第2話


「このエキノドルス。大きすぎると思うよ」

 大村優斗が作成中の水槽を覗き込み、常連客の玉城さんが言った。

「百二十センチの水槽ならわかるけど。これではバランスが悪い」

 長さ九十センチ、高さ四十五センチ、奥行き四十五センチの水槽に、レイアウトされた水草が青々と茂っている。葉が大きく、背丈も高いエキノドルスは水槽の正面を左側から見て四対六の位置で自己主張していた。

 「Wataer Planet」は十坪ほどの店で、大小様々な水槽が壁際や店の中央に島となって並んでいる。

 水槽の中は世界中の緑色を集めてきたかのように、みっしりと水草が生い茂っている。中には赤っぽいものや、黄色ぽいものが混ざっており、小さなジャングルを形成し、その間を色とりどりの熱帯魚が優雅に泳いでいた。優斗が作成中の水槽は店の一番奥の壁際に設置されていた。

「そんなことないですよ。エキノドルスのおかげで、全体の印象が散漫にならずにすんでいるんですから」

 コンテスト応募用の水槽だ。陰性と陽性の水草を大胆に配した構図は確かに大胆で野心的かもしれない。しかし、自信はあった。成長のタイミングさえうまく合えば入賞だって夢ではないと思っている。

「そうかなぁ。メインプラントにするなら、もう少し真ん中寄りの方がいいんじゃないかなぁ」

 玉城さんはその四角い顔を水槽に近づけ、右から見たり、左から覗きこんだりしながら、疑問の声を上げた。

 彼は陰性の水草の代表格であるエキノドルスの収集家だ。自宅にはエキノドルス専用の水槽が五つあるらしい。アクアリウムを趣味とする人は決して多くはないけど、彼のような収集家が店を支えてくれている。

「撮影前に少し右の葉をトリミングするつもりなんです」

優斗は玉城さんと顔をそろえながら水槽の中のエキノドルスを指差した。

「そうすればバランスも良くなります」

「うげ」

 と玉城さんはわざとらしく顔をしかめた。優斗に渋面を向ける。

「君がトリミングすると言ったのは、エキノドルス・ホレマニーグリーン・ブロードリーフ・レッドエッジだよ」水草の正式名称を、玉城さんはよどみなく口にした。

「えぇ」

野生種ワイルドだよね」

「そうですね」

「それを切るんだ」

とぼやいた。もったいないなぁとつぶやき、欲しいなあと続ける。そして盗んじゃおうかなぁと物騒なことを言った。

 玉城さんの言いようがおかしくて、思わず頬を緩め、怪我の痛みに顔をしかめた。

もうすぐ定年退職を迎える大人のセリフではない。玉城さんはまだ子供心をたっぷりと残した五十代だ。

 小さい頃から電車が好きで国鉄に就職したけど、民営化のときにこの街に開通したモノレール会社に転職したのだそうだ。今ではモノレール駅の駅長をしている。

 時々、「大村君。自動車専用道路の上空を走っているモノレールは、油が落ちたりしないように太く作られているんだ。人だって走れる」とか、「鉄道の歴史とモノレールの歴史は同じ時期に始まったんだ」とか、「日本最初のモノレールは懸垂型だったんだ」など豆知識を披露してくれる。

 エキノドルスと鉄道の話になると時間を忘れ、目を輝かせて話し続ける。

 仕事帰りによくこうして店に立ち寄るため、週に二、三回は顔を合わせていた。玉城さんは店長のことが苦手らしく、店番が店長だけだと外から水槽を眺めるだけで中には入らないそうだ。

「なんだかさ、お宅の店長、浮世離れしたところあるよね。何もかも見透かしたような視線をしててさ。苦手なんだよなぁ」

 と評する。確かに店長の生活は浮世離れしていると思う。親の代から受け継いだマンションを三つも持っていて、お金に不自由していないからこの仕事を続けられるんだと言っていた。この店が入っているマンションも全て店長が所有している。

 四十歳を越えて結婚もせず、悠々自適の人生を送っている。どこか世間を上空から俯瞰しているような雰囲気がある店長は、玉城さんのように人懐っこい人には、とっつきにくいのかもしれない。

 玉城さんは店の中をうろつくと、大家に言ってアパートの階段には電気をつけてもらった方がいいよと、優斗が説明した怪我の理由について触れ、お大事にと言葉を残して帰って行った。

 そろそろ店じまいと思い、数十本ある水槽をチェックしていく。百二十センチ水槽の一本にアオミドロが少し出ていた。メンテナンス用のホースを突っ込み、糸状のコケを指で絡めとりながら吸い出していく。少し光量を落とした方がいいかもしれないなどと考えていると、

「優斗」

 と名前を呼ばれ、振り返った。

 沢木理香が店の入り口に立っていた。

 優斗は水槽に突っ込んでいたホースを取り出し、小さくため息をついて、「やぁ」と応えた。

 理香はダークグレーのカーディガンに同系色のキュロットを合わせ黒のレギンスといういでたちだった。地味な色合いの衣装を身につけても、彼女の持つ雰囲気はどんな熱帯魚にも劣りはしない。

 彼女と会うのは二日ぶり。メールのやり取りはあっても、決して頻繁に会えるわけではない。

 バイトとかいろいろあって忙しいの。というのが彼女の言い訳。バイトとか、の「とか」には黄色頭とデートすることも含まれているのかと問い詰めたら、彼女はどんな反応を示すのだろうか。

「どうしたの」

 理香は驚いた声を上げ、形のいい眉をひそめ、優斗に近づいてきた。

頬に貼ったガーゼの上から細く長い指でちょんちょんとつつく。後頭部のガーゼにも気づき、同じ動作を繰り返した。

「トイレで転んだんだ」

「家のトイレ?」

「いや。公衆便所」

「ふーん。それで、床でバウンドして、頬の次に後頭部を打ったわけ? それとも後頭部を打った後に、バウンドしてほっぺたを打ったわけ?」

お医者さんに行ったの? 痛みはないの? と続けた。

「ありがとう。まだ少し痛むけど大丈夫だよ」

 トイレで出会った川上という男のことを思い出した。

 あれから彼はどうなったのだろう。財布を取り返すと言っていたが、取り返した財布をどうやって優斗に届けるつもりだったのか。

 約一万円の現金と、ツタヤの会員証、クレジットカードが手元に戻ることはないとあきらめ、クレジットカードは既にカード会社に利用停止の手続きを終えていた。使われた形跡がなかったことがせめてもの救いだ。

 理香に怪我の理由を正直に話せば、黄色頭との関係を教えてくれるだろうか。

 理香が、あの男と付き合っていることなどあり得ない。

 理香は優斗の彼女だし、理香は暴力的なことが嫌いだ。そして――。

 彼女が浮気をしていないという根拠を並べようとしたがそれ以上出てこなかった。

別の方向から理由を考える。理香は黄色頭に弱みを握られ、脅されて無理矢理付き合っているのではないか――。

 黄色頭と歩いていた時の理香が、笑みさえ浮かべていたことを思い出し、その想像は煙のように形を失った。

 でもあの笑みはどこかぎこちなかった。いつも優斗に見せる笑みとは大違いだ。たぶん。そう。二人はただの知り合いだ。

 都合のいい解釈に逃避していることを自覚し、思わず顔を顰めた。

「痛むの?」

「いや。大丈夫。そうだ、アベニーパファーは元気?」

 数ヶ月前にプレゼントした淡水フグのことを口にした。

 大人になっても二センチほどの大きさにしかならない魚で、大きな目と、そのずんぐりとした体型に愛嬌がある。初めて店の水槽でアベ二ーパファーを見た理香は、目を輝かせ水槽の前に釘付けになっていた。

「うん。元気。毎日私が帰ってくるのを待ってるわ」と目を輝かせた。「彼女に恋人を買ってあげた方がいいと思うんだけど」

「そうだね。今度入荷した時におとなしそうな個体を探しておくよ」

 アバニーパファーは愛らしい姿とは異なり、気性が荒い。ほかの魚を攻撃して殺してしまうこともあれば、同じ種類同士でも反りが合わなければ、どちらかが死ぬまで突き合うため、混泳させる魚には気を使う。

「そうだ。スネイルを集めといたから」

 水槽の側面に吸盤で固定していた産卵ケースを取り出し、ケースの中に入れておいた小さな貝を指先で集めた。

 スネイルは大きいものでも数ミリ、形も色も様々で、水草などにひっついて水槽に持ち込まれるケースが多い。繁殖力が強く、放置しておくと水槽のガラス面に小さな貝殻が這い回る事になる。

 アベニーパファーはスネイルが大好物だった。くりくりと動く目玉でスネイルを捕捉すると、小さなヒレを動かしゆっくりと近づく。慎重に、そして大胆にスネイルの周りを調査し、狙いを定め、殻の上からかぶりつく。

 集めたスネイルを、水槽の水を満たしたビニール袋に入れ水槽に浮かべる。帰るときに持って帰ってと理香に伝えた。ありがとうと理香が応える。

 理香がこの店を初めて訪れたのは半年前で、優斗は理香に一目惚れをした。

理香がこの店の入り口を潜る動機になったのは、外に飾られた水槽の美しさに魅せられたからで、そのことも彼女を好きになった理由の一つだった。淡水に生息する水草を使い、水槽の中に森や魚の遊泳空間を創出するレイアウト水槽の美しさを理解してくれる女の子に感動したのだ。

 彼女が何度か来店し、そのたびに二人で話す時間が増えた。遊びに行きませんかと誘ったのは理香の方で、優斗はその誘いに有頂天になった。これだけの美人が自分に興味を持ってくれたことがうれしかったし、二人で話す時間を重ねるたびに、彼女の価値観や内面にひきつけられるようになっていた。読書や映画の趣味は優斗と一致していたし、二人で観た映画の感想を言い合うときは非常に楽しかった。

「今日、お店何時まで」

「一応、六時かな」

「優斗、一人なの」

「うん。店長はまだ旅行中だから」

 店長は、一週間前から東南アジアに水草採集旅行に出かけている。その間、店の切り盛りはアルバイトの優斗に任せっきりだった。何せ店で扱うのは数百種類の水草と、数十種類の熱帯魚だから、誰かが世話をしなければならない。

 優斗はこの店で週五日、アルバイトをしていた。その他中学生の家庭教師をして生計を立てている。東京の大学を卒業して大阪に帰って来て、大手のペットショップに就職したけど、二年もしないうちに倒産。とりあえず生計を立てるために、以前から知り合いだったこの店の店長にアルバイトとして雇ってもらったのだ。そのとりあえずが既に二年続いている。

「店長さんって悠々自適よね」

 理香は壁に貼られたターナの絵に目をやった。店長のお気に入りの絵だ。

 題名は「雨、蒸気、速度――グレートウエスタン鉄道」。

 草原を、水煙を上げて疾走する機関車が描かれている。

 ダークグレーの服に身を包み、ゆっくりと水槽を観察して回る理香は、まるで緑豊かな湖岸を優雅に泳ぐ黒鳥のようだ。カウンターに近づいた理香は、優斗が広げていた雑誌を取り上げたパラパラとページを捲る。

「すごくきれい」

「去年の世界水景コンテストの作品集なんだ。二十八位に店長の写真が載ってるよ」

「二十八位って、なんか微妙だね」

「応募総数が千二百を超えているんだ。百位以内が入賞。二十八位はすごいよ」

 優斗は現在作成中の水景を今年のコンテストに応募するつもりだった。玉城さんにはケチをつけられたけど、その大胆で斬新な構図は、そこそこの結果を残してくれるだろうと期待していた。

 雑誌から一枚のハガキが床に落ちた。

 ごめんと謝り理香が取り上げた。ハガキを雑誌に挟みなおす彼女の動きが止まり、形の良い眉が額の中心に寄った。

「これって……」

「あぁ。僕が卒業した小学校から送られてきたんだ。岡山の実家に届いたんだけど、親がこっちに転送してくれたんだ」

 出欠を知らせるための返信用のハガキだった。ポストに投函しようと思い、栞代わりにしていたのだ。

「小学校が統廃合でなくなるんだ。それでタイムカプセルを掘り出すことになったんだ」

「タイムカプセル……」

「そう。六年生の時に卒業記念に埋めたんだ。ほんとは二十年後に開封する予定だったけど。学校用地が売却されることになって、八年早く掘り出すことにしたんだって」

 当時、優斗の通っていた東山小学校では卒業生がタイムカプセルを埋めることが恒例行事になっていた。

 タイムカプセルの事を考えると心が疼く。部屋の片隅にビニール袋に包まれた銀色のカプセルが大量に転がっている光景が頭に浮かぶ。イベントには出席するつもりだったけど、その疼きが出席ハガキの投函を先延ばしにさせていた。

 学校の裏庭にタイムカプセルを埋めたあの日、もう春の声が聞こえている時期だというのに、前夜に雪がちらつき、地面のところどころが白く染まっていた。

空気はひりつくほど冷たくて、みんなの吐く息が、白い煙となって空中を漂っていた。

 あの日は、世間を騒がす事件が学校の直ぐ近くのマンションで起こった翌日だったから、学校のまわりにはパトカーや警察官の姿があり、時おり報道のヘリコプターが音を立てて空を飛んでいた。

「十二年前にあった事件、覚えてない? 全国紙でも扱われたんだけど。うちの学校の近くのマンションで若い男の人が拳銃で自殺した事件があったんだ。カプセルを埋めた日が、その翌日だったからよく覚えているんだけど」まだ小さかったから、怖くてさと続ける。

 自殺した青年が麻薬を所持していたとかで、テレビでも取り上げられ、一時は大きな話題になった。

「知らない」と理香は応え、はがきを雑誌の間に戻すとぱたりと閉じた。

「やっぱり私帰る」

「え?」

「用事思い出しちゃった。ごめんね」

 理香はじゃぁと手を挙げ店を出ていった。

「なんだよ」

 いつもの気まぐれだった。気持ちがころこころかわる。まるで猫だ。猫は飼ったことがないからイメージでしかないけど。

「なんだよ」

もう一度、今度は深く長い溜息と一緒に呟く。

彼女に渡すはずだったスネイルの入ったビニール袋が、水槽に浮かんでいた。




「せい!」「せい!」「せい!」

 道場に、子供達の甲高い気合が響き渡った。二十人程度の子供達が白い胴着を身に纏い、黄色やオレンジ、緑色の帯を締めて正拳突きを練習していた。

「せい!」「せい!」「せい!」

 六回目の掛け声が高々と響き。上段突きの練習を終えた全員が姿勢を戻す。

「胴着を直して!」

 目黒浩一は地声を張り上げた。

 空手着を羽織った将来の空手家たちはくるりと反転して、胴着や帯の乱れを直すと向き直り、両手の拳を腰の横で固めた。

「次、前蹴り! はじめ!」

 子供達が右、左と交互に足を突き出す。一回、二回、三回。無言で繰り出される蹴り。六回目で、「せいや!」と気合いを飛ばした。

「声がちいさい!」

 目黒の叱責が飛ぶ。

「せい!」「せい!」「せい!」

 今度は一つ一つの蹴りと合わせ気合いが発せられる。畳の上を素足がこする音。ぐんと伸びるように突き出される足。六度目の掛け声と同時に全員が基本姿勢に戻った。

「胴着を直して!」

 居並ぶ小さな背中を見つめながら目黒はすっと息を吐いた。向き直った子供達を見渡し、「甲(こう)介(すけ)!」と列の一番端で小さな体を目一杯大きく見せようと胸を張る少年に声をかけた。

「気を抜くな! 前屈立ちやろ! 足伸びとるぞ!」

「押忍!」

 甲介年は腕を胸の前で交差させて頭を下げた。

頭髪を真ん中だけ長く伸ばして、鬣のようにしている。色黒で丸顔のコウスケによく似合っている。小学校五年生にしては小さい体だが、気が強く眼力は誰にも負けていない。目黒の視線から顔を逸らす事もなかった。まだ無垢なその眼差しに、何でも吸収してやろうという気概を感じる。

 目黒も十年前に空手を始めたとき、その面白さに虜になった。誰に言われるともなくひたすら基本動作を繰り返した。突きの練習、前蹴り、下段蹴り、上段回し蹴り。道場で習った技を無心に繰り返した。

 一つ技を繰り出すたびに少しずつぎこちなさが取れ、スムーズに体が動くようになる。さらに練習を積めば、動作が滑らかになり、力強く素早いものへと昇華していく。その過程がおもしろかった。

 空手で組手練習をしているときは、自分のエネルギーを全て解放できる時間だった。誰も止める者はいない。いくら相手に渾身の突きを叩き込もうとも、思いっきり放った前蹴りを腹にめり込ませようとも、褒められることはあっても叱られることはない。

 相手も簡単にはやられてくれない。目黒が放った突きと同じ数だけ、歯を食いしばり、殴りかかってくる。無心に体を動かすことのできる空手は、目黒にとって不可欠なものだった。あの頃はまっすぐだったと自分でも思う。

 後ろ蹴りの基本動作を繰り返すよう指示し、少年達の列の間をゆっくりと歩き、細かく動作を修正していく。これが終われば回し蹴りの基本動作を練習させる。

 入口の上にかけられた時計に目をやると同時に、胴着に黒帯を締めた男が入ってきた。道場の前で頭を下げ、目黒に目配せを送る。道場主の佐門師範だ。三十分は遅れると言っていたが、思いのほか早い到着だった。気合を発する少年少女に目をやりながら、目黒の横に移動してきた。

「押忍!」

 目黒は胸の前で交差させた腕を腰の横に振り下ろし、頭を下げた。佐門は頷き、壁際に身を引いた。

 基本練習は終わっても佐門は壁際で腕を組んだまま動かなかった。どうしますかとの目黒の視線での問いかけに黙ってうなずく。このまま指導を続けろとの意味だ。目黒は続けて型の練習を指示する。

 二十分ほどの型の練習が終わると、ちらりと佐門に視線を送った。相変わらず壁際で腕を組み佇んでいる。

 目黒は子供たちにヘッドギアと防具をつけるように指示を出し、全員を道場の四周に座らせた。二人ずつ中央に立たせ、一分交代の組手練習をさせる。

 まだまだ未熟な技を必死に繰り出す少年少女を見ていると、目黒も熱を帯び始め、佐門の存在を忘れて大声で指導していた。約一時間半の練習が終わったとき、目黒は心地よい疲労感に浸っていた。

「押忍! ありがとうございました!」

 道場を去る子供達が、次々と目黒の前に来ると、挨拶をして帰っていく。道場の外には迎えに来た母親たちの顔が覗き、目黒を見つけると恐る恐るといった雰囲気で頭を下げて去っていく。

「金色先生!」

 小学校に上がったばかりの西島エリカが走り寄ってくると、「オス!」と甲高い声を上げて頭を下げた。

「エリカ、前蹴りが強くなったよ」

 ほら、と言って小さな足を前に突き出す。

「おっ、スピードもついてきたやないか。一生懸命練習したおかげやな」

 エリカは頬を染めて嬉しそうに頷いた。

「先生、また教えて!」

 小さな体で体当たりするように目黒の足に絡みつく。

「先生が教えるのは、佐門先生が忙しいときだけやで」

 目黒はエリカの、少し汗で湿った髪をかき混ぜてやった。

「えー、エリカ、先生がいい! 金色先生かっこいいもん!」

 といって足に絡み付けた腕に、ぎゅっと力を入れた。

「そうかそうか。じゃぁ十年経ったら結婚したるで」

 少女の母親が彼女の名前を呼んだ。遠くから目黒に頭を下げる。目黒もそれに返した。少女は、もみじのような手をひらひらと振って道場を後にした。

 佐門の姿を探す。成人の道場生と話をしていた。既に大人の道場生が数人来ていた。三十分後に成人を対象とした練習が始まるのだ。

 目黒は練習に参加するかどうかを思案しながら、更衣室に戻った。ロッカーを開けて鞄から携帯電話を取り上げる。着信はなかった。小さく舌打ちして、小銭入れを掴むと自動販売機に向かった。コインを投入しスポーツ飲料を購入した。

 昨日は当番だったため、一日張真組の事務所に詰めていた。夜の十二時に交代し、兄貴分と張真組の関係者が経営している風俗店やキャバレーを巡回した。

 巡回と言ってもトラブルがなければ楽なものだ。店主に顔を見せ、気に入った女の子にちょっかいをかけ、ただでウィスキーやビールを一杯飲む。終わったのが午前三時。車でアパートに戻り、昼過ぎに起きてここに来た。

 スポーツ飲料を喉に流し込んだ。今夜は非番だが、空手の練習はさぼることに決めた。毎週この曜日の成人の部に参加する連中は、目黒に疎ましげな視線を向けてくる年寄りばかりだ。理香を呼び出して飯でも食おうと思った。

「目黒」

 胴着を脱いだところに、佐門が声をかけてきた。

「帰るのか」

「はい。今日は用事があります」

 そうかと呟き、すぐに気を取り直したように佐門は眉根を下げ、意味ありげにほほ笑んだ。

「どうだ。子供たちを指導するのも楽しいだろ」

 えぇ、まあ。と応える目黒に佐門は小さくため息をついた。僅かな沈黙の後、「それな」と佐門が言った。

 佐門に背中を向けていたが、口調から何のことを言っているのかわかった。

「子供達には見られてないよな」

「えぇ。さっきまで湿布を貼ってましたから」

 目黒の左肩に描かれたタトゥーのことを言っているのだ。ハワイの先住民族が信仰する神様をデザイン化したトライバルのタトゥーが、丸く盛り上がった左肩に描かれている。民族の名前も、神様の名前も彫氏に教えてもらったが覚えていない。

 彫り終わった後、絵の下に文字を入れてくれと彫師に頼んだ。

「ハワイの神様の名前の下に、まさか漢字入れたりしないよな。英語もだめだぜ、トライバルに英語はあわねえ」

 いっぱしのアーチストを気取っていた彫師は、自分のデザインにケチを付けられたと思って、不機嫌な声を上げた。

 目黒が指示したのは、ハワイの言葉でアロハオエ。禍々しい縁取りをした神様の下に、蛇がのたくったような字面で、「Aloha `Oe」と描かれている。

 子供たちの情操教育によくないとか、親たちの心象がよくないという理由で、道場ではタトゥーを隠すようにと佐門から言われていた。

「これからどこかへ行くのか」

「えぇ、まぁ」

「さっきな、石塚さんと会ってきたんだ。お前の事を心配してたぞ」

 なるほど。と思った。今日、少年の部の指導を目黒に任せた理由がわかった。石塚のばあさんは佐門の伯母にあたり、目黒の育ての親だった。

 石塚は目黒が中学校まで世話になっていた風光学園で保育士をしている。もう七十歳に手が届く年だが、園長の強い要請もあって、未だにその役目を退いていない。

 彼女は目黒にとって母親のような存在だった。空手を始めたのもばあさんの勧めがあったからだ。目黒は施設でも学校でも問題児だった。常にエネルギーを持て余しており、抑え切れなくなっては噴火させ、あちこちで厄介ごとを起こしていた。

 目黒の心の底に両親を知らない事への鬱積があった。施設で暮らしている間は、周りも似たような境遇の子供ばかりだったが、小学校の同級生から見た目黒の境遇は異質なものだった。

 子供の無垢な残酷さから、両親のいない目黒や施設から通う他の児童をからかう者がいた。

 勝気な性格の目黒が、からかわれて黙っているわけがなかった。直ぐに喧嘩になり、喧嘩になれば必ず目黒が勝った。勝てば勝つほど、目黒は鬱積を積上げ、誰も彼の境遇をからかわなくなっても、溢れ出た腹の虫は暴力となって周囲に降り注がれた。

 石塚のばあさんは、甥の佐門に相談し、目黒が小学校三年生のときに道場に入会させた。勉強もできない、根気も無い目黒だったが、空手は性にあった。

 高校を中退するまではかなり練習にも力を要れ、流派の全国大会でも上位の成績を収めていた。しかし、高校二年の夏、悪友達と乱闘事件を起こし、警察の厄介になった。大会への出場も見合わされ、その上、友人のバイクを借りて転がしているときに転倒。大怪我を負い、一時練習も儘ならなくなった。

 それからは転落の一途だった。悪い仲間とつるむ時間が増え、持て余したエネルギーを街で発散させ、やりたいことを思いのままにやった。そして今がある。

「石塚さん、元気でしたか」

「当たり前だろう」と言って佐門が笑った。

「あの話はどうなったのかと聞かれた」

「師範になる話ですか」

「そうだ。いい話だと思うがな」

 目黒が所属する極真空手の一流派は、関東を中心に全国的に道場を構えている。佐門師範は関西支部長を務めており、関西にある九つの道場を統括していた。今後も拡張を考えており、新設道場の師範となれる人材を探しているのだ。

 流派の中で師範になれる資格のあるものは少なくないが、佐門は以前より目黒を強く推してくれている。

「その話ならもう断ったはずです」

「まぁ。すぐにってわけじゃない。少し考えればいい」

 佐門は眉を寄せ、困った表情を浮かべた。

 着替え終わると、目黒は鞄を肩に背負った。

「帰ります」

「ああ。また、覗いてやれ」

 佐門の諭す言葉に視線を逸らし、押忍と応えて目黒は部屋を出た。

 道場の駐車場に止めている車は十二年落ちの日産シーマ。足はガチガチに固めてある。車に乗り込み、白い革巻きのハンドルを掴んだ。エンジンをかけ空ぶかし一回。遠くから教え子の母親がいぶかしそうにこっちを見ているが、気付かないふりをした。

 沢木理香に電話を入れようと携帯を取り出す。

理香はきれいな女だ。よそよそしさと親密さが同居した女。時おり、目黒を恐れているかのような顔を見せる。決してこちらの機嫌取りをすることはないが、目黒に興味をもたれていることを喜んでいる節もある。不思議な女だ。その謎めいたところがいい。考えるだけで体の芯が熱くなった。

 ヤクザの世界は何でも見栄はらなあかん。女もとびっきりの上玉を連れて歩かんと、その辺の乳臭い素人連れ取とったら見くびられるぞと、兄貴分はいつも目黒を諭した。理香なら十二分にヤクザの女になる資格を有している。

 沢木理香と知り合ったのは三か月前。入会しようと思ったフィットネスクラブで彼女は受付をしていた。ほかにも受付の女の子はいたが、理香だけが特別に光っていた。ヤクザの女房にはぴったりだと思った。こいつとやりたいと思った。だから声をかけた。

 しかし理香の身持ちは予想以上に固かった。何度かデートしていたが、未だにキスしか許してくれない。落とした時の悦楽を想像し、やりたい一心を抑えて付き合っているが、そろそろ限界に近づきつつある。しかしここは我慢だ。籠絡するまでは相手の我侭を許し、できる限り尽くす。手の内に入れば徹底的に自分の女として調教すればいい。

 携帯電話に着信記録が残っていた。

相場好美と表示されている。風光学園で一緒に育った幼馴染。目黒より一つ下で、いつも金魚の糞のように彼の後ろを付いて回っていた。留守電が入っていた。

《最近どう? 元気にやってる? たまには連絡ちょうだいよ》

おどけた様子でそれだけ録音されていた。浅黒い肌に白い歯の目立つ少年のような好美の顔を思い出す。

 好美は今年の春まで実業団でソフトボールをやっていた。中学で始めたソフトボールを高校でも続け、二年生のときに全国高校選抜で準優勝し、ソフトボール部のある企業に就職した。昨年、そのソフトボール部が廃部になった。事務職として会社に残ることも可能だったが、一念発起し保育士の資格を取得。今は風光学園に勤めている。目黒とは違い、風光学園の卒業生の中でも堅実な人生を歩んでいる代表格だ。

目黒が暴力団の構成員になったことは感づいているはずだが、それを意に介していないのか、こうやって時おり電話をかけてくる。

 目黒は携帯で、「元気だ」とメールを打ち、送信した。住む世界が違うのだ。あまり係り合いにならない方が好美のためでもある。

そのまま沢木理香の携帯に電話をかける。呼出音を聞きながら、「これから会わないか。食事して、そのあと、一発どうだい」と口には出せない欲望をたぎらせ、目黒は口元を緩めた。

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