第9話
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大村優斗は水槽の上に店長が撮影用に作ったボックスを設置した。上の部分はガラスがはめ込まれ、内側三方にはアルミホイルが貼られている。ガラスの上からストロボを焚くと、アルミホイルが光を反射して水槽全体に光が回る。
水槽から二メートルほど離れた位置に三脚をセットして、一眼レフのデジタルカメラを取り付ける。生活費を切り詰めて購入したニコンD60。60mmのマイクロレンズを取り付けてある。
店長は今でも水槽の撮影にはフィルムカメラを使って、ISO400のカラーリバーサルフィルムを、マニュアルでISO800にして撮影する。フィルム撮影に比べてデジタルカメラでの撮影は何度でも撮り直しがきくため楽なのだが、緊張感が出ないという理由で使わないのだ。
小さなモニターを覗きながら感度とホワイトバランスを調整する。水槽のバックスクリーンに黒を使用しているため露出を少しマイナス側にいじる。
水槽の中では投入したアフリカンランプアイが八十匹、青い目を輝かせて優雅に泳いでいた。
パイロットフィッシュとして泳がせていたテトラは全て別の水槽に移してある。アフリカンランプアイは臆病な魚だから、他種と混泳させると落ち着くのに時間がかかるからだ。今でも優斗の姿に怯え、すぐに水草の陰に隠れようとする。優斗は息を殺してモニターを覗き込んだまま、魚が落ち着くのを待った。
しばらくすると、魚たちは同調して、狭い水槽の中で一緒にダンスを踊り出す。
青い目の群れが水槽の中を右へ、左へとゆったりと移動し始めた。タイミングを見計らってシャッターを押す。水槽の上から照らされるストロボに驚き、魚たちがさっと水草に隠れる。
しばらく待ってもう一度。
全部で八枚の撮影を終えたとき、店のシャッターを外から叩く音が聞こえた。ノックの音に続きシャッターが外から開かれた。外光が店内に侵入してきた。シャッターをくぐり、ひとりの男が入ってきた。
「お帰りなさい」
優斗が声をかけると、男は口髭に覆われた口元を吊り上げて微笑みを見せた。
コットンサテンのジャケットを羽織り、カットソーのTシャツ、色褪せたジーンズを履いている。もう四十歳を幾つか越えているが、体型もスリムに保っている。店長の斉藤さんが、東南アジアの採集旅行から帰ってきたのだ。
「撮影中だったのかい」
今日は定休日だった。撮影のために店を借りていた。
「えぇ。でも、だいたい終わりましたから」
どれどれと言って、店長は優斗の水槽を覗き込んだ。
「グロッソがもう少しかかるね」
「えぇ。でもロタラがいい感じで。グロッソがうまくいってないのも、溶岩石の回りですから、それなりに雰囲気でていますし」
「確かに違和感はないな」
店長は腰をかがめ顎鬚をしごきながら水槽を確認する。
「この後、ロタラに手を入れるつもりですけど、どれくらい剪定しようか迷っているんです」
「なるほど。それで保険として撮影していたわけだ」
剪定した後、二日後にもう一度撮影する。それが本番のつもりだったが、水草水槽の明日はわからない。どれだけイメージを抱けていても出来上がりが違うことが多々ある。今回は最悪の事態を想定しての撮影だった。
「でも、なかなかいいよ」
「玉城さんにエキノドルスは不要だと言われました」
店長は白い歯を見せて笑った。
「彼ならそう言うだろうな。エキノドルスに鋏を入れるなんて、って怒ってなかったかい」
「えぇ、信じられないって顔してました」
店長が重ねて笑う。
「大村君。荷物を降ろすのを手伝ってくれ」
店長の背中を追って外に出た。道路に幌付きの軽トラックが停まっていた。荷台から発泡スチロールに入ったケースを降ろしていく。中身を想像してわくわくした。
店長は年に二回ほど、長期休暇を取って東南アジアや南米に出かける。目的は川や湖に自生している水草を見に行くこと。バイヤーと交渉して水草を購入したり、自分の足で現地を歩き、気に入った物や、希少種を見つけては採集して帰ってくる。
今回はインドから香港、インドネシア、パプアニューギニアを三週間かけて回ってきたはずだ。そのついでに購入した水草が軽トラックの荷台に積まれているのだ。
発泡スチロールのケースには輸入が禁止されている特定外来種に該当しないことを証明した検閲の印が押されている。それらを全て店の中に運び入れると、ガムテープをはがして蓋を開けていく。一つ一つ丁寧にビニールに収められた水草が出てきた。ほとんどがサトイモ科のクリプトコリネ属の水草だった。それほど光がなくても育つ耐陰性の植物で、エキノドルスと同じく、この種だけを集める収集家もいる人気の水草だ。
「たくさんありますね」
「あぁ。これでも随分持ち帰るのをあきらめたんだけどね。とりあえず、大磯の水槽に入れておこう。飛行機に積み込むのに、随分農薬をかけてあるから、当分は魚とは一緒にできないしね」
袋からクリプトコリネを取り出す。ブラウングリーンの細い葉を、存分に広げた個体だった。ほかにも矮小で葉が縮れた種類や、鮮やかなライトグリーンのものもある。優斗でも名前がわからないものが多かった。
「いいですね」
「うん。ワイルドはいい。勢いがある」
束にしたまま、大礒を敷いた水槽に差していく。
「当分は毎日換水だな」
「何日ぐらいすれば魚と一緒にできますかね」
「そうだな。十日もすれば魚は大丈夫だけど、エビは一か月以上待った方がいい。それまでコケを出したくないから、施肥は控えめにしておこう」
「わかりました」
店長がふっと手を止めた。
「留守の間に、何か変わったことは」
と聞かれて、気分が沈んだ。水槽の撮影をすることで忘れようとしていた理香のことが脳裏をよぎる。店長のグレーの瞳に、心の動揺が見透かされそうで目をそらせた。
「別にありません」
「そうか」
それからしばらく、水草を水槽に移す作業を続けながら、店長の土産話を聞いて過ごした。しかし、一度思い出してしまった理香のことが頭から離れず、会話に集中できなかった。
「何だか上の空だね」
「すいません」
「明日は朝からずっと店に詰めるから、なんなら休んでくれてもいいよ」
「あ、でも」
「三週間留守番してくれたからね、有給休暇にするよ」
「いえ、いいんです。明日も出勤します」
その方が楽だと思った。休暇を取っても、どうせ悶々として一日を過ごすことになる。目的を持って体を動かしている方が気分もまぎれる。
「店長」
「うん?」
「ひとつ聞いていいですか」
店長は濾過槽にピートモスを入れていた手を止めた。
「あの絵」
と言って大村は壁に掛けられたターナの絵を指差した。店長が雑誌の付録としてついていたポスターを額縁に入れているターナの機関車の絵だ。
雨の鉄橋を疾走する蒸気機関車の絵。ターナーは雨にけぶる空を黄色で表し、大地も黄色、鉄橋と機関車は黒で表現している。全ての造形物が光りに飲み込まれ、機関車はもちろんのこと、光や空気までもが躍動している印象的な絵だ。しかし優斗には荒涼とした寂しさを感じさせる絵だった。
「店長はどうしてあの絵が好きなんですか」
店長は絵に目を移し、じっと眺めた。
「そうだな……なぜかな」
「あの絵以外のターナの作品も好きなんですよね」
「好きだよ。どれも好きだ。しかしなぜかと聞かれるとなぁ」
緑色を使わない画家。ヤシの葉を黄色で描き友人に注意されたこともある画家の作品だ。なぜ水草を売る店長がそんな彼の絵を好きなのだろうか。ずっと疑問に思ってきたことだった。
「そうだなぁー」店長は腕を組み、首をかしげた。
「この絵に限って言うと躍動感を感じさせる水煙の雰囲気とか、延々と広がる大地……。世界観、かなぁ。でもあれだな。いくら理由を並べてもそれは全部後付の理屈だな」
「後付の理屈?」
「そう。好きになったときには、なぜ好きなのかなんて考えないし、好きなものに好きだという理由なんていらないだろう。それでいいんじゃないのかな」
店長は優斗に向き直り、視線が合った。思わず目を伏せ、作業に戻る。
「あまり理由とか、理屈を考え出すと、つまらないしね」
「理屈を考える事は悪いことですか」
「そんなことはない。ただ、自分の気持ちを理屈で整理しようとすると、どうしてもつまらない結果に結びつく。好きか嫌いかなんて論理的に考えることではないからね。頭で考えるより、感じたものの方が魅力的だ。水槽だってそうだろう。水草を四対六の黄金比に配置するとか、出来上がりを想定して水草の色合いを考えるとか、そういうことも大事だけど、結局最後は直感だ。その人の気持ちや気配りでレイアウトの良し悪しは決まるものだ」
「好きなものは、好き……ですか」
優斗は店長の言葉を咀嚼しながら、梱包を解く作業に戻った。
理香のことを考える。彼女、つまり川上幸子とは小学校二年生で初めて同じクラスになった。おとなしく控えめな子だった。優斗とは読書という共通の趣味があり、本の貸し借りをしたり、本の内容について話をすることがあった。色が黒くて、痩せていて、決して美しい容姿ではなかったけど、そんなことは少しも気にしていなかった。
二人でいると楽しかった。そのときは自覚していなかったけど、彼女のことが好きだったんだなと今では思う。
小学校六年生で彼女は苛めに遭った。優斗は気にしながらも見て見ぬ振りをしていた。彼女を助ける事で、自分も苛めの対象になる事が怖かったからだ。ただ、クラスメイトと一緒になって彼女を苛めるような事はしなかったが、彼女にとっては同じように見えていたのかもしれない。
――あの日のことが思い出される。
優斗は自宅で夕食をとっていた。まだ十一月なのに、少し肌寒くて自宅の居間には炬燵が出ていた。カセットコンロの上では土鍋がぐつぐつと暖かい音を立てていた。
父の大好物のうどんすきだったが、食卓にはまだ父の姿はなく、テレビではその年のプロ野球を振り返る番組が放送されていた。
先に食べましょうと母が言い、優斗はうどんすきの具の中で一番好きながんもどきを頬張った。あふれ出た昆布出汁が口の中に広がる。くたくたに煮えた白菜、しいたけ、鶏肉を頬張り、途中から暑くなってきてコタツから足を出した。
ガラリと居間の引き戸が開いて父が立っていた。パチンコ屋のビニール袋を提げ、薄いコートを引っ掛けている。廊下の板の間を踏みしめる足は裸足だった。父はどんなに寒い日でも靴下を履かない。
母がお帰りなさいと声をかけ、父がただいまと応える。優斗も熱々の鶏肉を口に放り込んだ状態でもごもごと声を出した。
父は「今日はうどんすきか」と言い、手も洗わずに腰を下ろし、さっそく箸を取ると豪快に鍋の中身を掴み上げた。
「またパチンコですか」
「うん。勝った。大漁だ」
と母の問いかけに応え、大口を開けて白菜を口に放り込む。父は何でもうまそうに食べる。とくに母が作った食事にケチをつける父を、いままでに見たことはない。
母は心の広い人だ。自己中心的で破天荒な父と結婚し、文句も言わず主婦業を貫き通している。ただときおり、わけのわからない料理を作ることがあった。
一度、大量のゴーヤを買ってきて、見よう見まねでゴーヤチャンプルを作った。酷く苦くて優斗は一口しか食べられなかったが、父は目を白黒させながら山盛りのゴーヤチャンプルを平らげていた。
後で気づいた事だけど、二人は珍しく喧嘩をしていたらしい。母は腹いせで苦い料理を作り、それを平らげる事で父が謝ったのだ。
父はテレビの番組に気がついて、巨人軍OBの解説者に鼻を鳴らした。巨人のことはまるでゴキブリのように嫌っている。無言でテレビのリモコンを取り上げ、チャンネルを変えた。
「優斗」
テレビの中で若手の漫才コンビが歌を歌っていた。父はうどんすきを二、三杯掻き込み、小鉢の中の汁を飲み干すと優斗の名前を呼んだ。振り返ると父の視線が優斗を正面から捕らえていた。
「今日、学校が終わった後、どこにいた」
「どこって……まっすぐ帰ってきたけど」
「何時ごろだ」
「四時ごろ」
父は母に視線を移した。母が頷く。
「お前の同級生が公園にいた」
「え?」
父の言葉に驚いた。優斗の同級生の顔など父は知らないはずだ。
「東山小学校の北側の公園だ。おそらく、お前のクラス全員が集まっていた」
冷たいものを感じた。ぐつぐつ煮える鍋を目にしていながら、すっと頭から血が下がる思いだった。
「お前は誘われなかったのか」
授業が終わった後、クラスの中心人物であるシンジがみんなを集めていることには気が付いていた。優斗はそれに気づかない振りをして教室を出てきた。おそらく優斗以外、全てのクラスメイトは残っていたと思う。
一人教室を出てきたのは、シンジが何をしようとしているのか気づいたからだ。
あの日、クラス対抗のドッジボール大会があった。優斗のクラスは三組中一勝一敗の二位だった。決勝戦で一組に敗れたのだ。最後までコートに残っていたのは川上幸子だった。
「逃げ回っていたら勝てへんやろ! ボール取れよ!」
シンジが怒鳴り、何人かが唱和して幸子にプレッシャーを与えた。幸子は真っ青な顔をして逃げ回っていたが、コートの端に追い込まれ、胸元に飛んできたボールを弾いてアウトになった。
「あいつがもう少しがんばってれば、勝てたんや!」
理不尽なシンジの意見にクラスメイトは同調し、一緒になって幸子を責めていた。
「罰や。罰を与えなあかん」
ドッチボール大会が終わった後、シンジが取り巻きに声をかけていた。だから逃げた。係わり合いになりたくなかった。参加しなければ自分が苛められる事になるかもしれないと思ったが、直接声をかけられていなければどうにか言い逃れできるだろうと考えた。
「お前のクラスの連中は、よってたかって一人の女の子を苛めていた」
やっぱり予想通りの状態だった。
「逃げたのか」
何から? ととぼける事などできなかった。
「お前は知っていたのか」
首を振るのが精一杯だった。父の視線が痛かった。痛いけど逸らす事ができなかった。逸らせば、罪悪感が声になってあふれ出すような気がした。
「優斗。覚えておけ」
また言うんだなと思った。
予想通り父は、「女を苛める奴は人間のくずだ」と言った。そして、「それを見過ごす人間も、くずだ」と付け加えた。
「知らなかったんだ」
と口にした。耐えられなくなって父の視線から逃れた。
湯気を上げる鍋が視界の中で揺れていた。
母がまあひどいことをするのね、それでどうしたのと問い、父が全員蹴散らしてやったと答えるのをぼんやりと聞いていた。
見過ごす人間はくずだと言った父の言葉が今でも頭に残っていた。自分が災いを恐れ、逃げ出したことは否定しようのない事実だった。
自分が救えなかった女の子が、沢木理香として優斗の前に現れ、そして恋人同士になった。
彼女は整形手術を受け美貌を手に入れた。そしてちやほやされることで、付き合った男を翻弄することで、彼女はこれまでの人生に対する復讐をしている。
優斗に近づいたのも復讐だとすれば、誤解を解きたいと思った。日和見を決め込んでいたことを謝罪したかった。
僕はただ、弱いだけだったのだと、謝りたかった。
それに、やっぱり彼女の事が好きだった――。
「店長」
二人であらかたクリプトコリネを水槽の大磯にさし終えていた。
「やっぱり明日、お休みいただいてもいいですか」
「あぁ、構わないよ。気にせず休んでくれ」
店長は口髭をゆがめて、にっと笑った。
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