Cinderella time(シンデレラタイム)
いちうま
第1話
プロローグ
深夜の小学校の校庭で黒い人影が三つ。街灯に照らされて白い湯気を立ち昇らせていた。
男達の振るうシャベルが地面に食い込み、土を投げ出す。
校舎裏の小さな広場だった。道路際にはフェンスが張り巡らされ、桜やモミジが整然と並び枝葉を広げていた。花の咲いていない花壇と、広場の隅に背丈ほどもある鳥小屋があり、その中ではひっそりと数匹のインコが息を顰めていた。
シャベルの奏でる規則的な掘削のリズムが崩れ、人影が一つ、背中を伸ばした。
「くそ……」
シャベルが投げ出される。残った二つの影も、手を止め、シャベルを杖代わりに休息をとる。
「兄貴、ほんとにここであってるんすか」
二つの影のうち、一つが遠慮がちに口を開いた。
「お前らも確認したやろ。この馬鹿でかい木が勝手に動かへんかぎり、この下に埋まっているはずや」
兄貴と呼ばれた影は花壇を椅子にして腰を下ろした。
「そうすけど、こんなに掘って出てこないんすよ。普通、こんなに深く埋めますかね。埋蔵金でもあるまいし」
「普通ってなんや。お前普通を知ってるんか」
「そういうわけじゃないすけど」
「俺たちみたいに掘り出す奴がいるかもしれないと思って、深く埋めたんやろ」
「ほんとうすか」
「ちっ」と舌打ちが続き、「いらいらさせる事を言うんじゃねぇよ!」と罵声が飛んだ。
半ば馴れ合いの会話から、突然の激昂に、怒鳴られた二つの影が首をすくめた。
カチリと音がして、闇にポッと赤い光が灯った。
一瞬、花壇に腰を下ろした男の顔が陽炎のように浮かび上がる。細い眼。細い唇。
ライターの灯りが消え、赤い煙草の光が灯る。紫煙がシルエットになった男達の体から立ち上る湯気に混じった。
「後はお前らでやれ」
「まだやるんですか。もう一時間以上掘ってますよ」
「うるせえ!」
夜のしじまに声が通り、今度は全員の影が首をすくめた。花壇の男は声を沈め、「文句あるんか」と呟いた。
諦めと苛立ちが湯気と絡まって立ち上る。
一つ減ったシャベルの音が、鋭さを失って地面を掻く音を再開した。
1
水槽の中でウィローモスがこんもりと膨らんで、緑色の毛玉のようになっていた。このままでは流木に活着している部分まで光が届かず枯れてしまい、いずれはがれて浮き上がってしまうだろう。
ウィローモスは石や流木に活着させてレイアウトに使う水生コケの代表種だ。濃緑色の糸のような茎に、緑色の細かい葉を茂らせ、淡水エビや熱帯魚の産卵場として格好の場所となる。
水の中に手を入れる。手には鋏が握られていた。持ち手が長く、刃にあたる部分が百二十度の角度に折れ曲がったトリミング用の鋏だ。
ふっと手を止めた。いったいこの水槽はどこの水槽だろうか。店のものではない。自宅にある水槽とも違う。
疑問に思いながらも膨らんだウィローモスに鋏を差し入れ、指に力を加えた。髪の毛ほどしかない細いコケは、まるで鍛え上げられた針金のように硬い手ごたえを伝えてくるだけで、一向に切り取られる気配はなかった。もどかしいほど力が入らない。
刃先の角度を変えて何度試みても結果は同じだった。
シャツの袖口が水に浸れる不快感があった。苛立ちと恐怖すら感じて必死に鋏をふるう。奥歯が疼くほど噛み締めると、頬に激しい痛みが走った。
頬の痛みは冷たさへと変化した。冷たさは頬からこめかみへと広がる。
「う……」
ゆっくりと目を開けた。どこかに寝ころんでいた。
左の頬を起点にして、灰色の縁取りをされた白い四角形が整然と並んでいる。その規則正しく並ぶ正方形に嫌悪感を覚えながら身をよじった。ゆっくりと意識が戻ってくるのと合わせて、今度はじんじんと頬と唇に痛みが押し寄せてきた。
じっとりと空気に練り込まれたアンモニア臭に気づき、場所を理解し、自分の置かれている状況を思い起こした。
体を少し動かす。頬と唇の痛みに続き、後頭部に鈍痛が走る。
記憶がじんわりと、あぶり出しのミカン汁ように蘇る。そうだった。ふらふらと足取り怪しくトイレに入ってきて、ものの見事に転倒したのだ。そしてそのまま気を失っていたらしい。
お気に入りのグレーのフィールドジャケットは水に塗れ、ジーンズが床の水分を吸いこんでいた。
体を起こす。痛みが脳天まで突き上がり唸り声が口をついた。
唇に触れると、刺すような痛みが走った。指でそっとなぞる。その感触は子供の頃海辺で無邪気に掴んでいた海ウシを思い出させた。後頭部をさするとこんもりと大きなたんこぶがあった。
立ち上がると、よろよろと洗面台まで歩み寄る。鏡に映った顔を見て、痛みがなお一層ひどくなった。
ついさっき、公衆便所を出た先の交差点。繁華街のど真ん中で、短髪を金色に染めた男が、自分より一回り小さな青年に因縁をつけていた。いつもなら間違いなく遠巻きにして係わり合いにならないようにする光景だった。
その黄色頭に見覚えがあった。二日前、理香が一緒に歩いていた男だ。
黄色頭に絡まれた青年は、果敢に抵抗を試みているように見えた。しかし、腕力差はいかんともし難く、首根っこを抑えかかる黄色頭の軍門に下ろうとしていた。
黄色頭には数人の連れがいた。彼らは圧倒的優位な立場で草食動物を引きずり倒そうとしている猛獣を、じっと取り囲み、おこぼれに預かろうと目を光らせている禿鷹のようだった。
黄色頭がどんな顔をしているのか知りたかった。理香と歩いているのを見かけたのは、優斗が郊外にあるディスカウントストアに行くためにバスに乗っていたときだった。バスの車窓からぼんやりと外を見ていた。歩道に理香を認め、その傍らに黄色頭がいた。
二人は笑いながら歩いていた。理香の肩が、男の腕に当たるほど二人の距離は近かった。時間帯は夕方だったし、その辺りはファミレスやユニクロやカー用品店が立ち並ぶような場所だった。バスはすぐに二人を置き去りにした。
金髪に染めた頭と、その日本人離れした大きな体つきが印象に残っていた。
今、繁華街のど真ん中で乱暴を働いている男が、あの時の男だと確信があった。
野次馬の間を縫い、現場へと近づいた。黄色頭に後ろから首筋を抑え込まれた青年は、口だけは抵抗をやめていなかった。
黄色頭の横顔が見える。意志の強そうな眼をしている。
もっとよく見ようと場所を移動した。もう少し、もう少しと思っているうちに、気がつけば、彼らの近くに立っていた。
黄色頭の取り巻きの一人が、不思議そうに優斗を見ていた。
自分の立ち位置が、彼らを起点に半円形に取り巻く傍観者たちのそれよりも、三歩ほど近いことに気づくのと、突然舞台に闖入してきた優斗に驚いていた連中の視線が剣呑なものに変わるのとがほぼ同時だった。
無言で睨みつけられている状態は、ゼロコンマ数秒だったに違いない。しかしその緊張感に耐えることができず、「乱暴は止めた方がいいです」と呟いていた。
勇気から出た言葉ではなかった。蛇に追い込まれた蛙が、ゲロっと意味のない悲鳴を上げる。それと似たようなものだ。ヒーローを気取るつもりも、義侠心に突き動かされたわけでもない。
禿鷹たちが敵意を漲らせた。黄色頭の視線が優斗に向けられた。思いのほか精悍な顔立ちをしていた。髪の毛を黒くして、スーツでも着込めば肉体派の韓国(はんりゅう)スターになれそうだった。
黄色頭は、首根っこを押さえた青年から大村優斗に視線を移すと、
「お前も、りんせいかいの人間か」と問いかけてきた。
「あの……弱いものいじめはやめた方が」
意味がわからず、とりあえずこの場に相応しい言葉を告げた。
黄色頭に首根っこを押さえられた青年が激しく暴れた。優斗に気を取られていた黄色頭は不意を突かれ、青年は呪縛から逃れた。腕を振り回し、決死の形相で青年は優斗に迫ってきた。
あっ、と思ったときは鼻筋に突き上げるような痛みを感じていた。顔面に拳をしたたかに叩きこまれたのだ。
うっと呻き、鼻を押さえる。予想だにしなかった出来事だった。殴りつけてきたのは自由を手に入れた青年だった。
「誰が弱いんじゃ!」青年が吠えた。
理不尽にもほどがある。涙と鼻血が手のひらを濡らした。
青年を抑え込もうと突き出した黄色頭の腕が空を切った。青年は前かがみになって痛みに耐えている優斗に向って、あろうことかもう一発頬にパンチを叩きこみ逃走を企てた。
八つ当たりにもほどがある。
再度突き出された黄色頭の左手が青年の側頭部を叩いたように見えた。そのまま引き戻した手の動きに合わせて、ミギリ、と何かを引きちぎる音が聞こえた。
同時に、ぎゃっと叫んだ青年は耳の辺りを抑えていた。
抑えた手から血が滴った。滴らせながらも、取り押さえようと近づく禿鷹たちにめったやたらと足と拳を振り回し、一目散に逃げて行った。
「待て!」と誰かが叫び、「もういい。ほっとけ」と、おそらく黄色頭が応えた。
その時はもう回りを観察する余裕もなく、優斗は鼻と頬を押さえて必死に息を吸い込んでいた。
口の中に鉄臭い味が広がって、目から涙が出て、赤く染まった手は小刻みに震えていた。下げた視界に三十センチぐらいありそうなスニーカーが入ってきた。
「災難だな。ハンカチ持ってるか」
頭の上から声が降ってきた。頭を縦に振って応える。
「素人が極道の喧嘩に首を突っ込むからこうなるんだよ」
巨大なスニーカーが遠ざかっていく。
顔を上げる。人だかりは徐々に崩れかけていた。心配そうに顔をしかめる者もあったが、声をかけてくる者はなかった。ゲームセンターに入って行く黄色頭の背中が見えた。
しばし呆然と、どうすべきか判断がつかず立っていると、肩に重みを感じた。
「よかったなぁ。にいちゃん。兄貴に助けられた。お礼にカンパしてくれよ」
黄色頭を取り巻いていた禿鷹の一人が馴れ馴れしく肩に手を回してきた。さすがに苛立って肩を振って手を払うと、痛む顔面を庇いながら公衆便所に足を向けた。
笑い声を背中に、どうにか公衆便所に入り、そして濡れた床に足を取られ転倒。後頭部強打の上に、意識不明――。
今まで生きてきて、最悪の日かもしれない。
ゆっくりと口を開け、洗面台の鏡に写す。前歯が赤く染まっていて、左の頬の裏側で鋭い痛みが走った。
「うー」と唸り声しか出ない。
慎重に口を閉じると、蛇口から水を出し、手ですくってうがいをした。吐き出した水はピンク色の染まり、シンクを舐めるようにして排水口に吸い込まれていく。
――最悪じゃないか。
と心の中で呟く。
二日前に沢木理香と黄色頭が二人で歩いている姿を目撃していなければ、今回もいつものように傍観者の一人に収まっていただろう。
しかし、なぜ助けようとした青年に殴られなければならないのか。憤慨するも、怒りをぶつける相手がいない。黄色頭は優斗に向かって、お前もリンセイカイの人間かと聞いてきた。「りんせい会」だろうか。どんな字を書くのかわからないが、極道がどうのと言っていたから暴力団か何かの組織だ。
黄色頭に捕まっていた青年は、そのりんせい会とやらに属しているのだろうか。ということは黄色頭も暴力団員ということになる。理香と黄色頭はどういう関係なのだろうか。
洗面台から顔を上げ鏡を見ると、背後に見知らぬ男が映っていた。
鏡越しにじっとこっちを見ている。優斗は視線を逸らせ、顔を洗った。唇に水が沁みる。指で触ると血がついた。濡れた手でポケットからハンカチを取り出し、顔と両手を拭いた。
そっと顔をあげると鏡の向こうにまだ男の姿があり、こっちを見ていた。
デリカシーの欠片でもあれば、怪我をした人間が洗顔している姿をじろじろ観察などしないものだ。せめて、見て見ぬふりをするのではないだろうか。
「見て見ぬふりする奴は、負け犬だ。女を苛める奴は、屑だ」
父親の言葉が不意に頭をよぎり、気分が底に沈んだ。鏡から視線を逸らし、頭の中で「状況によるよ」と反論してみる。
「怪我したの?」
男が声をかけてきた。
「あぁ、えぇ」
鏡越しに愛想笑いを浮かべようとして痛みが走り、頬がひきつった。
「痛そうだね。喧嘩だよね」
と無表情で言い当てる。
「さっき殴られてたね」
男が後ろから優斗の背中を指刺す。デリカシーのない人だなと感想を抱きながら、見ていたならそっとしておいて欲しいと、デリカシーなしと評価した男にデリカシーを求めた。
「助けようと思ったけど、あっという間に出来事だったからなぁ」
いやぁ意外な展開だったと、男は首を横に振った。
「財布も取られてたよ」
「え?」
ジーパンの後ろポケットをまさぐる。確かに財布が消えていた。
「いつ……」
「金髪青年の仲間が、君の肩を抱いたときに財布を抜き取っていた」
「あぁ」
口の中を切っていることを忘れ、大きく口を動かしたものだから激痛に涙が出た。
「ズボンの後ろポケットに財布を入れるのは、公園のベンチでポップコーンの袋を開けるようなものだ。鳩の数ほどスリが寄ってくる」
忠告に相槌を打つ気力もなく優斗はうなだれる。
「取り返してやろうか」と男が言った。ウエイターが、お冷はいかがですかと問いかけてくるような、気軽な言い方だった。
「でも……」
「取り返してこよう」
口をはさむ暇もなく、男は公衆便所から出て行った。あっけにとられるのと同時に、好奇心に駆られて、痛みに耐えながら出口へと向かう。
黄色頭はまだあのゲームセンターにいるのだろうか。おせっかいな男は背が高かったが、体重は優斗とそれほど変わらないだろう。強そうに見えなかった。どちらかというと優男だ。どうやって取り戻そうというのか。
公衆便所の出口にたどり着いたとき、戻ってきた優男と正面衝突しそうになった。
「あっ。ごめん」
と、財布を取り返してくると啖呵を切って出て行った男は、優斗の脇をすり抜け、小便器に走り寄ると、チャックを下ろすのももどかしそうに体を揺すった。
じょろじょろと音を立て、小便をすると同時に、う~んとため息をついた。
「トイレがしたかったのを忘れるところだった。もう少しでお漏らしだ」
チャックを上げると、ゆっくりとした足取りで洗面台に近づき、手を洗った。
「ハンカチ、ある?」
「血まみれですけど」
差し出したハンカチに汚物でも見るような視線を送ると、ぬれた指先でポケットからきれいに折りたたまれたハンカチを取り出し、拭く。
「よし、行こう」
腕をつかまれ、意外に強い力で引っ張られた。
「まだゲームセンターにいたよ」
「僕も行くんですよか」
男はしっかりとした足取りでゲームセンターに向かいながら振り返った。
「君の財布を取り戻しに行くんだ。私の財布ではない」
手助けを言い出しておいて、手を差し伸べた相手の責任感のなさを詰るような発言に、父の「逃げるんじゃねぇ」という批判の言葉が重なり、足を運ぶのが億劫になった。
逃げる逃げないで判断できない事柄だってあるはずだ。小さい頃は言い返すための理屈も、勇気も持ち合わせていなかったが、今なら反論は山ほど思いつく。
「他人の財布を取り戻しに来た男を君は信じるかね? 自分の奪った戦利品を横取りしにきた海賊と勘違いされるのが落ちだ」
「海賊ですか」
「山賊でもいい」
がっしりととらえられた右腕に痛みを感じながら、今日は最悪な一日だなと二度目の溜息をつく。
夕方から知人と会っていた。優斗が雑感を綴っているブログに書き込みをしてくれる名古屋在住の青年だった。会うのは初めてだった。趣味は優斗と同じで水草を遣ったレイアウト水槽の創作。
世界各地の水草や流木や石を使い、水槽の中に小世界を作り出す趣味だ。
優斗は「
大阪に仕事で行きます。会いませんかとメールが来たのは一昨日のことで、今日、難波で会うことになった。二十代後半の男性だということはわかっていたが、それ以外のことは全く知らなかった。
会ってみると、様子のいい好感のもてる青年だった。話も弾んだ。今度、自宅の水槽を見せて欲しいと言われたところまではよかった。
お好み焼きを食べ、二件目のショットバーでビールを飲み、三軒目も行きませんかと誘われると同時に手を握られていた。「大村さんって、かわいいですね」と呟き、握った手の指で優斗の掌をそっと撫でた。
その時も「逃げるんじゃねぇ」との父親の声が頭をよぎったが、ここは逃げなければと賢明な判断をし、拒否する優斗に悲しそうな視線を送る彼を残して、その場を去った。
そして駅へと走る途中で黄色頭を見つけ、柄にもなくというより、成り行き上、正義の味方を演じた結果、頬と口の中と後頭部を負傷し、財布を奪われ、今は見知らぬ男に右腕を引っ張られている。
男に引かれるままにゲームセンターに入った。薄暗く紫煙の漂う空間に、電子音がそこかしこで鳴り響いている。意外と奥行きのある店だった。ゲームに興じる若者たちの間を縫うようにして奥に進む。テーブル型のゲーム機の前に黄色頭の大きな背中が見えた。その両脇に取り巻きが二人。
心臓がトクトクと速いリズムを刻む。生唾を飲み下し、口の中の痛みに顔をしかめた。公衆便所で知り合った男はようやく優斗の右腕を離すと、両足を開き、腕組みをし、
「おい! 佐藤!」
と黄色頭の背中に声をかけた。
安堵と溜息。なんだそうだったのかと得心がいく。勝算ありだ。男と黄色頭は知り合いで、男が立場的に上にあるのだ。もしかしたら二人は学生時代のクラブで先輩後輩の間柄だったとか、昔から近所に住んでいて、男のことを黄色頭はお兄ちゃんと呼んでいたとか、そんなとこだろうと思った。
「佐藤!」ともう一度男が声をかける。
喧噪で聞こえていないのか、相変わらず黄色頭は背中を向けたままだ。
「鈴木!」と男は別の名前を呼んだ。
優斗の頭に疑問符がよぎる。今度は黄色頭の取り巻きの苗字を読んだのかもしれない。黄色頭と知り合いなら、取り巻き連中と知り合いであってもおかしくない。
「高橋! 田中! 渡部! 近藤! 中村!」
男が一般的な苗字を連呼しだした。急速な落胆、そして脱力。
後ろに怪しげな気配を感じたのか、それとも呼ばれた苗字に該当したものがあったのかはわからないが、取り巻きの一人がこっちに気づき、ゲームに熱中する黄色頭に耳打ちをした。黄色頭はちらりとこっちを見たが、もう一度ゲームに戻る。
「そこの金髪くん!」と公衆便所の男が大声を張り上げ、こちらに背を向けたまま黄色頭がのそりと立ち上がった。ゲームオーバーを示す情けない効果音が響く。ゆっくりと黄色頭が振り返った。
何も言わずこちらを睨みつけてくる視線はゆったりとしていて、臆する様子はみじんもなかった。ざっくりとしたトレーナーを着て、ストレートのジーンズを穿いていた。服を通して筋肉の質量を感じることができる。
ゲームセンターに来るくらいだから優斗より年下なのかもしれないが、その態度はいっぱしのヤクザのものだった。黄色頭は大村優斗の上で視線を止め、公衆便所の男に視線を移す。
「なんや。あんた誰や?」
「私か。私は川上秀和だ」
「名前を聴いたんやない。どこのものかと聞いたんや」
「どこのもの? 私は私だ。どこのものでもない」
「なんや、おっさん! 舐めとんのか!」
取り巻きの一人が息巻いた。
「彼に」と言って川上秀和と名乗ったおせっかいな男は、優斗を指差した。「財布を返してやってくれ」
「財布?」
黄色頭が頭をひねり、そして取り巻き二人に目をやった。微かに、先ほど息巻いた一人がためらいを見せる。その様子に気がついたのか、気がつかない振りをしているのか、黄色頭は「知らないな」と言った。
「そこの彼が」と公衆便所の男は取り巻きの一人を指差し、「財布を抜き取った」
「近藤」と黄色頭が取り巻きの名を呼んだ。
川上が当てずっぽう呼んでいた名前がヒットしていたらしい。
「なんやおっさん。因縁つけるんか」
近藤は黄色頭の視線を気にしながらも開き直った。不穏な空気が流れ、そっとこっちを窺っていた周囲の若者たちも距離を置くように離れていく。近藤は今にも川上に飛びかかりそうな勢いだ。
「俺たちを誰やと思っとるんや!」
「君は近藤だろう。そして金髪の彼と……後は知らないな」
「この人は」と黄色頭を指差し、「張真組で盃をもらっているんやぞ」
と恫喝する近藤に、川上はなぜか頷き、黄色頭は少し不快そうに眉をよせ、優斗は背筋を凍らせた。張真組なら聞いたことがある。この辺りを地場にしている暴力団だ。
「うーん」
腕を組んだままの川上が場違いな溜息をつき、優斗に向き直ると、「ややこしいから、君は帰れ」と言った。
「え?」
「財布は私が取り戻しておく」
「でも」と言ったのは社交辞令。実はすぐにでもこの場から立ち去りたかった。
「こら、おっさん! 因縁つけといて無視すんな!」
近藤が怒声を発した。
「帰りなさい」
後押しするような川上の言葉に、優斗はじゃぁと頭を下げ、周囲の視線を避けるように俯き加減でゲームセンターを後にした。
一度気持ちが折れると崩れるのは早い。足早に飛び出したゲームセンターから追いかけてくる電子音を背中に、夜の繁華街を小走りに逃げた。
川上と名乗ったお節介な男が、取り返した財布をどうやって優斗に届けるつもりなのか疑問を持った時には、既に駅の近くまで戻っていた。
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