第6話
⒒
「おはようございます」
背広を着た若い男性が差し出した会員証をパソコンの端末で読み取り、「加藤様。いってらっしゃいませ」画面に表示された会員の名前を呼びカードを返す。
若い男は、どうもと答え、ちらりと沢木理香に視線を投げると更衣室に繋がる通路へ向かった。
平日の昼過ぎ。こんな時間にフィットネスクラブで体を鍛えているのは、子供を学校に送り出し家事をあらかた終えた専業主婦か、定年退職した老人ぐらいかと思っていたけど、実態は社会人の男性も多い。ほとんどが営業途中のさぼりだよと同じアルバイトの子が言っていた。確かに時々、トレーニングウエアに身を包んだ会員が、携帯電話を耳に押し当て、マシンジムの片隅で、「えぇ、ただいま出先ですので、もう後、三十分もすれば」とか、「え? 今朝の必着で郵送しておりますが、まだ届いておりませんか。申し訳ございません」とか、ベンチマシーンや、ラットプルマシーンに頭を下げながら話し込んでいる事がある。
客足が途絶えたので、受付のカウンターを回り込み販売棚に並んだスポーツ用品を整理した。
ふとあくびがもれる。昨晩は優斗の家に泊まり、遅くまでDVDを観ていたから寝不足気味だった。自動ドアが開く音がして振り返ると、初老の男性が満面に笑みを浮かべて立っていた。
「おはようございます」
「今日はラッキーデーだ」と男は頬を緩める。「朝から理香ちゃんの顔を見られるなんて」
「徳本さん。今日は少し遅いですね」
受付台の裏に回りこみ会員証を受け取る。徳本はいつものように会員証をしっかりと握って差し出したから、自然と手が触れ合う。
「ばあさんが何かとうるさくてね。やれ切れた電球を取り換えろ、犬の散歩が短い、今日は膝が痛いから買い物に付き合えとか、文句ばっかり言いよって。そうこうしていると開店時間に間に合わなくなった」
「お友達はもう入られましたよ」
午前中のフィットネスクラブは近所の老人や主婦の社交場にもなっている。五年前まで大手食品会社の役員だったという徳本は、ほぼ毎日顔を出し、主婦に交じってエアロビクスに汗を流している。
「エミさんも来てたかな」
明るく社交的な性格で男性に絶大な人気を誇るエアロビクスのインストラクターの名前を口にした。
「えぇ。さっき入られました」
「あんたも別嬪じゃけどな。エミさんの色気はまた別もんじゃ」
とまだ男として現役だと言わんばかりに下品な笑みを浮かべた。
エミはエアロビのインストラクターの中でも最も人気がある。まるで西洋人形のように整った顔をしていて、三十を超えているはずなのに若々しい肉体を維持している彼女は、理香には与えられなかったすべてを持って生まれた存在だ。
「ありがとうございます。早く行かないとエミさんのプログラムが始まりますよ」
素っ気なく答える。空気を読めない徳本は、まだ何か話したそうにしていたが、別の会員が入ってきたので、仕方なさそうに手をあげて更衣室に歩いて行った。
「ねぇ。沢木さん」
数人の会員が続けて入店し落ち着いたところに、裏のオフィスで事務作業をしていたはずの濱田かなこが後ろに立っていた。沢木理香より五つ年下の短大生だが、ここでのアルバイト歴は一番長く、何かとお姉さん風を吹かせる。理香にライバル心も持っていた。彼女が来るまでは、受付の中では会員の一番人気だったらしいから、やきもちを焼いているのだ。
「一昨日の夕方って、沢木さん入っていたよね」
「えぇ」
何かよくない用事であることは顔を見ればわかる。ざっと一昨日のことを記憶に呼び覚ましてみたが、嫌味を言われるようなことも、失敗をしでかした記憶もなかった。
「一昨日はさ、私入ってなくてよくわからないんだけど、男性用の水着とサプリメントが七つ売れてるの。でも集計が合わないわけ」
合わないわけと声にしたところで、つんとあごを上げて見せる。おそらく無意識でそうやっているのだろうけど、その動作に嫌悪感を覚える。
ほら、と言って手に持った売上リストを突き出してきた。
受付の横ではサプリメントや水着、ゴーグル、フィットネスウエアなどを販売している。は入会して間もない会員が購入することはあっても、ほとんど動かない。
年に二回、旧モデルになった品を特売品で出すことを知っているから、昔っからの会員はそのときまで手を出さないのだ。
だから一昨日の売り上げはかなり良いほうだったと言える。あの日はビジターの無料体験デーの最終日だったから、人出は確かに多かった。といっても売れたのは十点にも満たないし、そうなると売上も三万円程度だろう。
理香は自分が売ったものがあったかなとリストを確認してみたけど、あの日、どれも販売した記憶がなかった。
「あの日入ってたのは沢木さんと明美と奈保と恵。それと午前中だけ太田さんが入ってたわけ。沢木さん以外みんな確認したけど、誰も覚えがないって」
「私も記憶にないわ」
「あら」とまたあごを上げる。「困ったわ」と続けた。
なぜ社員でもないアルバイトのあなたが犯人捜しをしているわけと聞こうとしたとき、「店長に頼まれて調べているのよ」と一層あごを上げて挑戦的な態度に出る。
かなこは店長の西川のことが好きなのだ。理香にライバル心を現すのは、ナンバー一を奪われたからだけではない。理香が西川の紹介でアルバイトとして入ってきたときから、恋敵として見られている。
「知らないものは、知らないわ」
と応え、入店した会員に笑顔を向けて挨拶した。
なにさ、くそ女と聞こえるか聞こえない悪態をついてかなこがオフィスに戻って行った。
ため息をつき、くそ女と言う言葉を頭の中で転がす。くそ女と呼ばれても、まったく動じない自分に理香は満足していた。くそ女なんかじゃないと自分に自信をもっているから、何を言われても平気だった。
「理香ちゃん」
間延びした呼び声に一瞬眉を顰め、心を落ち着かせてから笑みをたたえて振り返った。店長の西川雄介が意味ありげな視線を送ってくる。わざとらしくオフィスを確認してからドアを閉め、傍らに近づいてきた。
浅黒く焼けた肌。引きしまった体。微かに柑橘系のコロンの匂いがする。口を開けて微笑み、ホワイトニングしているらしい白い歯を、めいいっぱい見せびらかしている。
西川は異常に体臭や口臭が気になるらしく、いつもコロンを付け、マウスウォッシュを携帯している。セックスもシャワーを浴びた後でなければ絶対にしないタイプだ。
「理香って、いい名前だよなぁ。君に似合ってる」
意味を含めた投げかけに、むっとして、視線を逸らす。
「それは言わない約束でしょ」
ごめんごめんと謝るが、楽しんでいるような雰囲気がある。
「かなこが変なこと言ってきただろう。一昨日の夜にお金が合わないことわかっていたんだけど、まぁ大した額じゃないし。後で補填しとこうと思って忘れていたんだ。そしたら目ざとく見つけてさあ。原因を究明すべきだってうるさいわけよ。気を悪くしないでね」
「大丈夫ですよ。気にしませんから」
と応える。二人で入ってきた会員に明るく挨拶をする。
「今夜、どう?」
会員が奥に移動すると、西川が肩をぶつけてきた。
「今夜って?」
とぼけるなよと言って頬を膨らませる姿が子供みたいだ。周りに誰もいない事を確認すると、そっと理香の腕を掴んだ。
「最近、ちょっと冷たいんじゃない」
「考えすぎよ」
「そうかな」
ほんとはもううんざりしていた。最初はいい男だなと思った。男前で社交的。スカッシュが上手くて、引き締った均整のとれた体。こんな男性でも、私になびくだろうかと試してみたくなった。自信はあった。思い通り、西川は理香のアプローチに強く反応した。しかし、付き合いだしてみると底の浅い男だった。
あまりややこしいことになりそうだったら、この仕事もやめなければならない。別にやめても困るわけではない。親の遺産がまだ十分に残っているから、生活費には困らないし、理香に貢ぎたがっている男は山ほどいる。
「今夜、うちの奥さん、実家なんだよねぇ」
掴んだ理香の腕を、西川雄介はそっと撫でた。
「どうしてですか?」
ちょっと喧嘩してさと言って、人差し指を立て頭の上で角を作る。白い歯と浅黒い肌。まるでエステ通いをしている鬼のようだ。
ひいたのが顔に出そうになり、視線を逸らせた。さっと西川の手が腰に触れる。
「そうなんだ。でも残念だけど」と応えて西川の手から逃れ、周囲を確認する振りをしてわずかに指先を絡めて腕を押しのける。「あの日なの」と小さくつぶやいた。
「なんだよー」と甘えた声を出す。「いつならいいんだよー」と体を摺り寄せてくる。
「沢木さん」
オフィスの扉が開いて濱田かなこが顔を出した。西川が飛び退くようにして理香の傍を離れた。
「やっぱり、集計が合わないのよ。もう一度思い出してくれる」と剣呑な声を出す。店長がいることに気づくと、「ほんと、困るのよねぇ」とわざとらしくぶうたれた。
「彼女のせいじゃないだろう。ほかの子が嘘をついているのかもしれないし」
かなこの表情が強張った。西川と理香を交互に睨みつける。
「他の子は、嘘なんてつかないわよ」
「どうして、そう断言するかなぁ。わからないだろう」
「何よ。店長はほかの子が嘘ついているって言うの」
「彼女だって、嘘ついてないだろう」
「じゃぁ、誰が!」
「店先だぞ、やめろよ」
さすがに西川の声が固くなった。
「だって、この子!」かなこがわざとらしく理香の顔を睨みつける。「うそつきよ!」
「かなこ。言い過ぎだ」
かなこの唇が震えている。西川が理香の味方をしたことが感情を逆撫でしたのだ。理香は溜息をついた。西川のことがそんなに好きならくれてやる。うそつき呼ばわりされる筋合いはない。
「いくら」
理香はかなこの目を正面から捕らえた。
「え?」
「不足金」
「千二百円だけど……」
「私のせいじゃないけど、それでかたがつくんでしょ」
と啖呵を切りながら、自分の行動に満足していた。以前の自分なら考えられない言動だ。
気押されて言葉の出ないかなこを押しのけ、財布を出すためロッカールームに向かった。西川が理香と呼びながら後ろから追いかけてくる。女子更衣室に入りドアを閉めた。さすがに中まで入っては来られまい。
理香は今の自分に満足していた。ドアにもたれて小さく唇を噛んだ。
そう。やっぱりタイムカプセルのこと、浩一に頼んでみようと思った。
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「理香!」
目黒浩一の呼びかけで初めて気が付いた振りをして沢木理香は振り返った。駅のロータリー。客待ちをするタクシーの列を断ち切るように、車高を落とした白い車が止まっている。目黒が車の窓から顔を出し、手を上げた。
車種はなんだっけ。トヨタの何とか。目黒は改造費に三百万かかってると自慢していたけど、まったく記憶に無い。
目黒と落ち合う場所はフィットネスクラブのある駅から一駅、自宅から二駅離れた場所に決めている。駅のロータリーから徒歩三分のところにあるファミレスを指定したのに、理香が電車から降りてくるのをここで待っていたようだ。
車の後部座席の扉が開いて、若い男が二人出てきた。どきりとして一歩後ずさりするが、目黒に降ろされたのだと知って安堵する。一人は近藤。目黒がよく口にしている友達だ。一度写真を見せてもらった。全員が下品な座り方をして、カメラを睨みつけている写真だった。もう一人はなんて名前だっけ。
「ちわっす」
二人は笑みを浮かべて理香に挨拶し、近藤が車の中の目黒に向かって、「ほんと、めっちゃかわいいっすね」と軽口をたたき、わざとらしく理香の全身に視線を這わせた。
背筋を伸ばし、微かに笑みを浮かべてこんばんはと返した。今日はこの後の事を考えてラフな格好にしようと、ニットのチュニックの下にブルージーンズを穿いていた。こんなことならもう少し着飾ってくればよかった。
「ごゆっくり」
二人は理香の傍らを通り過ぎるとき、もう一度理香を下から上へと眺めて、繁華街に消えていった。
「ファミレスで待っててって言ったのに」
車に乗り込みながら訴える。
「通り道だからさ。あいつらも理香を見たいって言うし」
「わたしはパンダじゃないわ」
「パンダじゃないやろう」
と目黒はピント外れに憤慨する。
「理香は俺の女だ」
「ヤクザって、自分の彼女を弟分の見世物にするわけ?」
目黒から習った弟分という単語が、違和感を持って舌の上を転がった。
「あいつらは弟分じゃない。ダチだ」と訂正し、「見世物にしたわけじゃないよ。自慢したかっただけや」と正直なことを言い、「なんか、機嫌悪いな」と続けた。
目黒は不思議な男だ。粗暴なところがあり、見かけも言動もヤクザ者だ。しかしその反面、ときおり優しさを垣間見せる。理香をものにしたいとの下心を割り引いても、彼の本質に優しさや面倒見の良さが備わっているように思う。
目黒はなぜヤクザになったか、その理由を語ろうとしなかったが、別の道に行くチャンスがあれば、それはそれでまっとうな人生を歩んでいたかもしれない。
目黒は過去のことはあまりしゃべりたがらない。理香にとって、自分の過去を語らない男は都合が良かった。自分が語らない分、相手にも強要しないからだ。
「旨い焼鳥屋を教えてもらったんや。行ってみるか」
と車を発進させる。背もたれを倒したシートに背中を預け、右手をまっすぐに伸ばしてハンドルを握る。腕まくりしたトレーナーからタトゥーが少し覗いている。
デフォルメした人の顔の下に『Aloha `Oe』と彫りこまれいてる。ハワイの言葉だ。なぜその言葉なのと訊ねたことがあった。
「世話になった人が好きな言葉なんだ」
言葉少なに語った目黒は珍しく口ごもっていた。
「なぁ、理香」
「なに」
「この前のこと考えてくれたか」
「この前のことって?」
「ディズニーランドの話や」
「あぁ……でも、ついこの前の話じゃない。まだ考え中」
「そんな考えるような話か」
「考えることよ」
目黒は平手で軽くハンドルを叩いた。
「俺の子供を産んでくれ」
「え?」間の抜けた声をあげて、目黒の顔を見た。
「俺の女になれよ」
それなりに意を決して発した言葉らしく、口元に笑みを張り付けていたけど、向けられた視線は真摯なものだった。
「女になるのと子供を産むのとは違うと思うけど」
どうにかそう返答した。動揺で心臓が高鳴っていた。これまで複数の男に口説かれていたが、これだけ直接的な言葉で口説かれるのは初めてだった。
「似たようなもんやろ。女になって子供を産むんやから。女の子ならお前に似てめっちゃめちゃべっぴんや。男なら俺に似てタフガイや」
「逆だったらどうするのよ」
「そりゃ、ちょっと不幸やな」
「不幸なの?」
「そりゃそやろ。女は可愛く生まれた方が絶対得や。自分でも実感あるやろ」
そうね。と理香は呟いた。美人のメリットは痛いほど感じていた。
「どう?」
「どうって。そんなこと急に言われても」
「考えてや」
「うん」
「あんまり長いこと考えてもあかんで。考えすぎるとわからんようになる」
もう一度、そうねと呟いて話を切った。目黒と結婚して、子供を産み育てるという生活を想像してみる。ヤクザの奥さんってどうなんだろう。小さい時は想像もしなかった現実が目の前にある。
この人は自分のことを最後まで愛してくれるだろうか。年を取り、容姿が衰えたら? 生まれた子供がそれほどかわいくなかったら? それでも目黒は愛し続けてくれるだろうか。
これまで付き合ってきた男たちと目黒は違うような気がする。でも、彼が気に入っているのは、やっぱり理香の容姿であり、内面を見てくれているわけではないとも思う。
何とも言えない寂寥感が理香を捕らえた。手に入れた現実と、逃げだせない現実が一緒になって目の前に転がっている。
タイムカプセルのことが頭に浮かんだ。食事の後に頼もうと思っていたけど、早いうちがいい。食事の後にそんなことを頼めば、目黒は切れるかもしれない。ホテルではなく、学校の校庭に行きたいなどと言えば――。
「ねぇ。お願いがあるんだけど」
「なに」と応えて相好を崩す。「なんだよ。あらたまって」
「私のこと、好き?」
「は? からこうとるんか? 俺の子を産めって頼んでる相手やぞ」
「だったら私のお願い、無償で聞いてくれる」
「むしょう? 何やそれ」
「わからないことがあっても、聞かないってこと」
「そいつは悩むなあ」
「断るんだ」
「いや、そうやないけど」
理香はぷいと顔を横に向け、外を流れる景色に目を移した。しばらくそうしていると、目黒の分厚い手が、理香の右手を捉えた。
「わかった。なんやねん。言えよ」
「ありがとう」と手を握り返す。
「ありがとうって……なんか怖いな」
「掘り出して欲しいものがあるの」
目黒の眉がぴくりと跳ねた。
「掘り出す……」
「うん。東山小学校の校庭に埋まっているんだけど、それを――」
「東山小学校?」
目黒が予想以上の反応を見せて、理香を振り返る。
「前!」
理香が前方を指差し、目黒が慌ててブレーキを踏んだ。信号待ちをしていた前方のトラックのテールランプが目の前に迫っていた。前のめりになった頭が反動で背もたれにぶつかった。
「あぶねぇ。おかまちゃんするとこだった」
「どうして、そんなにびっくりするのよ」
「いや、だって俺の運動神経が優れてなければ、今頃おかまちゃんだぜ」
「そうじゃなくて、東山小学校」
「あぁ。いや別に。いきなり小学校とか言うから」
と動揺を見せる。何がいきなりなのだろう。予想外の反応に少し怖気づいた。しかし一度切り出した話だ。途中でやめるのもおかしいし、こんなことを頼めるのは目黒ぐらいだし。まさか優斗に頼むわけにもいかないし、西川は口が軽すぎる。彼にこれ以上秘密を握られたくないとの思いもある。
「で、埋まっているものって何や? まさかタイムカプセルとか……」
目黒の言葉に目を見張った。
「どうして?」
「そうなんか?」
目黒が素っ頓狂な声を上げた。やっぱり何かあるんだ。警戒心がむくむくと膨れ上がった。
「なぜ、タイムカプセルだと思ったの」
「違うのか」
「そうよ。タイムカプセル」
「掘り返してどうするんや」
「理由は聞かないって約束したじゃない」
「そうやけど」
青信号で目黒は車を発進させた。前をまっすぐ見つめたまま、口を開きかけては閉じる。何かを話そうかどうか迷っているようだった。
「実はさ」と唇を舐める。「うちも掘るんだ。東山小学校のタイムカプセル」
「うちも……?」
「張真組」
「どうして? どうして暴力団が小学校に埋まっているタイムカプセル掘るのよ」
冗談ならそこそこおもしろい。しかし、このタイミングと、その澄ました顔で冗談が言えるほど、目黒にギャグのセンスはない。
「教えてくれないんだよ」
目黒は悔しそうに顔をゆがめた。どんどんとハンドルを叩き、クラクションが断続的に鳴った。小さく、あの多門の野郎と呪詛のように呟いた。
「多門って……」理香の声が揺らぐ。目黒から張真組組長の名前だと聞いていた。
「組長じゃねえよ。若頭代行。組長の息子が偉そうにしてるんだ」
理香は助手席のシートに背中を預けた。気分が悪くなった。気分を落ち着かせ、呼吸を整える。
「いつ掘るの。その張真組は」
「明後日の夜」
どうしてヤクザがタイムカプセルを掘ろうというのか。何が目的なのだろう。多門慎治の陰湿な細い眼を思い出し、身震いがした。
「ねぇ。掘ってくれる」
「だから掘るよ。俺も明後日の夜、集合かけられているから」
「そうじゃなくて。私と。手伝って」
「いつ」
「今夜よ」
「まじかよ」
小さく呟き、目黒は前方を睨みつけた。太い喉仏が上下に動く。
「掘り返してどうするんだよ」
「中に入っている物を一つ取りだしたら、タイムカプセルは元の場所に戻すは」
しかしなぁと目黒が思案する。
「お願い」
「埋まっている場所はわかるのか」
「だいたいわかるわ」
「理由は言えないんだな」
理香がうなずき、目黒はうなり声を上げた。
「どいつもこいつも。理由は内緒かよ」
と悪態をつき、急ハンドルを切った。路面の凹凸がシートを突き上げる。
「どこ行くの?」
「掘り出すには道具がいるだろう。シャベルを買いに行くんだよ」
目黒はアクセルを踏み込んだ。
⒔
いじめの理屈なんて、なんでもいいんだろうなと思う。
勉強ができないこと、できること。運動ができること、できないこと。金持ち、貧乏。ぶさいく。美人。明るい、暗い。きっかけなんて山ほどあるのだ。
――私は金持ちでぶさいくで暗いから、みんなに苛められるんだ。
と幸子は思った。
金持ちのシンデレラって、リアリティがないよなとも思う。ぶさいくなシンデレラだって、現実味がない。暗い性格のシンデレラ? 童話の中のシンデレラは酷い苛めを受けても健気に生きている。美人ならその姿は暗いと写らない。逆に読者は彼女の一生懸命な様子に心打たれるのだ。
幸子には少なくとも両親がいる。立派な家だってある。もちろん飢えるようなこともない。幸子の両親はどちらも公務員だ。年収が高いわけではないけど、祖父の代で所持していた山林を売却したため、かなりの資産がある。これまでお金に苦労した事など一度もなかった。でも、親が金持ちなことって、心の拠り所にはならない。
拠り所が欲しい。たとえ苛められるとしても、美人だからという理由なら許せるに違いない。美人であれば、たとえどんな酷いいじめを受けても、それが拠り所になる。
私は美人。いじめる人たちは私をねたんでいるだけ。そう思えるだけで、落ち込む事もなく明るく生きていけるに違いない。
幸子は目の前の色紙をぼんやりとみつめていた。こういういじめを思いついたとき、発案者はいじめを受ける人間の反応を想像し、いじめる側のみんながどれだけ楽しめるかを考え、微笑を浮かべるのだろうか。
色紙の中央に、茶色の蛍光ペンで「ばばっち さようなら」と書かれ、それを中心にして寄せ書きが並んでいる。
帰りの用意をしようと手を入れた机の中に、色紙が入れられていたのだ。蛍光ペンや鉛筆、ボールペンで書かれた文字がぎっしり埋まっている。寄せ書きの数はたぶんクラス全員の人数よりも多い。おそらくよそのクラスまで募って書かせたものだ。
普通の寄せ書きと違うのは記入者のサインがないこと。それでも数人は、自分が創造したいじめの言葉を誇るように、寄せ書きの横にサインを入れていた。
「あ~くさくさ お前はうんこか シン」
「クラス女子 最下位おめでとう 君と会えなくなってうれしいよ ブンブンより」
「どうして死んでしまわなかったの 死んだほうがみんなのためよ カナ」
「川上ババコよさようなら うんちより」
「中学校は別だよね♡ もちろんそうだよね♡ 絶対来ないでね♡ よろしくね☠」
なんて幼稚臭くいんだろうと歯を食いしばる。握り締めた両手が白くなっている。もう、後少しの辛抱だ。中学は私立に進学する。中学までは電車で三十分。同じクラスの子は一人も進学しない。そうなれば、この状況からも開放される。
でも、私がぶさいくで、性格が暗いことに変わりはない。いつまた苛めの対象になるかわからない。もう怯えた生活はいやだ。変えなきゃ。変化しなきゃ。おそらくこの先、明るい未来は待っていない。
幸子は机の下で両手の中に握り締めていた物を、揉みしだくようにしてちぎった。
机の中から色紙を取りだしたとき、寄せ書きの真ん中に写真が貼られていたのだ。
写真を見たとき血の気が引いた。見るに堪えず慌てて引き剥がした。写真を貼ったのはアクマに違いない。もしくはドラ。
写真は公園で撮られたものだった。涙を浮かべ口をゆがめ、Tシャツからブラジャーが見えていた。あまりにも醜かった。不細工だった。それが自分の姿なのだと自覚し、もう地面に這いつくばったまま立ち上がることさえ拒否したい気分だった。
色紙に最初から貼られていたのだろうか。この写真をシャルルも見たのだろうか。
悪意に縁取られた言葉の中に一つ、「さよなら」とだけ書かれた寄せ書きがあった。
控えめな小さな文字は、黒のフェルトペンで書かれたものだ。
字体に見覚えがある。シャルルだ。シャルルだけは幸子をいじめなかった。助けてはくれなかったけど、王子様にはなってくれなかったけど、少なくともみんなと一緒になって幸子を攻撃する事はなかった。
「さよなら」と言う言葉の中に、何かメッセージが含まれているような気がして、幸子は必死にそれを読み取ろうとした。「気をつけて。別の学校で新しい人生を生きてください。」シャルルはそうメッセージを残してくれたのだと信じたかった――。
「はい。静かに」
幸子ははっと顔を上げた。教壇に立つ先生と、同級生たちの後頭部が並んでいる。
「おーい。まだしゃべっているのは誰だ。うるさいやつはシャベルで校庭に埋めちまうぞ」
下校前のホームルームの時間。どんなに幸子がいじめを受けていても、一度も庇おうとしなかった担任の「男ダントン」がつまらない駄洒落を言った。
いつも駄洒落を言うたびに、生徒達は無視するかブーイングの声を上げたが、卒業を前にして、みんなテンションが上がっているのか、いくつか笑い声が上がった。
ダントンはシンデレラを苛めた継母のことだ。担任は男だから「男ダントン」。でも、性格は女の腐ったようにねちっこくて、陰険な大人。
男ダントンは厚手のビニール袋をみんなの前にかざし、「それでは来週の金曜日に、この袋に自分の宝物を入れてくるように」と言った。
「宝物じゃないとだめですか」
手を上げて質問したのはカトリーヌだった。目立ちたがり屋の彼女はいつも先生に質問する。
「掘り出せるのって、二十年後なんでしょう?」
大事なものを入れるのは嫌だもんとカトリーヌの甘えた声に、ジャンヌやしっぽが同調の声をあげ、男子の注目を集めた。
カトリ―ヌはうりざね型の頭に、大きな二重の目をしている。目の下の泣き黒子のことで男子に苛められることがあったが、それは苛められているのではない。男子が構って欲しくて、彼女の欠点を――男子も本人も決して欠点とは思っていないのだろうけど――冷やかしているだけだ。
童話では、シンデレラを苛める義理の姉カトリーヌは決して美人じゃなかった。だからどんなに着飾っても王子様に見初められやしなかった。しかしお話と現実とは違う。このクラスのカトリーヌは男子の人気の的だ。
「そうだよ二十年後だ。つまり君達が私の年齢になったときだな」と言って、ダントンは口元に笑みを浮かべ一拍置く。先生、年を偽らないようにと誰かが突っ込んでくれるのを待っている。しかし誰も何も言わなかったので、「いや。宝物でなくてもいい。二十年後の自分に伝えたい物ならなんでもな。二十年後の自分を想像して考えてみるんだ」と言った。
「えー。二十年後って、私三十二歳じゃん。おばさんやー」
カトリーヌが黄色い声を上げ、しっぽが大げさに手を振りながら、「そんなことないそんなことない。絶対まだかわいいって」とおべんちゃらを言い、男子がはやし立てた。
幸子は二十年後の自分を見据え、深くひっそりとため息をついた。
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