第5話
9
「謝れよ。ぶさいく」
アクマが幸子の頭の上から詰め寄っていた。幸子は跪き、視線を落とし、アクマの足元だけを見ている。アクマは黒地に金色のラインが入ったアシックスの運動靴を履いていた。足もとの地面を小さなアリたちがうごめいていた。
「お前がミスするから、うちのクラスは負けたんだ」
アクマが続けた。
「謝れよ。ぶさいく」
まるで呪文のように繰り返す。繰り返すたびに、自分の言葉に興奮して声を震わせる。おそらく、口の端に厭らしい笑みを貼り付け、幸子を見下ろしている。
公園にはアクマのほかにはドラと、キツネ。それにカトリーヌにジャンヌにしっぽ。その他大勢。ほぼクラス全員が集まっている。
幸子は、公園の真ん中で一人跪き、夕暮れの秋風にTシャツ一枚になった上半身を晒し、両腕で肩を抱き、震えていた。
ニットのカーディガンが傍らに転がっている。アクマに乱暴に引き倒されたときに脱げたのだ。
アクマが地面をけり、砂や小石が幸子の顔を叩いた。
今日、クラス対抗のドッチボール大会があった。逃げ回るしかない幸子が、なぜか最後までコートの中に残った。いつでもしとめられる幸子を、相手チームは最後まで泳がせていたのかもしれない。
いや、おそらくアクマからそうするように頼まれていたのだろう。
コートの外から、「ボールを取れ!」とみんなが叫んだ。
幸子は取る自信などなかった。逃げ回るのが精いっぱいだった。それなのに、みんなの声が体育館中に渦巻いた。仕方なく正面から来たボールを取ろうとした。緊張で凝り固まった両手は、胸の上で跳ねるドッチボールをうまく抑え込むことができなかった。
ほかの連中は相手に当てられ、早々にコートの外に出ていた。責められるとしたら彼らのはずだった。それなのに、負けた理由は幸子がボールをとれなかったからだとアクマが言い、みんながそれに同調した。
このクラスで、アクマの意見は絶対なのだ。アクマの親は悪いことをしてお金儲けをしているらしい。まるで自慢するかのようにアクマはみんなに言いふらしている。それを聞いて、クラスのみんなは怖がっている。そのことが、頭も体力も、決してクラスでトップというわけではないのに、アクマがこのクラスで親分面ができる原動力になっている。
下校間際のホームルームで、みんながひそひそ話をしていた。ときおり幸子に投げられる視線には、敵意や、蔑みや、嫌悪が入り混じっていた。僅かに同情の視線もあったけど、渦巻く悪意に掻き消されていた。
幸子は恐怖で体がすくむ思いだった。下校のチャイムが鳴り、一番先に教室を出た。早足で家までの道を急いだ。しかし先回りしたアクマとドラに捕らえられ、公園に連れてこられた。そしてみんなが追いついてきた。
魔女裁判。
公園の砂場を中心に、みんなで幸子を取り囲んでいる。
――私はシンデレラなの。
幸子は足元だけを見て、そう思い込もうとした。
――だからみんなに妬まれる。
きつく目を閉じる。繰り返しシンデレラを思う。しかし現実は知っている。シンデレラなんかではない。毛の生えそろわない白鳥の子供でもない、幸子は、ただの苛められっ子に過ぎない。
「謝れよ!」
アクマが幸子の肩を掴んで、思いっきり引き寄せた。ビリリと音がした。ざっくりとTシャツが切れ、幸子の薄い肩が外気に晒された。
「うげっ。ブラ見えたぞ! 気持ち悪!」
ドラが叫んだ。あまりのことに幸子は顔を上げた。握られたアクマの掌に、街灯の明かりを受けて微かに光るものがあった。カッターナイフだ。それで幸子のTシャツを切り裂いたのだ。
「きしょー」
ドラが鼻をつまんだ。カトリーヌが、ジャンヌがほくそ笑んでいた。
みんなのくすくすとした笑い声。味方は誰もいない。クラスの全員が敵だ。シャルルもこの公園にいるのだろうか。彼には見られたくない。彼が私を助けることもできないのであれば、せめて見ないで欲しい。でも、この苛めに参加していなかったら、シャルルも苛めの対象になる。
彼もクラスでは浮いている。本が好きで、争いごとがきらいで。
――あぁ、彼さえこっちを振り向いてくれれば。
今更みんなに相手にされたいとは思わない。シャルルさえこっちを振り向いてくれればそれでいい。一人でも見方がいれば、それだけで心強いに違いない。一人で耐えるのは、あまりにも辛い毎日だった。
「お前、うざいんだよ」
「ほんと最悪。なんで一緒のクラスになったんだろう」
「おい、携帯貸せよ」
「なんでだよ。自分のがあるじゃん」
「お前の画素数でかいだろう。いいから貸せよ!」
いじめられるきっかけなんて些細なことだ。クラスのボスであるアクマが、四月のある日、うちのクラスで一番不細工なのは幸子だと言った。そしてぶさいくランキングなるものをつけた。取り巻きのドラとキツネが悪乗りして、クラスで二十人いる女子のうち、幸子は百位だと言った。
それだけだった。幸子は泣くことも、怒ることもできず、それでいて無視することもできず、「そんなことないよ」と小さくつぶやいた。あのとき、怒っていれば今の状態にはならなかったのだろうか。無視していれば……。
「土下座しろよ」
アクマが言った。アクマはよくドラやキツネにも気に入らないことがあれば土下座させていた。土下座なんて言葉どこで覚えたのだろう。幸子は他人事のように考える。いやなことが続くと、自然と全てを否定したくなる。
これは現実ではない。現実ではない。私はシンデレラ。あきらめずに唱える。
「おい! 聞いてんのか」
髪を掴まれ、顔を引きあげられた。切れたTシャツを掴み胸元を隠す。涙が毀れた。引き結んだ口から嗚咽が漏れた。
アクマが携帯電話を構えていた。バシリとシャッター音がした。写真を取られたのだ。
ひひっと下品な笑い声。掴んでいた髪を投げつけるように離され、横に落ちていた幸子の習字道具が入った布袋を、ドラが踏みつけ足をねじった。
「土下座だよ! 早くしろよ!」
上ずった声。顔を見なくてもわかる。顎をつき上げ、鼻の穴を広げて怒っているに違いない。意識しないのに涙が出た。唇を血が出るぐらいに噛み締め嗚咽を堪えた。投げ出した足をゆっくりと引き寄せ両手を地面についた。
絶対、いつか、いつか、いつか。いつの日か、アクマもドラもキツネもカトリーヌも、見返してやるんだと誓った。
それが現実のものとなる確率なんて考えなかった。
とにかく、頭の中で復讐のイメージを膨らませた。それを破裂させないように歯を食いしばった。とめどもなく涙があふれた。
「こら!」
思いがけず大人の声がした。全体に緊張感が走るのがわかる。
「お前ら、何しとんじゃ!」
怒鳴り声と同時に、誰かが走り寄ってくる音。蜘蛛の子を散らすようにみんなが逃げ出す。
恐る恐る顔を上げた。涙に揺らいだ視界に、最初に飛び込んできたのは大きな下駄だった。太い鼻緒のついた四角い下駄。それを履いている男が、怒鳴り声を上げている。
ガッ、ガッ、ガッ。
下駄が公園の土を勇ましく削り、砂埃が舞う。下駄を履いた男は、インパラの群れに飛び込んだライオンのように、逃げ惑う同級生達を蹴散らす。
男は履いていた下駄の片方を脱ぐと、何のためらいもなく放り投げた。四角い下駄が逃げるアクマの背中に当たり、アクマは「うげっ」と悲鳴を上がる。一度膝をつきながらも、それでも必死に逃げていく。
男は下駄を投げたことも忘れたかのように片足に下駄を履いたまま走り回り、ひとりの男子の首根っこを捕まえた。
「おんどりゃ! 待たんかい!」
運悪く捕まったのはドラだった。一番からだが大きく、人相もよくないから首謀者と思われたのかもしれない。容赦なく乱暴に引き倒された。
「ひぃ!」
ドラは失神しそうになって、目をひんむいている。
「ごめんなさい!」
「よってたかった弱い者いじめか! 子供だろうとな、女を苛める男はクソのクソじゃ!」
ドラの耳元で男は叫んだ。ドラはがくがくと震えている。男は地面から引っこ抜くようにして、ドラを投げ飛ばした。ドラは漫画のように後ろ回りをして、地面に転がった。
苛めの現場に飛び込んでくるような大人だから、正義感の強い人だろうに、子供を子供とも思わない乱暴な扱いに、幸子は驚きを隠せなかった。ドラはかなり痛いはずなのに、必死に立ち上がると、逃げ去ったみんなを追いかけて道路の方に姿を消した。
公園には幸子と下駄の男だけが取り残された。人の姿が掻き消えた公園に寒風が吹き流れた。
「大丈夫か」
男は興奮で息が上がっているのだろう。はぁはぁと言いながら、幸子の手を掴み立ち上がらせてくれた。
大きく分厚い手だった。傍らに落ちていたカーディガンを拾い、バタバタと埃を振るうと、幸子の肩にかけてくれた。
「どこの学校だ」
答えようかどうか迷う。
「東山小学校だよな」
先に言い当てられた。この公園でたむろする小学生と言えば、東山小学校の生徒ぐらいだ。
「何年生だ」
「六年です」
「六年……」
男の声が詰まった。幸子は身を竦めた。怒られるのだろうかと思った。
「一人で帰れるか。おじさんが送ってってやろうか」
思いのほか優しい声だった。幸子はようやく下駄の男の顔を盗み見る事ができた。鬼瓦のような顔を予想していたが、意外と優しいげな顔をしていた。幸子の父と同い年ぐらいの男だった。一重瞼の下で、目が優しげに光っている。身長は幸子の父親より十センチは高い。太ってはいないががっしりとした体格をしている。少し眉を寄せ、心配そうに幸子を覗き込んでいる。
男の手が伸び、手の甲で幸子の頬をなでた。パラパラと砂粒が落ちる。
「大丈夫です。すぐそこですから」手のひらで涙をぬぐう。
「まぁ」と男は言った。「少し脅してやったから今日は寄り付かんと思うが……。もしかして君は六年三組か」
クラスまで言い当てられてはっとする。名札は付けていないからわかるはずはない。
「えぇ。そうです……」
「そうか。わかった。気をつけて帰れ」
男は口を引き結び、幸子の肩をトントンと叩いた。
王子様だ。と思った。年はとっているし、下駄をはいているから、白馬も、きらびやかな衣装も似合いそうに無いけど、その凛々しい顔立ちは、まさしく王子様のそれだった。
いや……。
もう一度男の顔を見て訂正する。王様だなと思う。威厳があり、強い。何者も寄せ付けない絶対的な力を持った王様。
もしシャルルが。と思う。
もしシャルルがこの大人のように強い力を持っていたら、私を助けてくれるのにと妄想する。幸子はお礼を口にして公園を後にした。
公園の出口で振り返ると、男はまだ幸子を目で追っていた。幸子は小さく頭を下げて家路を急いだ。
10
大村優斗は理香の白く滑らかな背中に手を触れ、余韻を楽しんでいた。少し茶色に染まった彼女の髪が、首筋から肩にかけて流れコントラストを醸し出している。
理香はうつぶせのまま小さく寝息を立てていた。きれいだなと思い、手のひらで滑らかな背中を堪能する。敏感肌だからと日焼けや虫刺されに気を使っている彼女の肌は、白く滑らかな陶器のようだ。
これまで優斗は何人かの女性と付き合ってきたが、彼女といると不思議と落ち着くことができた。ときおり見せる気まぐれや、つんとした態度。自己主張や我儘。その中に優しさと臆病さが同居している。そのどれもが心地よかった。
彼女と結婚できたらと想像する。おそらく二人はハリウッド映画に出てくる幸せな夫婦のように、いつまでも愛し合う家庭が築けるのではないかと思う。ただし、そのためにはもっと彼女の事を知り、お互いに話し合い、理解し合うという条件がつく。彼女と付き合い始めて半年が経過したけど、未だに壁を感じていた。付き合い始めたカップルの初々しさというか、恥じらいからくる距離感ではなく、意図的に差し込まれた透明なフィルムが、互いの間に存在して、常にそのフィルムを通して触れ合い、探り合っているような感じがするのだ。
そのフィルムを差し込んでいるのは理香で、薄く頼りないフィルムを破る事も、押しのける事もできないのが優斗だ。
この前繁華街で出くわした黄色頭のことは気になっている。頬や口の中の痛みは随分ましになったけど、理香と黄色頭との関係を疑う気持ちは、消えることなく心の中で燻っている。考えても考えても、思考は堂々巡りをするだけで、答えが出ない。当たり前だ。と思う。当人に聞かずに自分の頭だけで答えを導き出せるような問題ではない。
理香が男性関係に奔放であることは気が付いていた。携帯電話にはひっきりなしにメールの着信や電話がかかってきたし、そのたびに理香は、優斗に断り一つ入れて電話に出たし、メールの返信をした。電話の相手が、あの黄色頭のときもあるのだろうか。
彼女には謎が多かった。年齢は優斗より二つ下だと言っていた。会話の端々から同年代だということは察しられた。しかし、時折見せる冷めた雰囲気はずっと年上のように思える時もあった。
一人暮らしをしているらしいことはわかっていたが、彼女の住んでいる場所も知らなかったし、家族構成も知らなかった。仕事は駅前にあるフィットネスクラブの受付。大村と同様に就職せず、アルバイトをして生計を立てている。ただし決してお金に困っているとか、つつましく生きなければならないといった雰囲気はなく、彼女はその美貌を、それを引き立てるのに必要な服やアクセサリーで着飾っていた。
おいおい知ればいいことだ。優斗は自分に言い聞かせる。もっと親密な関係になれば、彼女から教えてくれるだろう。
――逃げるのか、優斗。
頭に父の顔がよぎり、蔑みの言葉を浴びせてくる。
何でもかんでも逃げる逃げないで判断するのは間違っている。急いてはことを仕損じるってことわざもあるし、僕には僕の生き方がある。そう反発しながらも、父の言葉が強いトラウマになっていることは事実だった。
うん。と唸って理香がゆっくりと体をひねった。
彼女の頭が優斗の肩に触れ、白く長い指先が、彼の胸元を物憂げに探った。
「寒くない?」と優斗が聞く。
掛け布団を引き上げて、彼女の胸元までかけてやった。ぼんやりと開いた視線を受けとめながら、微笑み返す。
「ねぇ」と形の良い理香の唇が動いた。
彼女が何か言おうとしたとき優斗の携帯が鳴った。ちょっと待ってと声をかけ、着信の相手を確認する。
「わっ」と思わず声を上げ、ベッドの下に落ちていたパンツに足を通した。「母さんだ」ベッドを離れ、部屋の隅に移動する。といっても理香との距離は歩幅で三歩ほどだ。
「もしもし」
《あぁ。優斗》
岡山で暮らす母は、こまめに一人息子にメールを送ったり電話をかけてきたりする。煩わしいと思いながらも、むげにはできなかった。
《いま何してるの》
挨拶程度にしか意味のない言葉とわかっていても、優斗は動揺して、「何って、何もしてないよ!」と力を込めて応えた。そんな様子に母は気づく風もなく、《おとうさんが、またどこかへ行ったの。そっちへ行ってない?》と言った。
溜息を一つつく。父が家族に何も告げずに姿を消すことは、これまで何度もあった。家族三人で大阪に住んでいる頃は、父はしょっちゅうどこかに姿をくらまし、そろそろ心配になってくる頃にひょっこりと帰ってきた。それが十日間ほどのこともあれば、長い時で一か月の時もあった。
岡山に引っ越してからは母の祖父の後を継いで始めた農業が性に合っていたらしく、放蕩癖も納まっていたのだが。
《どこへ行ったのかしらねぇ》
と母は続ける。それほど心配している様子ではない。おそらく数日か、数週間すれば何事もなかったかのように帰ってくる。時々、子孫繁栄の冒険に出た雄猫のように、けがをして戻ってくることがあるけど、少々のことでへこたれるような人ではない。
《もし、そっちに行ったら、戻ってくるように言ってくれる?》
「僕のアパートのこと、父さんに話したの?」
《話してないわよ。でもねぇ。あの人のことだから見つけようと思えば簡単に見つけると思うわ》
確かに、どこに身を隠そうとも、父が見つけようと思えば簡単に見つけられるだろう。以前三人で暮らしていた家とは最寄りの駅も違うけど、父の嗅覚をもってすれば息子の住処を特定するぐらい容易だと思わせるほど、父には野性的なところがある。
「気苦労が絶えないね」と同情の言葉を述べる。
《いいのよ。お父さんのこと愛しているから》
と五十の坂を越えた母は臆面もなく息子にのろけた。あろうことか、今でも母は父を愛しているらしい。
確かに、なんだかんだ言いながら、父は母を大事にしているのかもしれない。行き先を告げず姿を消すことがあっても、母や優斗に暴力を振るうようなことは一度もなかったし、旅から帰って来て、母が怒っているときは、まるでミルクをせがむ子猫のように謝りながら母の後を付いて歩いては機嫌を取っていた。
母はしばらく世間話を続け、息子の声を聞いて安心したのか明るい声でおやすみなさいと言うと電話を切った。
「お母さん?」
振り返ると理香がベッドに腰かけていた。すでにざっくりとしたTシャツを着ている。残念だなと優斗は思った。
「うん。親父が脱走したらしい」
「脱走?」
「よくあるんだ」
ふーんと返事をして理香は立ち上がると、形のいいふくらはぎを見せながら、ユニットバスに入って行った。仕方がないので優斗もジーパンを履きTシャツを着る。
風呂場からシャワーの音が聞こえた。
理香の後、優斗もシャワーを使い、風呂上りに二人でビールを飲み、そしてチャーハンを作って食べた。
先に卵にまぶしたごはんを、チンチンに焼けたフライパンで作るチャーハンは優斗の得意料理だった。まるで中華料理店で作ったチャーハンのように、ご飯がぱらぱらとして美味い。
「ねぇ。これ」
机の上から理香は封筒を取り上げた。東山小学校から送付されてきたタイムカプセル発掘イベントの案内状が入った封筒だ。
「中、見てもいい?」
「いいよ」
封筒から手紙を取り出すと読み出した。『Water Planet』に持っていっていた出欠のハガキは、既に出席で投函済みだった。
彼女の横顔を見つめる。少し秀でた額に前髪が流れている。きれいな睫が、横顔のアクセントになって、少し上向きの鼻先がかわいらしさを演出している。優斗の視線に気づき、理香は目を合わせ、微笑んだ。
「優斗は何を埋めたの」
記憶を呼び覚ます。卒業式を一ヶ月ほど先に控えた日だったと思う。担任の先生から全員に透明のビニール袋が配られた。
タイムカプセルは十人に一つあてがわれていた。すでに高齢化が進んでいた校区だったから、生徒数は少なく、六年生は六十人にも満たなかった。タイムカプセルは全部で六つ。両方が丸まった砲弾のような形をしたステンレス製のカプセルは、子供ならやっと抱えられるほどの大きさだった。
「なんだったかな」と当時を振り返る。「自分が大事にしていたおもちゃとか、いろいろ」
と応えたけど、中に入れたものははっきり覚えている。当時の自分にとっては大事だったもの――。そしてもう一つ。後悔と懺悔を埋めたのだ。
頭の中を苦い思い出が過ぎる。ちくりと心が痛む。封印したはずの、悔恨の思いは、タイムカプセルの中ではなく、今でも心の中でわだかまりとして残っていた。
「全員で掘り出すのかな」
「たぶんね。僕らの学年だけじゃないからね。掘り返す日は日曜日の朝だし、卒業記念にタイムカプセルを埋めたのは僕の年代も入れて十年間だから、対象者は五、六百人かな。半分来ても三百人ぐらいになるよ」
「三百人か……」
「参加できない人は学校まで取りに行けばもらえるらしいよ」
「イベントに参加するの?」
「そのつもり。同級生にも会えるしね」
会いたい同級生は片手にも満たないけど、それでも懐かしかった。卒業してから十二年が経過している。消息を知っているのは僅かに一人二人。干支一回りの年月がどれだけみんなを変えているのだろうか。
「理香の卒業した学校でも、何か行事あった?」
「うん……どうだったかなぁ。あまり覚えてない」
封筒を机に戻し、理香は考えるように天井を見上げた。
「記念樹を植えたような気がする」
「そっちの方が一般的かも。もみじとか、桜とか」
「桜だったかな」とそっけなく答え、テーブルに両肘をつき、長く細い指を額に広げて雑誌に目を落としている。なんだか少し気まずくなって、黙ってお茶をすする。
「ねぇ」理香が口を開いた。「私の過去、気になる」
啜っていたお茶が喉を焼いた。嘘をつくべきか、本心を言うべきか迷った。もう飲みたくなかったが、さらに一口お茶を啜り、
「気になると言えば気になる」
と応えた。
そうよねと理香が呟いた。話してくれるのだろうかと期待と不安でそわそわしながら待った。意味なく湯呑を手のひらで弄び、理由もなく湯呑の中を覗き込んだりしながら待ったけど、理香は口を開かなかった。無言の時間に耐えることができなくなって、「僕の過去は気にならない?」と問いかけていた。
「何かあるの?」
「何かって……そりゃ特殊な事はあまりないけど。あるとすれば、無茶苦茶な親父と、その無茶苦茶を受け止める事のできる母親に育てられたことぐらいかな。後は平々凡々」
「なるほど。素敵なお母さんね」
「理香のご両親は? どんな人?」
「そうね。常識を重んじる普通の人」
「常識ね。それがいいよ。僕も常識的な父が欲しかった」
微笑みかけるが理香は髪に手櫛を入れ、少し寂しそうに笑い返してきた。
「一緒に住んでないの?」
詮索の糸口をつかんだ優斗は、さらに問いかけた。
「死んじゃったの」
「……ごめん」
「いいよ。気にしないで。交通事故だったの。お父さんが運転していて母は助手席に乗っていたの。すごい雨の日だったからスリップして、それで終わり」
「幾つの時」
「私が中学三年生のとき」
「まさかそれから、ひとりで過ごしてきたの」
まさかと呟いて、理香は雑誌に視線を戻した。視線を一か所にとどめたまま、雑誌のページが繰られていく。わずか一秒ほどの沈黙だったけど、その沈黙に耐えられなかった。これ以上、聞いてはいけないような気がした。
「あぁ、そうだ」
川上秀和と名乗る男が、奪われた財布を取り戻してくれ、水草屋まで届けてくれた事を思い出した。しかし理香には、繁華街で遭遇した災難については話していない。だから、「この前、財布を落としたんだけど。その財布を店に届けてくれた男の人がいてね」とストーリーを映画の予告篇並みに省略して切り出した。
「どこで落としたの」
「えっと、駅……だったかな」
「駅に届けずに、わざわざ店まで届けてくれたの」
「うん。まぁ、そうみたい。で、すごく変わった人だった」
「変な格好をしているとか」
「いや、見掛けは普通なんだ。というより男前の部類に入るかな。財布を届けてくれたのはいいんだけど、別れ際に私と君が一番合うとか何とか、そんなことを言われたんだ」
「合うって、何が?」
「えっと」その時のシチュエーションを思い出してみる。「感性かな」
「その人の感性と、優斗の感性が合うってこと?」
「たぶん」
「性の対象として誘われたとか」
理香が悪戯っぽく笑った。優斗は思わず自分の手のひらを擦り、最悪の一日の、最初の災難について思い出す。
「そうじゃないけど」と否定しながら、もしかしたらそういうことかと考えていた。
「店の中の水槽にはまったく反応しなくて、壁に貼られているポスターに反応するような人だから、僕には合わないと思うけど」
「ターナの絵?」
「そう」
「優斗、あの絵のことあまり好きじゃないって」
「そう言ったよ」
「その人もターナの絵が嫌いなんだね。だから優斗と合うと思ったんだ」
「いや」といって考える。「違ったと思う」
あの後、川上秀和と名乗った男は、水草がレイアウトされた水槽をさっと見て、「また来るよ」といって帰っていった。決して水草の世界に興味を持ったわけではないと思う。そうなると、優斗に対して興味を持ったということか。
川上に対して不快感はなかった。しかし馬が合うというのとは違う。付き合えば振り回される事になるだろう。
メールの着信音が響いた。理香が鞄を引きよせ携帯電話を取り出す。彼女が文面を読み取る間、そっとその様子を盗み見ていた。もう帰ると言い出すかもしれない。黄色頭のことが頭をよぎる。
嫉妬と少しのビールが、いつも踏み越えることのできない壁に挑む勇気を与えてくれた。
もし、と考える。
もし彼女が帰ると言い出せば、メールの相手は誰で、その誰かと会うつもりなのかと問いただそうと思った。彼氏として当然の反応だと自分に言い聞かせる。
――逃げるな優斗。逃げれば必ず後悔する。
許可もしないのに、いつも頭の中を土足で駆けまわる父の言葉を、今日は後押しにして覚悟を決めた。理香は携帯を閉じ鞄に戻した。優斗は決意を固め緊張する。
「ねぇ」
理香が言った。
ゴングを待つデビュー戦のボクサーのように、優斗は緊張して理香の言葉を待った。待つ時間が一秒の十分の一伸びる間に、その決意は穴の大きすぎる砂時計のように崩れていく。
「DVD見ないの?」
「え?」
思わず、帰らないの? と聞き返しそうになる。肩に入っていた力がすとんと落ちた。
「うん。見よう」
優斗はいそいそと借りてきたDVDを取り出した。一昨年バカ売れした純文学小説を映画化したものだ。その小説を理香が読み、おもしろいからと優斗に貸してくれた。映画の評判は芳しくなかったが、あのシーンをどう映像化しているのかとか、作品全体に流れていた排他的な雰囲気の中に、主人公の純愛を、どう具現化しているのかとか、そんなところに興味があったから借りてきたのだ。
再生機にDVDをセットしながら、大村優斗は密かに安堵のため息をついた。
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