わざわざご足労いただきまして申し訳ありません。吉永さんもくれぐれもよろしくと申しておりました」

 大藪が封を開け中を改める。おそらく百万円前後の金が入っている。

「確かに受け取りました」

大藪は内ポケットに茶封筒をしまうと立ち上がった。

「吉永さんによろしくお伝え下さい」

 


「もう少しもめると思ったがな」

 セルシオの助手席で大藪は明るく言い放った。カッターのボタンを真ん中ぐらいまで開け、煙草をひっきりなしに吹かしていた。

「いくら入れてきたんですか」

「百二十や。まぁ、上乗せ四十ってとこやろうな」

 工事現場から挨拶料を徴収するのは初めての経験だった。百二十万と言う額が高いのか低いのかわからない。

「まぁ、あの規模の撤去工事やと一億ちょいやろから、ええ線いってるやろ」

 大藪は鼻の穴に小指を突っ込み、指先で鼻くそを丸め、窓を少し開けて外に弾き飛ばした。

「目黒、ダンケに行ってくれ。ちょっと休憩や」

「わかりました」

 車を行きつけの喫茶店へ向ける。

 今日は大藪の事を少し見直していた。いつもあまり仕事にやる気を出さないタイプだが、みかじめ料の徴収担当になっている理由が少しわかったような気がした。

「百万切ってたら、どうするつもりやったんですか」

「受け取るつもりやったで。相手は一応誠意見せたからな。菊水会にも電話入れとったし、あそこで百やったら安すぎるってごねてみいな。今度は菊水会の顔潰すことになる」

「そんなもんですか」

「五十やったら暴れとったけどな。そんな金持って帰ったら親父にしばき倒されるわ」

「七十やったら」素朴な疑問を投げかける。

「びみょーやな」と大藪は女子高生のようなことを言った。

「まぁ、菊水会はうちをなめているからな。七十ぐらいの可能性もあった」

「なんでです。同じ八祖会系の暴力団で、こっちの方が歴史も長いですし、規模だって負けてないでしょう」

 憮然として言い返した。兵隊の数も同じぐらいだと聞いていたし、多門一樹と菊水会の会長とは五分の盃を交わした兄弟関係でもある。

「あっちの方が勢いがあるからな。薬の売買も手広くやってるしな」

「麻薬っすか」

 十二年前、八祖会系傘下の暴力団に対して、警察は大掛かりな麻薬摘発の手入れを行った。引き金となったのは張真組の準構成員が、麻薬を所持したまま自殺したことによる。以前から八祖会の麻薬密売に業を煮やしていた警察は、これをきっかけに全面捜査に出たのだ。

 結果として、いくつかの組織が摘発された。しかし張真組からは準構成員が所持していた麻薬と繋がりのあるものは何も出てこなかった。しかし八祖会に対して、張真組が多大な迷惑をかけたことは逃れようのない事実だった。

 当時の組長、張真大吉は八祖会の臨時総会の場でエンコ詰めを約束させられ、多門一樹を後釜に据えて引退した。それから張真組は麻薬の売買から一切手を引いている。

 菊水会のように、麻薬を扱っている暴力団は少なくない。リスクが高い分、実入りも多い。おおっぴらに民事介入ができなくなった昨今、ある意味、もっとも安定した収入が期待できるしのぎでもある。

「うちは落ち目や」

 大藪は口にしてから、後悔したかのように目黒にちらりと視線を向けた。

「落ち目というのは言い過ぎやな。あまり経営が芳しくないっちゅうことや」

 確かにみかじめ料も減っている。香取新平が取り仕切っているフロント企業からの実入りも、以前に比べて相当落ち込んでいるとは聞いていた。経済状況がいつまでたっても好転しないのも大きな原因だが、総務部長の香取が、組長から疎んじられ、やる気をなくしているのだとのもっぱらの噂だった。

 そうかもしれないと目黒は思う。組長は明らかに息子の慎治を寵愛している。その分、目の上のたんこぶに当たる香取への風当たりは強い。

「八祖会が臨時で上納金を要求してきたらしい。それが半端な額やない」

 大藪はいつになく饒舌だった。交渉がうまくいったことに気を良くしているのだろう。

「払えないんですか」

「まさか。一日でも遅れたら面子が潰れるからな。すでに借金して払ったはずや」

「借金すか」と面食らう。「でも、どうして臨時の上納金なんて」

「正確なところは俺にもわからん。最近どこも不況やからな。何かと理屈をつけて下位の組織から金を巻き上げるんや」

 借金という言葉に幻滅していた。社会で生きていく以上、ヤクザであろうとも世の中の経済状況に左右されるということだ。

 張真組構成員の約半分が、独自に仕事を持っていた。構成員の中には土建業を営む者や、飲食店を経営しているものもいる。目黒はこうやってみかじめ料の徴収や、風俗や飲食店の用心棒などをして日銭を稼いでいる。その他は兄貴分がくれる小遣いだ。まだ見入りは大したことないが、大藪のクラスになれば収入は数倍に跳ね上がるだろう。ノルマをこなせば徴収したみかじめ料から幾分ピンはねすることができるし、私的にトラブル解決などの仕事を請け負い、小銭を稼ぐことだってできる。

 目黒は裏通りにある喫茶店ダンケの前に車を止めた。三ナンバーのセルシオを店の前に止めると、車のすれ違いが難しくなる。少しでも店に近づけようとした。

「何や、目黒。お前、疲れとるんか」

「は? いえ別に」

「昼からの徴収、お前に任せるわ。俺は店で休んどく」

「わかりました」

 大藪が助手席から降り、ドアを閉めた後どんどんと裏拳でウィンドーを叩いた。

窓を降ろす。

「今晩からな、女連れて温泉なんや。はよ集めてこい。頼んだで」

 片手をひらひらさせて喫茶店の扉をくぐって行った。姿が消えてから、へいへいと返事をして車を走らせた。



 セルシオを路上に止め車外に出た。既に五軒の店からみかじめ料を集め終わっていた。今日の予定では後三件。道が細くなるため、歩いて回収した方が早い。

 繁華街のネオンが灯りだしていた。繁華街と言っても、大通りと、東に一本入った道路沿いに雑居ビルが並んでいるだけだ。西側の通りには数年前に閉店した家屋付きの店舗や、バブル崩壊の波を諸にかぶった廃屋に近い雑居ビルが並んでいる。パワーのない小さな町だ。バブル期はそんな街でも強烈な活力剤をかまされたかのように活気があった。張真組の縄張りも潤っていた。縄張り内の店から徴収するみかじめ料だけでも相当な額に上ったそうだ。しかし今は見る影もない。

 現金の入ったサイドバックを抱え、開店の準備を始めているラウンジの扉をくぐった。床掃除をしていた男が顔をあげる。目黒を見ると一瞬真顔になり、口元に笑みを取り戻した。

「おはようさん」と目黒は時間違いな言葉を投げる。

「今日はおひとりですか」

 男は箒を壁に立て掛け、カウンターの中で手を洗うと、冷蔵庫からビールを取り出した。

「なんや、一人じゃ悪いみたいな言い方やな」

「いえ。そういう意味じゃありませんよ」と言ってグラスにビールを注ぎ、目黒の前に押しやった。受け取ると一気に煽る。乾いた喉に苦味が沁み渡った。

「何か困ったことは」

 店内を見回した。カウンターのほかにテーブル席が五つばかりの小さな店だ。バブル崩壊後も生き抜けているのは、目の前にいるオーナーの手腕によるらしい。兄貴に連れられて、夜に何度か来たことがある。いつもそれなりに賑わっていた。女の子も若いのが揃っていた。それでも客の入りはピーク時の半分にも満たないという。

「大丈夫です。しけた店ですからね。怖い人も寄り付きませんよ」

 縄張り内の店からみかじめ料を取る代わりに、張真組はチンピラやほかの事務所のヤクザから店を守ってやる。大きな店には用心棒として構成員が出張ることもある。

 目黒は指先でカウンターの上をトントンと叩いた。あと二軒。店を回らなければならない。今頃喫茶店で油を売っている大藪がイラついているだろう。用事があるなら手分けして回ってくれてもよさそうなものだが。

 バーテンダーは目黒の様子に気づいたのか、気づかないのか、カウンターの上をフキンできれいに拭いた。

「悪いけど、急いでるんや」

「あぁ。すいません」

 バーテンダーはようやくカウンター奥のレジに近づくと、こちらに背中を向けて札を数え始めた。用意しておけよと腹の中で毒づく。みかじめ料の支払いを渋っているのがありありとわかった。確かにもめごとが減れば、店側とすれば支払いの価値がなくなる。減額を申し出てくる店も、少なくはない。

 バーテンダーは目黒に茶封筒を差し出した。中を改める。定められた額が入っていた。

「ありがとさん」

「目黒さん。今度大藪さんに話があるって言っといてくれませんか」

「なんの」

「ちょっとこのところ売り上げも落ちてますし、相談したいことがありまして」

 目黒はバーテンダーの視線を捉えた。ほとんど抵抗せずにバーテンダーは目をそらせた。ほんとうは今日、交渉したかったのだろう。目黒では交渉しても仕方がないと踏んだのだ。それが腹立たしかったが仕方がない。まだ使い走りの地位を出ていない。

「わかった。伝えとくよ」

 店を出た。まだ時間が早いため人通りは少ない。都心から少し離れたこの地域では、会社帰りのサラリーマンで通りがにぎわうのは夜の八時を回ったあたりからだ。

 繁華街と言っても客引きが数人店の前に立っているぐらいで、怪しげな人間は皆無に近い。ミナミに出れば、麻薬のバイヤーなど掃いて捨てるほどいる。暴力団の構成員だけではなく、中国人や東南アジア系のバイヤーが、サラリーマンや高校生を相手に売買しているのだ。LSDや覚醒剤、大麻やコカイン。ソフトドラッグであれば煙草を買うよりも気楽に買うことができる。目黒も、高校を中退してやることもなく街をうろついていた頃、バイヤーから何度か購入したことがあった。

 暴力団員になれば、少なからず麻薬に携わるものと思い込んでいたが、張真組が麻薬を扱わないことに対して、別に反対もしない。麻薬を扱わずに極道が張れるならそれでいい。しかし上納金も収められない状況にあるのであれば、方向転換が必要ではないだろうか――。

 ポケットで携帯電話が震えた。大藪からの電話だった。痺れが切れたのだ。

「はい。目黒です」

 兄貴の不機嫌そうな声が携帯から流れる。内心、舌打ちをして、「すいません。もう少し待ってください」と返すと電話を切った。

 大藪の女とは一度会ったことがある。ホステスをしていて、少しきつい顔をした美人だった。兄貴はえらく彼女に入れ込んでいる。女は夜の相性で決めるもんやと鼻の下をのばしていた。手をもぞもぞさせて皮膚感覚がなじむのだと自慢していた。

 その女と今晩から旅行に出かけるのだ。大藪ほどの身分になれば、ある程度自由ができる。それまでの辛抱だ。

 理香のことを考えた。あれから何度も携帯に電話をかけている。電源を入れていないのか、呼び出し音が鳴ることさえない。転送される留守番サービスセンターに、すぐに電話をくれと二回吹き込んでいた。

 あの夜、校庭で出会った目出し帽の男達は何者だったのだろうか。理香はちゃんと説明すると言っていたが、期待できそうにない。知り合って三ヶ月経つが未だにわからないところの多い女だ。きれいな女ほど気まぐれなもんだと大藪は言っていたが、理香はまさにそれだ。

 あきらめて携帯を閉じる。閉じると同時に携帯がブルブルと震えた。慌てて通話ボタンを押し、耳に押し当てた。

《お兄ちゃん》

 思わず眉をしかめる。電話の相手は好美だった。

「なんや。今忙しいいんや」

《どうして覗きに来るんだったら事前に連絡くれなかったの!》

 おそらく腰に手をあて、飛び掛る寸前の猫みたいな姿勢で携帯を耳に押し当てている。

「覗きにって、どこをや」

《風光学園に決まってるじゃない。石塚さんに会いに来たんでしょ。来るんなら来るって言ってよ》

「休みやったんやろ」

《知ってれば返上したわよ》

「なんでや」

《会いたいからよ》

 臆面もなく口にする。好美が言うと、色気を感じない。小さい頃からひとつ屋根の下で暮らしていた。好美が小学生の間は一緒に風呂にも入っていた。色気なんて感じる余地はない。と思いながらもすぐに返す言葉が出てこなかった。

《だって、電話してもとらないやん》

「何か用事でもあるんか」

《ないわよ!》

「なんやそれ」

 好美は小学生の頃、よく男子と喧嘩をしていた。快活でかわいらしい顔をしていたから、よく男子からちょっかいをかけられ、まっすぐな性格の好美は、それを真に受けて喧嘩になるのだ。

正義感も強かったから、いじめられている子がいれば割って入り、相手が男だろうが、人数が多かろうが喧嘩をしていた。

 下校時に公園で喧嘩をしている好美を見かけたことは、一度や二度ではない。たいてい、相手の方が体格の大きな男子で、人数も多かったから、目黒は遠慮なく加勢して蹴散らした。特に風光学園のことや、生まれ育った環境に対して中傷されたときは、容赦なくぶちのめしてやった。風光学園の生徒は家族も同然だった。

「切るぞ」

《今度、来るときは絶対連絡してよね!》

 目黒が電話を切る前に通話は切れていた。お兄ちゃんという言葉が耳に残る。俺はヤクザだ。係り合いにならない方がいい。切れた携帯に向かってそう思う。

 また、携帯に着信があった。ディスプレイに総務部長の香取の名前が浮かんでいた。香取が携帯に電話をかけてくることは珍しい。何かあったのかと緊張する。

「はい。目黒です」

《御苦労。今、大丈夫か》

 弟分に気を使ってくれるのは香取新平ぐらいだった。目黒は思わず頭を下げる。

「はい。回収中ですが大丈夫です」と応え、腕時計に目を落とす。次の店は目の前だった。

《一昨日、タイムカプセルを掘り返す話があっただろう。あの件だが、状況が変わった。今日掘り返すことになった》

 香取から直々に電話がかかってくるとは思わなかった。この仕事の主導権は多門慎治にあると思っていたからだ。

「わかりました。時間は何時ですか」

《おまえは来るな》

「は?」

《おまえは来なくていい》

「なぜですか?」

《人数が多いと目立つ》

 この前、事務所で説明を聞かされた若い衆は四人だった。香取か多門がお目付け役で同行するにしても、それほどの人数ではない。それに、一度呼び出しておいて、それはない。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。俺、そういうの得意ですよ。力ありますし。外すのなら別の人間にしてください」

《だめだ》

「どうして俺が外されるんですか?」

 強い口調になっていた。たとえ地面を掘り返す仕事であろうと、はずされるのはごめんだった。軽んじられている。必要とされていない。そう思うことが一番つらかった。

《つまらない仕事だ》

 香取の声が沈んだ。確かに、意味のわからない仕事ではある。しかしナンバー二の香取や、三番手の慎治が関わっている仕事だ。張真組として重要なしのぎであるはずだ。

「でも、兄貴!」

《命令だ。わかったな》

 電話は一方的に切られていた。

「なんだよ。くそ!」

 目黒は携帯を地面にたたきつけた。硬い音をたてて部品が散らばる。納得がいかなかった。人数が足りていることが理由であるわけがない。これが香取からの電話ではなく、多門からの指示であれば理解はできる。しかし香取が仕切っているのなら、なぜ目黒ではなく梅木や佐久間を外さないのか。

路上に散らばった壊れた携帯を睨みつけ、悔しさと怒りが膨らんだ。

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