第7話


 水槽の中のグロッソステイグマは小さなスプーンを二つに開いたように葉を広げ、底床の八割方を覆いつくしていた。水槽の右側、丘のように盛り上がった部分だけ、若干葉の隙間からソイルが覗いている。丘の部分には小ぶりの溶岩石をちらしてあるため、そのままでもおかしくはない。

 溶岩石の上を、一匹のビーシュリンプが、小さな手をうごめかしながら移動していた。優斗の影に怯えたネオンテトラが弾丸のように水槽を横切る。

 優斗は少し離れた場所から全景を眺めた。水槽を正面から見て、手前に配置した水草は大きな葉を持つシダ類を中心に使い、奥に行くほど細い葉や小さな葉をつける有茎草が生い茂っている。そうすることで水槽全体に奥行き感がでる。濃緑色と淡い緑色がうねるように組み合わさり、まじりあい、ポイントに赤い葉をつけるロタラインディカが茂っていた。

 今回は流木と溶岩石を組み合わせて使っていたが、あくまでもそれは脇役で、主役は水草に置いている。その中で右側の丘の手前に、玉城氏垂涎のエキノドルスが濃い緑色の葉を広げ、自己主張に励んでいる。確かにこいつの扱い方は難しい。ともすればアンバランスになるが、今回はうまくいった。色調が周辺の水草と近く、違和感がない。

 後はそれぞれの水草の成長度合いだ。ロタラ類はこれまで三度剪定をしている。水質とも相性がいいらしく、茂り方が予想以上に早い。後三日もすれば葉が横に広がりすぎて、バランスを崩してしまう。それに対してグロッソが底床を覆い尽くすにはまだ一週間程度かかるだろう。

 とりあえずロタラが茂りすぎる前に写真を撮り、もう一度軽く剪定をしてグロッソが茂るのを待つしかない。

 写真撮影のときには、八十匹のアフリカンランプアイを泳がすつもりだった。青く光る頭頂部と半透明の体を持った熱帯魚は、二センチほどの大きさしかない。小さな魚を群泳させることで、九十センチの水槽でも広がりを表現することができる。

 二酸化炭素のバブルカウンターを確認し、わずかに弁を閉める。CO2を添加しすぎると魚によくない。アフリカンランプアイを大量投入するまでにPHを少し戻しておきたい。

 店の前で急停止する車の音がきこえた。

 ガラス越しに外を覗くと白いハイエースが停車していた。配送の車かと思ったが、今日は入荷の予定はない。

 店の自動ドアが開くのももどかしく飛び込んできた男は、駅の繁華街で出会った男だった。

「川上秀和だ」

 優斗が男の名前を思い出すのとほぼ同時に、男が自己紹介をした。

「えぇ。こんばんは」

 自分を確認しろと言わんばかりに優斗に顔を向ける川上に、優斗は頷いて見せた。川上は頷き返すと、踵を返し、閉まりかけた自動ドアからまた出て行った。

 優斗はトリミング用の鋏を空中にとどめたまま、あっけにとられて川上の行動を見ていた。駅で会ったときはラフな格好をしていたが、今日はダークグレーのスーツを着ている。仕事の帰りだろうか。開いた自動ドアの向こうで川上は車の助手席のドアを開け、手に何かをぶら下げてまた店内に入ってきた。

「すまんが、手伝ってくれ」

 唐突に言う。手に持っている物を、取れ、と言わんばかりに差し出した。

真新しいシャベルだ。背広とシャベルの取り合わせに、まるでコントみたいだなぁと思った。

「なんですかいったい」

 優斗が質問したにも拘らず、川上は優斗の手元の鋏に視線を落とし、シャベルを突き出したまま、「何をしているんだ。長いハサミなんか持って」と言った。

「何おって……水槽の手入れです」

 一瞬、川上は興味を持った視線を水槽に向ける。川上はシャベル。優斗は鋏。

 二人でしばらく無言で向き合った。

「その小さな草を、その鋏で剪定するのか」

「えぇ。形を整えるんです」

「なるほど。芸術だな」

「で……川上さんは何をしに来たんですか」

 優斗は、今日で対面三回目の男に声をかけた。

「そうだった。手伝ってほしいことがあるんだ」

「なんですか」

 手に提げたシャベルを見れば、大体想像がつく。

「地面を掘るのを手伝ってくれ」

やっぱりと思い、「いやです」と言ってみた。「それだけでは説明になっていません」と付け足す。

 物怖じせずはっきりと意思表示ができたことに内心驚いた。

 川上には対人関係を緩和する雰囲気がある。ずけずけと入り込んでくる割にはとぼけたところがあるからもしれない。ほとんど知らない間柄なのに緊張感が乏しいのだ。

「私は君を一度助けた。それに、こんなことを頼めるのは君ぐらいだ」

「助けてくれたことは認めますよ。しかし、特別な友人のような言われ方をされても釈然としません」

「特別な友人だといつ言った」

「こんなことを頼めるのは君だけだと言いましたよ。つまり僕は、川上さんにとって無理を頼めるただ一人の友人だと言われたんだと思いますが」

「そうなるか」と川上は頭をひねった。「君はするどいな。しかし君は友人ではない。家族になる可能性はあるが」と意味のわからないことを言う。

 頭が少しおかしいのかもしれないと失礼な感想を抱く。デリカシーのない変人であることは間違いないが。

「店はいつ終わるんだ」と川上が言ったので、優斗は自動ドアにぶら下がったプレートを指差した。プレートにはOPENと書かれている。店内に向かってOPENということは、店の外に向かってCLOSEと情報発信しているということだ。

「もう営業時間は終わってますよ」

「よし。じゃあ用意してくれ」

「ですから、何を掘りに行くんですか。それに僕はOKするつもりはありませんけど」

「タイムカプセルを掘り出しに行くんだ。東山小学校の校庭に埋まっている」

「え? 卒業生が埋めたタイムカプセルですか?」

「君も埋めた」

「えぇ、僕も埋めました」

 どうして川上が僕の出身校を知っているのだろうと疑問がよぎる。単なるあてずっぽうかもしれないが、薄気味悪い。

「カプセルが掘り出されるのはまだ先の話ですよ。カプセルを埋めた卒業生に案内が届いているはずです」

「知っている。だから先に掘り出すんだ」

「日程変更?」

「二人で先に掘り出すんだ」

「意味がわかりません」

「一肌脱いでくれ」

「学校の了解は取ったんですか」

「了解があれば昼に掘り出す」

「こっそり掘り出すんですか」

「夜中に掘り出すということはそういうことだろう。大村優斗くん」

「嫌ですよ……」

「私は君を助けた。君は恩返しをしなければならない。鶴でもするぞ」

 川上はシャベルを振った。怖くなって優斗は手に持った鋏を意識したが、猛犬に挑むカマキリの心境だろうかと考え怖気づく。無理矢理にでも千円受け取らせて関係を絶っておけばよかったと後悔する。

 それに、川上に助けてもらったのだろうか?

 と自問する。川上と出会ったときはすでに傷を負っていて、公衆便所で目覚めた後だった。ただ財布を取り戻してもらったことは間違いないし、それで今月の家賃も滞りなくはらうことができたのも事実だ。

 しかし会って三回目の男の、怪しげな依頼に応えなければならないほど、大きな貸しだろうか。

「でも……」

「頼む」

 有無を言わせぬ迫力があった。これまで纏っていた緊張感緩和のオーラは消え去り、高圧的な雰囲気を纏っている。

「勝手にそんなことをしたら違法ですよ。たぶん」と川上の理性に訴えかけてみる。訴えながら、あぁ、自分は拒否する事ができないだろうなとあきらめていた。

「心配するな。私がついている」

川上はなぜか自信ありげに胸を反らせた。


          

 川上の運転するハイエースは法定速度を守りながら小学校へと向かっていた。車に乗り込んでからの川上は運転に集中して無口だった。九人乗りのロングボディの室内は、きれいに整理されていた。商用車的な外観とは違い、ハンドルは皮巻きのものに変更されていたし、シートは運転席だけ浅いバケットシートになっている。

 いまどき珍しいマニュアルシフトで、コラムではなくフロアタイプだった。エンジンや足回りもいじっているのかもしれない。

 車のヘッドライトが住宅街を照らす。徐々に学校に近付いていることがわかる。夜の風景とはいえ、小学校の六年間通い続けた道だ。

 優斗が小学生だった頃、自宅は東山小学校から徒歩十分の距離にあった。昭和四十年代に開発されたこの町とともに建設された学校で、当時としては斬新な造りになっていた。校舎は全て災害時の非難を考えて二階建て。ゆったりとした敷地の真ん中にコの字型に建設されている。コの字の開いた方向に運動場があって、裏側にはちょっとした雑木林が残っていた。

 歴史のある学校だ。しかしここ数年、生徒数が激減していると聞いていた。戸建住宅中心の校区のため、まちの住民の移り変わりが少なく、開発当初から入居している世帯が多い。

 必然的に子は育ち、成人を向かえ、その多くが都心や更に郊外の住宅地へと転居していく。結果として高齢化が進んでしまったのだ。その結果、隣町の小学校に統廃合されることになった。

 優斗は東山小学校を卒業後、中学三年まではこのまちで過ごしたが、家族で岡山に引っ越したため、高校は岡山の県立高校に通い、大学は東京だった。そのこともあって、小学校で仲の良かった友達とは今は疎遠になっている。

 優斗の母親は岡山の名士の出だった。母が父と結婚すると言い出したとき、祖父はえらく反対したらしい。それは最もだと思う。父はぐうたらな人間ではなかったが、若い頃から危なっかしい生き方をしていた。

 人に使われることが苦手な父は、二十歳の頃から自分で事業をしていた。ジャンルを問わず、儲かると思った仕事には何でも飛びついた。

 抗菌防臭加工の靴下が流行ったときにはダンボールで何箱も仕入れ、ミニ四駆が流行ればどこかから大量に購入してきて横流しで売りさばく。痩せる石鹸、育毛剤、御影石で作った仏像が部屋の片隅を占領していた事もある。

 浮き草商売を続けていたが、世相や時流を読む力に長けていたらしく、たいていそれなりの儲けは出していたらしい。優斗も両親が金に困っている様子を見たことがない。地に足つけぬ商売は、短気な父に向いていたのだろう。

 祖父は、最後には母と父の結婚を許した。母が父を心底愛していたから、諦めたといったほうがいいのかもしれない。しかし条件を付けた。自分が死ねば、岡山に戻ってきて後を継ぎ、田畑を耕して生きていくこと。父はその条件を受け入れ、母と結婚した。

 優斗が中学三年生のとき、その祖父が他界。父は祖父との約束を守り、これまでの仕事を整理して岡山に引っ越した。潔い転進だった。優斗も高校の三年間を両親と岡山で過ごしたが、父は不平一つ言わず田畑を耕した。

 とにかく好奇心の強い人だから、慣れない田畑仕事を億劫に思うよりも、初めて大地を耕すことに喜びを感じていたのだと思う。今でもあやしい仕事は継続しているようだが、生計は今や大地に根付いたところで成り立っている。

 父の好奇心は生まれたての子狐より潤沢で、コブラと対峙したマングースよりも恐れ知らずだった。つまり、優斗とは正反対の性格だ。優斗は母の血を色濃く受け継いでいだ。心根が優しく、引っ込み思案で、自己主張に乏しい。

 父は父で優斗の大人しい性格を歯がゆく感じていたのだろう、ことある毎に、「何かとっぴな事が目の前で起こったら、まず確かめろ。逃げてはだめだ。逃げていては何も始まらん」と優斗を諭した。

 今まさに、突飛な事が起きている。父の教えに従い川上の願いを聞き入れたわけではない。何度も拒否したが川上の要望は執拗で、追い詰められた優斗は、最後には「これから店を閉めなければいけないし」と消極的承諾の言葉を口にしていた。災いを避け、結局、強い意見に流された結果だ。

 東山小学校はもう目の前だった。住宅から漏れる光も少なく、街灯の明かりだけがぽつぽつと道路を照らしている。

 小学校へと繋がる一本道に差し掛かった。川上は校庭に張り巡らされたフェンスの横に車を止め、エンジンを切った。後部座席との間に放り込まれていたリュックサックからスポーツウェアを取り出し、背広を脱ぎ、運転席で器用に着替えた。

「ほら」

 と言って優斗に黒い布のようなものを差し出した。広げてみると、目の部分に穴が開いたマスクのようなものだとわかる。目出し帽だ。

 優斗はやっぱりついてくるんじゃなかったと後悔し、深い溜息をついた。

「被るんですか?」

「スキー洋品店で売っていた。なかなか暖かいぞ」

「別に寒くないですけど」

 川上は早速目出し帽を被り、バックミラーでチェックしている。それが終わると、ダッシュボードから携帯用のビニールに入ったウェットティッシュらしきものを取り出し、目出し帽から唯一顔を出している目の周りや、首筋を拭き始めた。

「何をしているんです」

「虫よけシート」

「もう、虫なんていませんよ」

 夜風はすでに肌寒い。

「アカイエカやチカイエカは成虫で越冬するんだ。学校の裏に池があるだろう。この辺は今でも奴らが活動している。それに私は肌が弱くてな。遺伝だ」と言い切る。

 理香も肌が弱いと言っていたけど、男が同じ発言をするとうざったい。

「いませんよ。こんなに寒いのに」

「常識はずれの人間が増えているんだ。同じように常識を持たない蚊だっているさ」

 服の切れ目に当たる足首にも虫よけシートをこすりつけ、最近の蚊は虫よけを塗っても刺す奴がいるんだ。まさに常識外れだろうと言った。

 虫よけシートの収まったビニール袋を優斗の膝の上に投げてよこした。手のひらほどの大きさの袋を取り上げる。袋にはデジタルカメラの宣伝がプリントされていた。小さな文字で、ウェットティッシュと書かれている。

「でも、これ。ただのウェットティッシュだと思いますけど」

 袋のどこにも、虫よけシートだとは書かれていなかった。両手を拭き終わり、軍手をはめていた川上の動きが止まった。慌てて優斗の手からシートの袋をひったくる。

「ほんとうか」

 車の窓を通して入り込んでくる明りに袋を翳しながら、しげしげと眺めている。

「虫よけシートに、デジカメの宣伝はおかしいでしょう」

「ウェットティッシュにデジカメの宣伝はおかしくないのか」と問い返してきたが、自分の過ちに気がついたらしく、ダッシュボードにウェットティッシュの袋を投げ出した。

「プラシーボ効果というのがある。砂糖水でも、良薬だと思って飲めば病気は治る」

「ウェットティッシュでも、虫よけシートだと思えば蚊は刺さない?」

 川上は黙った。

「川上さんが蚊に刺されても、虫よけシートを塗っているんだから、刺されるわけがないと思って痒くならないならわかりますけど。虫よけシートの存在すら知らない蚊に、プラシーボ効果を期待するのはお門違いだと思います」

「君はひつこいな」と、川上はおそらく目出し帽の中で憮然とした顔をした。

「行くぞ」

 車を降りると、後部座席からシャベルと鶴嘴を取り出す。あきらめて優斗も車の外に出た。秋口の空気はきんと冷たい。校庭に樹木が生い茂っているせいか、ここだけ気温が数度低いような気がした。

 学校はしんと静まり返り、校門と校舎の一番奥、一階だけに小さな明かりが灯っている。

 学校の警備員は三宅さんと言ったっけ。今でも現役だろうかと考え、違うなと思った。あれから十年以上が経過している。あのときでも三宅さんは随分年をとって見えた。しかし子供にとっては三十歳を超えた辺りから男は全ておじさんに見えるものだ。

 案外、当時まだ四十代で、今は廃校に併せ、定年を指折り数えている年齢かもしれない。

 フェンスの高さは二メートルほど。校庭の一角は雑木林のように木々が生い茂っている。道路の反対側は小さな畑や空き地が残っているから、進入するにはもってこいの場所だ。

 統廃合された後、学校跡地は民間に売却される事になるらしい。マンションでも建つのだろうか。これだけの敷地があれば、数百戸単位の住宅が建設されるに違いない。

「ここを乗り越えるぞ」川上が小声で言い、「ここから近いか?」と質問された。

「何がですか?」

「カプセルを埋めた位置だ」

「知らないんですか」

「知らない」

「なんですかそれ」とあきれる。計画性も何もあったものではない。

「だから君を連れてきたんだ」

 優斗は心の中で溜息をつく。自分に対してだ。断る事に必死で、なぜ川上がこれほど優斗を手伝わせようとしたのか理由も考えなかった。それさえ気づいていれば、地図を描くとか、交渉のしようもあったはずだ。やっぱりただの臆病者だと自嘲する。

「僕だって十年以上前の話だから覚えていませんよ」

「記憶を手繰るんだ」

川上はできの悪い子供を諭すように言った。

「現場を見れば思い出す。夜は長い」

 そう言うと、フェンスに取り付き二メートルを一気に昇り切り、学校の敷地に降り立った。

 あきらめて後に続く。父の「逃げるな」という言葉が頭に過ぎる。

いつものように、逃げていいときもあると言い返してみるが、そんな時期はとっくに過ぎ去っている。もう乗りかかった船どころか、数日航海をともにした船の状態かもしれない。

 周囲に視線をやり、フェンスをよじ登った。川上より倍の時間がかかる。見掛けより川上の運動能力は高いらしい。

 敷地の中は道路よりも暗い。開校と同時に整備された小さな雑木林には、生徒達が作った鳥の木箱や、餌場が今でも残っているはずだ。優斗は昼休みや放課後、ここで一人、木々に囲まれた小さなベンチに腰を降ろし、本を読んでいた事を思い出した。

今まで忘れていた記憶。学校が撤去されれば、この森もなくなってしまうのだろう。

「ほら」

 川上がシャベルを差し出した。立ち上がって受け取る。雑木林から足を踏み出し、広々とした校庭を見渡した。

 記憶を探るまでもなかった。タイムカプセルを埋められる場所は限られている。校舎の裏側に三宅さんが手入れしていた花壇があって、その横に焼却炉が備え付けてあったはずだ。その奥。職員室の裏手に小さな広場がある。タイムカプセルはその周りに埋めた。

「どっちだ」

 優斗は無言で歩き始めた。目出し帽の中でうっすらと汗を掻いていた。

 カプセルを埋めた日のことを思い出していた。

 前日に渡されたビニール袋に自分が埋めたいものを入れて登校した。教室で持ってきたものを見せ合う同級生達。優斗も仲の良かった同級生と中身を見せ合った。

 壊れたベイブレイドや、ブームの去った昆虫カードを入れる奴もいた。優斗は、小さい頃大好きだった恐竜のフィギアや、ガンダムのカードを入れた。その中に、悩んだ末、一冊の文庫本を忍びこませた。初めて読んだ大人向けの小説だった。長編ではなく、たくさんの短い話がおさめられていた。おもしろくて、何度も読み返した記憶がある。

 その本は弱い自分の象徴だった。弱い自分を嫌い、強い父親を畏怖し、その結果とった行動が自己改革の先送りだった。

 二十年後の自分は変化しているにちがいない。ずっと強くなって、タイムカプセルから出てきた一冊の本を見ても、過去の苦い思い出だと割り切れるのではないかと思っていた。

 十二年前の自分に謝らなければならない。結局、何も変わっていない。弱い優斗は弱いままだ。たとえこれから八年先でも、おそらくこのままでは何も変わらないのだ。

 校舎の先にある街灯の前を、誰かが横切ったように思えた。足を止め校舎の壁際に移動した。

「どうした」

川上が後ろに付いた。振り返ると目出し帽から突き出した川上の顎が夜に白く浮いていた。

「誰かいたように思います」

「警備員かな」

 定年間近の三宅さんが、懐中電灯を片手に一人夜の校舎を見回りしている姿を想像してみた。夜半の不法侵入者は小学校の警備員としては大事件に違いない。温厚で生徒に人気のあった三宅さんを驚かせたくはなかった。

 しばらく二人で息を潜めていたが動く影はない。

「行こう」

 川上に背中を突かれた。それでもじっとしていると、川上が優斗を追い抜き校舎の影を飛び出した。場所も知らずにどこへ行く気なんだと腹が立ち、闇に遠ざかる川上の背中を見て、一人取り残されることに不安を感じ、諦めと同時に後を追った。

被りなれない目出し帽のせいで、目の下がかゆかった。




 目的地の広場に到着した。記憶にあったより随分狭い。増築された建物に敷地を奪われたのだろうかと見渡すが、狭い以外は現場と記憶が一致している。おそらく、子供の頃は大きく感じただけなのだろう。フェンス際に樹木が並んでいる。近づくと幹にプレートが巻きつけてある。

 カチリと音がして、闇を明かりが切り裂いた。川上が懐中電灯を点けたのだ。一番手前の樹木を照らす。照らされたプレートには、二〇一一年卒業生記念植樹と書かれていた。卒業生の記念行事はタイムカプセルから植樹にかわったようだ。

「もみじだな」と川上が言った。「私のときはサクラだった」

「川上さんの時代はタイムカプセルじゃないんですね」

「時代などと言わないで欲しいな」

 懐中電灯の明かりが空中を浮遊する。一本の木を映し出し、もう一度移動して、別の木を照らした。夜の闇に紛れて許可無く校庭に侵入している人間の行動としては大胆すぎる。

「あれかな」

「え?」

「いや、あの木だったかな……。違うな。正門の近くだったような気がする」

「川上さんって、この学校の卒業生なんですか」

「そうだよ。君の先輩だ」

「そうなんですか」

 つまり後輩が埋めたタイムカプセルを掘り出そうというわけだ。

「自分たちの時代はさくらの木を植えたのに、後輩はタイムカプセルを埋めている。そのことが腹立たしくて、掘り出して処分することにした」

「なんの話だ」

「いえ。独り言です」

 やっぱり確認すべきだと改めて思った。乗りかかりすぎている船だろうと、場合によっては海に飛び込んででも降りるべき決断が必要なときもある。

「川上さん」

 決意を固めて川上の正面から対峙する。

「そろそろタイムカプセルを掘り返す理由を教えてください」

「人助けだ」

それなりに気負って問いかけたのに、川上はあっさりと応えた。

「ある人物が埋めたものを掘り出し、処分する」

「その、ある人物に頼まれたんですか」

「いや。けど、そう望んでいるに違いない」

「来週の日曜日には学校のイベントで掘り出されるんです。そのときではだめなんですか」

「人知れず処分する必要がある」

 なんだか物騒な表現だ。

「いったい何が入っているんです」

「開けてみればわかる」

「不法行為です」

「すでに学校に不法潜入しているではないか」

 いまさら何をといった口振りに腹が立った。川上は優斗の横をすり抜け広場を歩き回る。懐中電灯の明かりが地面を走る。

「その中身を、僕が見てもいいんですか」

 人知れず処分すると言った言葉との矛盾を指摘したつもりだった。

「いいよ。君なら構わない。いや、見るべきだ」

 理解不能。しかし同時に興味もそそられた。それでも一応、最後の抵抗を試みる。

「やっぱり、僕帰ります」

「だめだ。乗り掛かった船だろう。すでに航海二日目ぐらいの船だ。降りる港は遥か海の向こうだ」人の心を読んだような発言をした。「この世には悩んでも仕方のないことがある」と原因者という自覚のない言葉が続く。

「君が卒業した時のタイムカプセルを埋めた場所はどこだ」

「え? 僕のですか」

「そう。平成八年度の卒業生」

「まさか僕のタイムカプセルを掘り返すんですか」

「そんな意味のないことはしない」

「じゃぁ、ある人っていうのは僕の同級生ですね」

「その通りだよ」

「誰ですか」

 川上はなかなか言うことを聞かない子供を諭すように、腰をかがめて優斗の顔を覗きこむ。

「とにかく埋めた場所を教えてくれ。時間がない」

 優斗は盛大にため息をつき、無言のまま川上の脇をすり抜け、周囲に目をやる。大体の場所は記憶していた。埋めた場所には石のプレートが設置してあるはずだった。

 いきなり後ろから肩を掴まれた。

「誰かきた」

 囁く声と同時にぐいっと引かれた。躓きそうになりながらも何とか体勢を整えて川上の後を走る。校庭の影に身を潜めると同時に人影が二つ広場に入ってきた。一つは大きな影。もう一つは小さい。大きな人影は肩にシャベルを担いでいる。

「この広場なのは確かなんだけど」

 くぐもった女性の声がした。

「何か目印は」

と男の声が返す。

 しばらく辺りを徘徊する音が聞こえて、「たぶん。ここ」と女性の声がささやいた。

 ――あっ。

 優斗は思わず校舎の影から広場の方に足を進めていた。女の声に聞き覚えがあった。

「理香」

 思わず飛び出した優斗の声に小さい方の影がぴくりと動き、こちらを振り返る。大きい方の影は迅速な動きで、理香の前に出ると肩に背負っていたシャベルを構えた。

「え? 誰?」

 やはり沢木理香の声だった。優斗は校舎の影から出た。

「ここだよ」

「優斗?」

 近づくと彼女の顔が判別できた。目出し帽を被っている優斗を、理香は覗き込むように確認する。彼女の傍らでシャベルを構える男は、残念なことに黄色頭だった。

「こんなところで、何してるの?」

 優斗と理香の声がかぶる。

「いや……」

 優斗は先に応えようとして、それ以上言葉がでなかった。後ろから川上が近づいてくる気配があった。そして、

「サチコ」

 と呼ぶ。

 まさか黄色頭がサチコという名前ではあるまい。また適当な名前を読んでいるのだ。この緊迫した状況で、この人はいったい何を考えているのだろうと頭の片隅で思いながら、今の状況を理解するのに脳をフル回転させた。

 理香は視線を川上に向け、大きな目をさらに大きくした。

「理香。こいつらと知り合いか」

 黄色頭が一歩前に出る。優斗は思わず後退していた。優斗も川上も目出し帽を被っているし、顔を合わせたのも一度だけだから、黄色頭には誰かわからないのだろう。

黄色頭は解き放たれるのを心待ちにしているドーベルマンよりも獰猛な表情を浮かべていた。

 校舎の一角で明かりがついた。記憶ではその先に用務員室がある。夜間は警備員の宿泊場として利用されているはずだ。

「サチコ」と川上が静かな声を出した。「とりあえず、撤収だ」と理香に向って話しかけた。

 理香が小さく頷いたように見えた。

優斗は理解できない状況に混乱しながら、「川上さん。彼女は理香です」と呟いた。

 川上は優斗に向きなおり、「彼女はそうでもあるが、そうではない」と言った。

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