第8話
⒗
「彼女はそうでもあるが、そうではない」
川上は禅問答のようなセリフを吐いたあと、立ち尽くす理香と、怒りと混乱に今にも爆発しそうな黄色頭を残し、優斗の腕を掴むと校舎の近くまで引きずった。そして、「彼女は川上幸子。私の妹だ」と言った。
どこか遠くで犬が吠えていた。ざっと風が校舎の脇を駆け抜けていき、目出し帽の中と外気に接している部分との温度差を強く感じた。そんなことを意識しながら、優斗は川上の目をじっと見返した。
背後から理香がいきり立つ黄色頭を宥める声が聞こえてくる。
「なんですか?」
ものすごく間の抜けた質問をしていた。川上は同じセリフをもう一度繰り返すと、言い争う理香と黄色頭に向かって、「幸子、こっちに来なさい」と言った。
「ちょっと待て」
黄色頭が理香の腕を掴んだ。
「いったいなんだ。説明しろ」
「申し訳ないが、説明している時間はなさそうだ」
川上が応える。用務員室のほうから懐中電灯の明かりが近づいてくる。
「じゃぁ、理香は俺が連れて帰る」
黄色頭の手に握られたシャベルがぐいっと持ち上がった。
「浩一」理香が黄色頭を見上げていた。「おねがい。後でちゃんと説明するから」
理香の声は上ずっていた。心配になるぐらい動揺しているのがわかった。黄色頭は唸り声を吐き出したが、それでもゆっくりと理香の手を離した。
黄色頭を残し理香が近づいてきた。唇を噛んでいた。優斗とは目を合わせようとしなかった。
「とにかく、今日は退散しよう」
川上の合図とともに侵入した校舎の反対側に向かって走った。理香も大人しく後を走る。優斗は最後尾を走りながら振り返ると、黄色頭がまだ立っていた。
大きなシルエット。暗くて顔も判別できなかったが、視線が合ったような気がした。
無言で走り、フェンスを越えるとハイエースに乗り込んだ。川上が運転席に座り、優斗は助手席に、理香は後部座席に納まった。理香は一言も口を開かなかった。優斗も助手席で窓の外に視線を送っていた。
まだ状況が把握できずに一生懸命考えをめぐらせていたけど、突きつけられた事実を脳みそはうまく処理することができずに、同じことを何度も反芻していた。
車は十分も走らないうちに停車した。電動シャッターが軋み音とともに上がり、川上は駐車場の中に車を乗り入れた。駐車場は車二台分のスペースがあり、コンクリートで囲まれている。
天井に煌々と蛍光灯がついていて、シャッターと反対側に扉がついていた。川上は何も言わずに車を降りる。理香も後部座席から降りた。優斗も後に続く。
駐車場の中には電動自転車が一台、スチールラックが置かれていて、バケツや洗車キットが並べられている。川上は駐車場の奥にある扉を開け、中に入っていった。優斗は息苦しさを覚えて、目出し帽を被っていたことを思い出し、それを脱いだ。
理香が優斗の脇を通り過ぎた。横顔が強張っていた。背中を向けた理香に、声をかけるタイミングを逸し、二人の背中を追いかけた。
扉を潜ると階段をのぼり、外に出る事ができた。夜の闇に大木が影を落としている。学校の校庭で感じた木々の匂いを、ここでも感じることができた。少し先に日本家屋が見える。そこは邸宅の庭だった。二メートルほどの幅で屋根付の通路が整備されていて、その先が玄関になっている。庭木の姿が夜の中に浮かび上がっていた。
どれくらいの規模があるのだろうか。住宅の扉も二枚扉の引き戸になっていて、古いながらも重厚な雰囲気があった。
「ここは……」
「私の家だ」と川上が言った。「もちろん、妹の家でもある」
理香の顔を見た。彼女は視線を避けるように俯いた。
「私は住んでないわ。住んでいるのは兄だけ」
玄関を入ると優斗の住むアパートのリビングほどもある土間があって、正面に二階へと上がる階段が出迎えてくれる。家の中はひんやりとしていて、微かにお香を焚いたような匂いがした。
靴を脱ぐ理香を見ていた。川上は自分の妹だと言った。そして彼女のことを幸子と呼んだ。
――川上幸子
彼女のことはもちろん覚えている。小学校の同級生で、クラス全員にいじめられていた女の子だ。
しかし、どうして理香が川上幸子なんだ。
理香と幸子は似ても似つかない。同じ人物だなんて信じられなかった。どうしてそうなる。後頭葉で咀嚼できない情報を前頭葉が門残払いを決め込んだ。ちょっと待ってくれ。冷静に考えよう。自分の知っている沢木理香のプロフィールを思い返す。
隣町のフィットネスクラブの受付をしている。小動物が好きで、優斗がプレゼントしたアベ二ーパファーを自宅でかわいがっている。いや、家に行ったことはないから、おそらくかわいがっているはずだ。読書が好きで、そして、少なくとも優斗以外に男友達が一人はいる。たぶん男友達。であってほしい。
では彼女はどこで生まれたのだろうか?
広島の短大を卒業したと言っていたが、以前から広島に住んでいたのだろうか。どんな幼年期を過ごし、小学校や中学校ではどんな習い事をして、友達はどれだけいて……。
理香の過去をほとんど知らない自分に、改めて気付かされた。付き合い始めて半年が経過した恋人として、これは異常なことではないだろうか。自分のことを話したがらない人はたくさんいるだろうけど、あまりにも彼女は語ろうとせず、秘密主義だ。
突然、目の下が痙攣を起こした。口を大きくあけたり閉じたりしてみるが、治まらない。笑ったような顔になっているのかもしれない。いや、引き付けを起こした鼠のような顔になっているのかもしれない。頬に手を触れ、空気を何度も吸い込み、気持を落ち着かせる。ずっと目出し帽を被っていたからだろうか。自分の顔が干し柿になってしまったかのような錯覚を覚えた。
巨大なリビングに案内され、川上がキッチンでお茶の準備をしている。リビングの巨大さと、調度品の豪華さに目を奪われ、立ったままぐるりを見渡した。理香は早々にソファに腰を降ろし、自分の足元に視線を落としている。
「好きな場所に座ってくれ」
川上はマグカップをガラステーブルの上に三つ並べた。優斗は理香の横に腰を降ろした。わずかに沈むソファに、理香が俯いたまま視線を移動させた。
「どうしてあんなところにいたのよ」
口を開いたのは理香だった。川上に投げかけられた言葉だった。語尾が少し震えていた。
「幸子宛に東山小学校からタイムカプセルを掘り返すとの案内状が送られてきたんだ」
「だから掘り返しに行ったわけ」
「そうだ」
「どうして?」
「その方がいいと思ったからだ」
「お節介」
川上は無言でコーヒーを啜る。しばらく沈黙が続き、我慢できなくなった優斗は口を開いた。
「僕にはまったく状況が掴めていません。説明してもらえませんか」
と川上に言い、理香に視線を移した。
理香が唇を噛み、川上が口を開いた。
「彼女は川上幸子。私の妹で、そして君の同級生だ」
川上幸子とは東山小学校の二年生と六年生で同じクラスになった。
彼女は浅黒い肌をしていて、湿ったような髪をしていた。うっすらと鼻の下に産毛が生えていて、歯並びも悪かった。
優斗の記憶の中にある彼女はいつも一人ぼっちだった。休み時間も一人で絵を描いたり、本を読んだりして過ごしていた。
六年生の二学期のときに机を並べた事がある。他の同級生から、「大村、ばば引いたな」と同情された。
同情されるほど、嫌だったわけではない。でも、その同級生だけに聞こえるように、「ほんと最悪だよ」と応えていた。
彼女と仲良くすれば自分もみんなに苛められる事を優斗は十分理解していた。だから教室で二人っきりになっても、彼女に話しかける事はしなかった。どこでだれの目が光っているのかわからないからだ。
ソファに並んで座る理香の方を見ることができなかった。川上幸子の容姿と沢木理香のそれはあまりにも違いすぎた。蝶になる前の姿がサナギや芋虫だと知った子供よりも、優とは戸惑っていた。
「全部話す気なの」
理香の瞳が揺れていた。
「この状況で話さないという選択肢があるのか」
感情を含まず応えた川上の言葉が、随分意地悪な返事に聞こえ、彼女が川上幸子と呼ばれていた頃を思い出した。彼女はいつも理不尽な言動に脅かされ、今のように瞳を潤ませじっと耐えていた。観念したように理香が俯く。
「君も知っているとおり、小学生の頃、幸子は苛めを受けていた」
川上の視線が、優斗に突き刺さったように感じたのは、優斗自身の罪悪感のためだと理解していた。彼の口調は穏やかだった。
「妹はその原因を自分の容姿にあると考えていた。まぁ、お世辞にも妹は美しいとは言えなかった。私は母親似でね、幸子は父親似だった」
川上は端正な顔立ちをしている。今の理香と兄妹と言われればしっくりするが、幸子とは似ても似つかない。
「妹は小学校を卒業するとき決意したんだ。過去の自分を捨て、生まれ変わるとね。彼女が選んだ手段は整形手術だった。しかしまだ十二歳の娘の整形を、両親は認めなかった。まぁ、当然の事だと思うが。ただ苛めにあっていたことは両親も知っていたからね、とりあえず幸子を私立の中学校に進学させる事にしたんだ。環境が変われば苛めもなくなるだろうと思ったわけだ。中学に進学した幸子は、以前より少し明るくなった。だから私も安心していたんだ」
川上は高校を卒業すると東京の大学に通うため、親元を離れたと説明した。
「ところが幸子が中学三年生とき、両親が事故で他界した。私は大学を中退し、大阪に戻ってきた。両親が十分な財産を残してくれたからね、生活に苦労はなかった。幸子は高校の三年間、この家から通った。大学も自宅から通える範囲で選ぶだろうと思っていた。しかし幸子は広島の短大を受験し、そちらに進学した。私と同じで勉強はできたからね、大学は選び放題のはずだったが、彼女は自宅から離れることを望んだんだ。そして妹からの連絡が途絶えた。私も、あえて調べはしなかった」
短大に進学した彼女は広島で整形手術を受けた。そして彼女は川上幸子を捨て、沢木理香となってこの町に戻ってきた。
「幸子からこの町に戻ってくると連絡があったのは、一年ほど前のことだ。自宅に戻ってくる事を進めたが、彼女は一人暮らしがしたいと言い張った。まぁ、もう大人だからね。それもいいだろうと思った。しかし再会した時は驚いたよ。もし何も聞かされずに会っていれば、幸子だと気づかなかったかもしれない。美貌を手に入れた幸子は性格も随分変わった。何せ妹の影には常に数人の男の気配があったからね。以前からはとても考えられないようなことだ。大村優斗くん。君もその影の一人だ」
「なんてこと言うのよ」
理香が顔をゆがめた。
「事実だろう」
口の中に、石ころを幾つも詰められたような気分だった。これ以上事実を突き付けられることが怖かった。逃げ出したかった。
理香は顔を伏せている。流れる髪が彼女の横顔を隠していた。ソファについた手の指が、力なく握りしめられている。
「事実よ」と理香がつぶやいた。
「でも、それって悪いことなの。だって、私は死ぬほど苦しんだのよ。東山小学校は私にとって地獄だった。中学の時も、高校の時も、全然楽しくなかった。この街が大嫌いだった。誰も私のことなんか見向きもしなかった。それがどう? 整形したとたん、みんな掌を返すように態度を変えたわ。男も女も……。私はつらかった過去から決別したかっただけ。私は何も悪いことしてない。ただきれいになっただけ。変わったのは周りであって、私ではない」
顔をあげた理香の頬に涙が流れていた。手でぬぐい去ることもせず、ただ、涙を流し続けていた。
「カプセルには私の過去が入っているの。捨てたはずの過去があそこには残っているの。絶対に誰にも見られたくない。だから、掘り返される前に処分するつもりだったの」
あとは静かに泣き声が流れた。優斗は身を固くして聞いていた。
「幻滅した?」
理香が優斗に問いかけていた。
「私が川上幸子だと知って」
ショックで言葉を失っていた。口の中にたまった石ころを飲みこもうとして果たせず、小さく首を振るのが精いっぱいだった。
「大村優斗くん」
川上に呼ばれて顔を上げた。
「幸子の本質は別のところにある。それをわかってやって欲しい」
ソファの横でうな垂れる理香にかける言葉もなく、今は何も考える気力がなかった。とにかく時間が欲しかった。
「では、次の議題に入る」と川上が言った。
「幸子。一緒にいた男は。目黒浩一くんだな。彼に頼んでタイムカプセルを掘り出すつもりだったんだな」
川上の声はフィルターにかかったように遠くで聞こえていた。
「どうして彼の名前を知っているのよ」
「彼は張真組の構成員だ」
「調べたの?」
「幸子が付き合っている男はすべて調べてある。彼は一番調べやすかった。兄として当然のことだ」
「最低……」
「よく彼が同意したな。暴力団が小学校に不法侵入して捕まりでもしたら、笑い者になる」
「彼、私の事が好きだから。それに張真組もタイムカプセルを掘り出すんだって言ってたし」
「なんだって」
ぼんやりと聞いていたが、川上の鋭い声に微かに現実に呼び戻された。
「いつ?」
「確か、明後日って」
川上を見た。腕を組み、考え込むように視線をマグカップに落としていた。
「ヤクザがタイムカプセルを掘り返す理由を何か言ってなかったか」
理香が首を振る。
「教えてくれないって」
「目黒浩一君がそう言ったんだな」
理香がもう一度小さくうなずく。
考え込む川上の姿を見ながら、優斗はまた暗く混乱した思いの中に沈んでいった。タイムカプセル、ヤクザ、メグロコウイチ。全部同じ言葉に聞こえる。
「明日の夜、私一人でタイムカプセルを掘り返しに行く」と川上が言った。
好きにしてくださいと言いたかった。もうどうでもいい。
「どうして。もういいよ」
理香が優斗の気持ちを代弁してくれたのかと思った。しかし違う。
「掘り返す理由ができたんだ。君達は学校に近づかないように」
東山小学校には近づきたいとも思わなかった。
⒘
目黒浩一は風光学園に続く坂道を登っていた。車は駅前の駐車場に止めた。あの車で風光学園に乗りつけるわけにはいかないからだ。ついでに駅前のスーパーでマカデミアンナッツ入りのチョコレートを土産に買った。石塚のばあさんの大好物だ。
風光学園への道をたどりながら街並みを見まわす。見慣れた景色だ。何軒かの家が建て替えられ、生垣がフェンスに変わっていたが、壊れかけた側溝の蓋や、張り紙の後の残る電柱は昔のままだった。
前回、学園を訪ねたのは初夏の頃だったから、あれから三か月が経過したことになる。もう少し頻繁に顔を出しなさいとばあさんに怒られるだろう。ばあさんが怒ると目が三角になる。小さい体のくせに、両手を腰に当て睨みつける姿は堂に入っていた。
「浩一! ケツをひっぱたくよ!」
石塚のばあさんがそう怒鳴れば、目黒はいつも両手で尻を庇い一目散に逃げていたものだ。小学生のときだけではなく、中学生になっても石塚のばあさんに怒鳴られるたびに尻を庇う行動は半ば癖になっていた。今でも怒鳴られれば尻をかばうかもしれない。思いだして頬がほころんだ。
目黒はゆっくりと歩きながら携帯電話を取り出した。今朝から二度、沢木理香に電話をかけているが繋がらない。もう一度かける。しかし結果は同じだった。《電源が入っていないか、電波の繋がらないところに――》と無機質な女性の声が流れる。
昨晩、タイムカプセルを掘り返すために理香と小学校の校庭に向かった。
そこで目出し帽を被った男二人と遭遇した。一瞬張真組の連中かと思ったが、そうではなかった。とりあえず二人をぶちのめし、その後ゆっくりと正体を探るつもりだったが、理香が止めに入り、今日は帰ってほしいと懇願された。
理由も言わず付き合わされて、訳も説明せずに帰れという理香に、さすがに怒りを覚えた。
ずいぶん押し問答になったが、最後は理香が目に涙を浮かべ、「お願いだから。ちゃんと後で説明するから」と懇願してきた。
彼女の涙にうなずかざるを得なかった。
あれから理香に電話が繋がらない。彼女との繋がりは携帯電話だけだった。二人で会うようになってから三カ月近くが経っていたが、未だに彼女がどこに住んでいるのか知らなかった。
風光学園の平屋建ての建物が見えた。道路に面して赤茶けた屋根が続き、正門を潜れば小さな校庭がある。その奥に鉄筋コンクリート造三階建ての建物が建っていて、そこで生徒が暮らしている。目黒が小学生のときは五十人以上の子供がその建物で暮らしていた。
この時間なら幼稚園児は帰って来ているはずだが、校内はひっそりとしていた。正門は閉ざされていた。塀伝いに裏側へ回り、裏門のインターホンを押す。直ぐに返答があって、名前を告げるとロックが解除された。
裏門を入り、一番近い入口から建物に入ると右手に保育士室がある。
「浩一くん。いらっしゃい」
来客用のスリッパに履き替えていると声をかけられた。
顔を上げると園長の崎山良子が立っていた。目黒が施設にいた頃はまだ副園長だった。父親が引退し、昨年度から園長に収まっている。もう四十代後半のはずだが、十歳は若く見える。子供の頃よくスカートを捲って怒られたものだ。
「ご無沙汰しています」
丁寧に頭を下げる目黒に、崎山園長は微笑みを投げて寄こした。
目黒の現状を彼女は知っているのだろう。しかし何も問いかけてくることはない。気付かない振りをしてくれている。
「お茶を入れるわ。園長室にいらっしゃい」と言って先に立って歩く。
目黒は後に続いた。風光学園の建物の中は日向の匂いがする。いつ来ても懐かしい匂いだった。
園長室に入ると、部屋の隅に置かれた古ぼけたソファを勧められた。腰を降ろすとくたびれたスプリングが沈み、目黒の巨体を包み込んだ。
少し大きめのスチールデスクと壁一面の本棚。本棚の半分ぐらいは写真立が並び、どの写真の中でも子供たちが笑っている。窓の上に前園長の写真が飾られている。髭を蓄え、柔和な目を細めている。前園長にはずいぶん怒られたが、その分だけかわいがってもくれた。
目黒が中学二年生のとき、同じ学校の三年生と派手に喧嘩をした。相手の鼻をへし折り、全治二週間のけがを負わせた。喧嘩を吹っ掛けてきたのは三年生だった。その三年生も空手を習っていて、以前から目黒に対抗意識を持っていた。
「どっちが強いか決着をつけよう」
数人に囲まれ、校舎の裏に連れて行かれた。空手を喧嘩に使うなと佐門から強く言われていた。それに三年生がつけてきた因縁はあまりにも幼稚だと感じた。だから目黒は受け合わなかった。しかし、一緒に歩いていた友人に三年生が手を出した。許せなかった。怒りは低い沸点を早々に凌駕し、気がついた時には三年生全員が地面に這いつくばりうめき声をあげていた。
学校の先生は、その後の事情聴取の内容も斟酌した上、目黒だけを出席停止処分にした。もちろん三年生全員が自分たちから仕掛けたことを言わずに、全部目黒に罪を押しつけたのだ。目黒と一緒にいた同級生は、仕返しが怖くて目黒を弁護しなかった。
停学処分を受けたその日、園長室に呼ばれ、すべてを正直に話すように言われた。目黒は淡々と事実を伝えた。実のところどうでもよかった。学校では以前から先生に目をつけられていた。実際、自分でも素行のいい生徒だとは思っていなかった。だからいくら弁明しても信じてもらえない。そう思っていた。
「学校の先生にはちゃんと話をしたのか」
「一応話したよ」
「話しをして、これか」
園長は髭をしごき、呆れたような声を出した。
園長が学校に乗り込み、うちの目黒を見くびるなと啖呵を切ったことは後で聞いた。園長が中学校の校長室に入って行く姿を見かけた同級生が廊下で盗み聞きしたのだ。
「うちの目黒は、理由もなく人を殴ったりしない」と園長が決然と言い切り、「しかし、三年生全員の証言によると……」という校長の言葉を遮り、「あんた方、子供の本質も見抜けないくせによく教職者を語っているな! この恥知らずが!」と怒鳴ったという。
その話を聞いた時、まず呆れた。まるで息子が理不尽な裁きを受けたことに憤る父親じゃないかと思った。そしてそのことが、またひたひたと嬉しかった。
園長がお茶を持って部屋に入ってきた。目黒の前にお茶とクッキーの乗った皿を並べた。
「目黒君。好美ちゃんには連絡していなかったの?」
「してませんよ」
目黒は熱いお茶を啜った。
「私もうっかりしてて。彼女、今日休みなの」
知っていた。知っていたから今日来たのだ。ときどき届く好美のメールには、風光学園に顔を出すなら木曜日以外にしてねと書いてあった。
「まぁ、また今度来た時に」
数年前、児童福祉法が改正され風光学園のような施設でも一歳児以上の受入れが可能になった。
風光学園は新しい保育士を必要とし、資格を取った好美が採用された。
好美は小さい頃から頭が良かった。学年で一番背が低いくせに、かけっこが早くて誰よりも気が強かった。二歳年上の目黒を、兄のように慕い、目黒の行くところにはいつもついてきた。そんな好美を目黒は妹のように思っていた。
好美は今でも目黒のことを慕っている。しばしば携帯電話にメールを送ってきたり、電話をかけてきたりする。
しかしあまり関係を持たないほうがいい。目黒は暴力団の構成員となり、好美は保育士になった。住む世界が違うのだ。
廊下を、スリッパを引きずるように歩く音が聞こえた。昔に比べテンポが遅くなったが、石塚のばあさんの足音に間違いなかった。園長室の扉が開き、予測より僅かに低い位置に石塚のばあさんの顔があった。
「なんや浩一。きてたんか」
石塚のばあさんは白くなった髪を後ろで括っていた。身長は目黒の胸辺りまでしかない。
「ばあさん、元気やったか?」
「何をえらそうな」と言ったばあさんの顔はうれしそうだった。
目黒も笑みを漏らす。お土産と言ってマカデミアンナッツの箱を渡すと、園長がお茶菓子にしようとその場で開けた。お持たせですがと言って、皿に盛られたクッキーと一緒に並べる。
「歯は大丈夫か」
と目黒が声をかけると同時に、カチリと音をたててチョコレートをかじり、ぼりぼりとかみ砕いた。
昔からこの小さな体に、なぜこれだけのエネルギーがあるのだろうと疑問に思っていた。もしかしたら隠れて筋トレでもしているのかと思い、みんなでばあさんの後をつけたこともあった。
「おいしいわ」
ばあさんと並んでソファに腰をおろした園長がチョコレートをかじりながら言った。並ぶと親子のようにも見える。
「しかしいつも同じチョコレートやな。たまにはメロンとか肉でもええのに」
和牛な和牛。とばあさんは憎まれ口を叩いた。
「あまりええもん食うたら、長生きせえへんで」
「私に長生きして欲しいのか」
ばあさんは二つ目のチョコレートをほおばり、息を吸い込みながら笑った。
いつかこのばあさんをハワイに連れて行く。張真組で出世して豪勢なハワイ旅行を満喫させてやりたい。それには時間がかかる。一年でも元気で長生きして欲しかった。
石塚のばあさんは夫と死別していた。長い間入院生活を続けていた夫は、目黒が小学校三年生の時に他界した。後にも先にも、石塚のばあさんが動揺した姿を見せたのはその時だけだった。いつもエネルギーにあふれ、塞ぎこむことのなかったばあさんの背中が、そのときばかりは頼りなく見えた。
ばあさんは夫の葬儀を終えるとすぐに復帰した。毎日が戦争のように忙しなく働き、以前と同じように子供たちの世話を焼き、励まし、怒り、笑いあった。それでも何かがかわった。幼い目黒の眼にはそう映った。
ある寝苦しい夏の夜、目を盗んで冷蔵庫を漁っていた目黒は、当番で泊まり込んでいたばあさんに見つかった。もう消灯時間をとっくに過ぎていたが、厳しい空手練習に施設の夕食だけでは足りなかったのだ。
ばあさんはため息をつきながらも、冷やご飯でチャーハンを作ってくれた。ハムと玉ねぎ、それとあまり物のレタスがふんだんに入ったチャーハンはおいしかった。
石塚のばあさんは旺盛な食欲を示す目黒を見ていた。いつも仲間と一緒にいるため、ばあさんと二人だけというのは珍しかった。ばあさんは、うちの人もあんたぐらい食べられたらよかったんだけどと呟いた。
ばあさんの夫はどんな人だったのかと目黒は尋ねた。
ばあさんは目黒と自分のために麦茶を入れ、ぽつぽつと思い出を語った。夫は裕福な家庭に生まれた人だった。ばあさんもそれなりの名士の娘であったが、親が事業に失敗し、決して裕福ではなかった。
二人はお見合いで知り合った。結婚しても保育士は続けたいと伝えたばあさんに、夫は優しく頷いたという。見合いをしてから一年後に結婚した。新婚旅行はハワイだった。当時とすればなかなか豪勢な新婚旅行だった。旅行から帰ると夫が体調を崩した。以前から体の弱いたちであり決して健康ではなかったけど、長期にわたって寝込むようなことはなかった。
しかしその後、自宅と病院を行ったり来たりの日々が続いた。亡くなる五年前、突如自宅で意識を失った。脳溢血だった。その後、意識が戻らぬまま入院を続け、そして帰らぬ人となった。
小学生だった目黒を相手に、ばあさんはすっと涙を流した。もう一度一緒にハワイに行こう。それが夫の辞世の言葉だったと語った。
目黒は物心ついたときから施設で暮らしていた。両親は事故で亡くなったのだと聞かされていた。だから父や母のぬくもりとは無縁で育った。石塚のばあさんは児童の誰彼をひいきすることなく育ててくれた。特別に目黒に目をかけていたわけではなかった。それでも、目黒にとって、ばあさんは偉大な存在であり、親の代わりだった。
目黒は中学に入ったころから、学校でも問題児扱いを受けるようになった。小さい頃から気性は荒かった。それを心配して前の園長は目黒を空手の道場に通わせた。強くなることで優しくなれる。ありあまったエネルギーを厳しい世界で発散させることで、消化させようというのが目的だった。
空手の師範である佐門は、石塚のばあさんの遠縁にあたる人だった。通い始めてみると、目黒は空手のおもしろさに虜になった。
園長の目論見は半分当たり、そして半分逆効果となった。確かに施設の中ではおとなしくなった。暴力をふるうこともなくなり、ほかの児童に対して優しい気遣いを見せるようになった。
しかし外では違った。両親のいない目黒に向けられる眼は、決して友好的なものばかりではなかったし、中には理不尽に攻撃的なものさえあった。
目黒は彼自身を、もしくは風光学園やそして仲間たちに向けられる謂れのない中傷や揶揄を無視しようとはしなかった。すべて正面から受け止め、そして受け止めた分、しっかりと返した。
その結果、目黒の周囲では争い事が絶えず、中学校や世間での彼の評判は芳しくないものとなった。問題を起こすたびに石塚のばあさんや園長に叱られたが、それでも彼らが無理解の上に目黒を罵倒することはなかった。
目黒はこの施設で育ててもらった恩を、ばあさんをハワイに連れて行くことで返そうと考えていた。
肩に入れたトライバルのタトゥーと「Aloha `Oe」の言葉は、ばあさんへの恩返しを忘れないための誓約書だった。そして施設で育ったこと、まっとうな生き方ができるように苦慮してくれた人たちと繋がる錨でもあった。
目黒は自分の心の中に漫然と横たわる弱い部分を知っていた。その弱い部分は自分の置かれた境遇に対する妬みや、怒りで浸食され、増殖を続けている。タトゥーは唯一、その弱い部分を突き破り、本来の自分を思い出させてくれる楔だった。
「忙しいのかい」
石塚のばあさんがお茶を啜りながらつぶやいた。
「あぁ。ぼちぼちね」
目黒が今何をやっているか、ばあさんは知っている。しかしそれを責めようとはしなかった。ただ、深く心配してくれている。目黒が好きな空手で生計を立てられるように、佐門に働きかけてくれている。しかしそのことを彼女の口から聞いたことはなかった。ただ、黙って道筋だけを用意してくれている。
「ばあちゃんは。まだ仕事続けるんか?」
「まだまだ続ける。必要とされているからね」
隣で園長が申し訳なさそうな顔をした。
「石塚さんは非常勤だけど、今でもこの学園の主力なの。つい甘えちゃって」
「まぁ、仕事辞めると老けこむやろうし、働いているほうがぼけずにすむで」
「生意気なこと言うな。年寄りには年寄りの考えがある。生き方は自分で決める」
「じゃぁ、辞めるのか」
「足が動いているうちは辞めん。園長に出て行けと言われても、わしは辞めん」
ばあさんがうれしそうに笑った。しわの深さが増したように思えた。体の体積も、以前より小さくなった。体力は確実に衰えているはずだ。
張真組の構成員になった当時は組長の自宅に泊まりこんでいたし、組から出る手当ても微々たるものだった。しかし、大藪の下でみかじめ料を徴収する担当になってからは、風俗店やキャバクラなどの用心棒としての収入もあったし、手当ても増えたからそこそこの金額を手にしていた。
ハワイ行きの旅費ぐらいなら今すぐにでも何とかなるかもしれない。しかし、張真組での地位がもう少し上がらなければとても組の仕事をほっておいてハワイ旅行と決め込むわけにはいかない。
去年、まだ張真組に入って一年足らずの暴走族上がりの男が、組を辞めたいと言い出した。組長宅での住み込みは自由も無く窮屈で厳しい。そのくせ金もない。ヤクザになればすぐにでも肩で風を切って歩けると思っていた男にとっては騙されたに等しい状況だったのだろう。
男は組長の前に連れて行かれ、エンコ詰めを迫られた。男は対面も憚らず大泣きして許しを乞うた。結果的に組員全員の前で大恥をかいただけで放免されたが、それはまだ見習い期間だったためだ。
エンコ詰めまでして暴力団から足を洗っても、そう簡単に堅気の仕事が見つかるとは限らない。確かに空手の師範になる道はある。しかし小さなタトゥーでも隠せという佐門が、いくら石塚のばあさんの頼みとはいえ、指を詰めた人間を簡単には師範にはすまい。たとえ空手師範となっても収入は安定しないだろうし、将来性があるわけでもない。ばあさんをハワイに連れていくなど、何年先になるかわからない。
三人でしばらく風光学園のことを話した。園長は多くを語らなかったが、あまり順調な経営だとはいえないようだ。
「浩一」
ばあさんが三つ目のチョコレートをたいらげた後、口を開いた。
「一度、うちの子供たちに空手を教えてやってくれないかな。お前みたいに元気がよすぎる子が二、三人いてな。その子達に、教えてやってほしいんや」
「二、三人もいるのか? 多いな」
「エネルギーの使い方をきっちり教えてやらんとね」と言って石塚のばあさんは園長を見た。園長もお願いできないかしらと頭を下げた。
目黒はあいまいな返事しかできなかった。エネルギーの使い方を誤っている男がここにいる。
「ただいまー」
廊下から子供の声が聞こえた。目黒は時計に目を落とす。授業を終えた小学生が帰ってくる時間だった。ただいまの声が二つ、三つ続き、廊下を走る靴音が聞こえる。
「おぉ、悪がきどもが帰ってきた」
石塚のばあさんがお茶を飲み干した。潮時だった。目黒はソファから腰を上げた。
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