Act.004
*****
風邪は、治らなかった。
担任から電話を受ける前に学校へと連絡を済ませ、
「そうです…昨日から熱と咳と喉の痛みと…めまいと頭痛と…」
「そうですかー」
白衣を着た白髪の医師はあまり興味がないらしい。こちらのことなど見ることもなく、PCとにらめっこを続けたまま何かを打ち込んでいる。カタカタカタ、キーボードを打つ無機質な音が気に触る。確かに、昼休み前だ。だが、外来で二時間も待たされたこちらの身にもなってほしい。
言葉を発するのも億劫なので、口にはしないが。
「じゃ、喉見せて」
「はい…」
「あー、こりゃ結構腫れてるね。どう、きつい?」
「はい…」
キツいからわざわざ病院まで来てるんだが⁉︎と荒ぶる内心を抑えることに体力を使うのさえ馬鹿らしい。
「じゃあ、薬は一週間分出しておくから。何なら点滴もうっておく? 少しは楽になるよ」
「お願いします…」
一刻も早く病院を後にしたい気持ちは山々だが、正直なところ帰宅するだけの体力も残っていなかった。この病院まで通常なら徒歩十五分程度。しかし、行きもそうだったように帰りもタクシーのお世話にならなければ辿り着けそうにもない。
「じゃ、これ持って向かいの処置室に。薬を飲んで、あとは水分取ればどうにかなるよ」
若いんだから。お大事に。と、相変わらず医師はPCに向き合ったまま、追い出すかのように言葉を発した。
「ありがとうございました…」
そんな相手であっても、例え、嫌な大人であっても、自身が態度を崩すことの方が耐えられない。俺はしっかりと頭を下げて診察室を後にする。吐き気に任せて、いっそぶちまけてやろうかとも思ったが、それも実行しないまま。
*****
腕が、痛い。
いつぶりだろうか。いや、採血は経験があったものの、点滴は初めてかもしれない。そして、その初めては決して良い思い出になりそうにもなかった。
体調不良からだろう。血管が細まり、やり直しを含めると点滴の針を三度も刺されてしまったからだ。若いナースさんだったが特にテンションが上がることもなく、何度も繰り返される謝罪に苦笑だけを返す。
「きっつ…」
予想通りタクシーのお世話になり、帰宅したのが午後三時半。ただの風邪にここまで翻弄されたのも初めての経験だった。連日の寝不足が祟って免疫力が落ちていたのかもしれない。まだ食欲もないが、薬を服用するために歌南から貰ったおにぎりを一つ口にする。賞味期限はとっくに切れていたし、冷蔵庫で保管していたこともあってパサパサだったのは言うまでもない。梅干し効果で絞り出された唾液は、吐く前の独特の味がしたが、無い体力を振り絞って吞み下す。吐いたら、面倒だ。少しだけ申し訳なくもある。歌南にと言うよりは、お米の生産者に対して。
静かなリビングで、TVをつけるだけの余力はないままソファーへ身体を預ける。
「本当に…静かだ」
自分の呟きに思わず口を覆った。おにぎりとは全く別のところで吐き気が噴き出す。
そう、静かだ。俺以外には誰もいない。もう、誰も。誰もいない。誰もいないんだ。
こんなに苦しんでも、一人。楽しいことがあっても、帰宅すれば一人。一人きり。食事はどんどん味が薄れていく。そこに楽しみなどなく、どちらかと言えば仕方なく栄養を摂取しているだけ。苦ではなかった料理さえも手がつかなくなり、リビングで過ごすこともなくなった。
広すぎるし、匂いが残りすぎている。
どうしようもないんだ、もう。
「う……」
コンビニの袋を手にとって、フラフラと自分の部屋へと向かう。
居場所を探して彷徨うかのように。
*****
夕刻、今日もまた髪はオレンジ色に染まっていた。美しさとは裏腹に感傷的にすらなるこの時間帯に、しかし、俺は溜息を漏らす。
「…はぁ」
「何だよ」
「…はぁ」
「悪かったな」
「…はぁ」
「はぁはぁって溜まってんの?」
「んな訳あるか」
「欲情されても困るから…」
ほんと、コイツと話すと疲れる。
それが正直な感想だった。
「で、どうなん?」
「風邪、どうにか治まってきた」
「そっか、良かったじゃん。じゃ、これ差し入れ」
と、目の前に差し出せれる紙袋。厚さや、ブックストアのロゴを見るに本であることは間違いないのだが、問題はコイツが差し出したというその一点のみ。
「何コレ?」
「
「………」
タイトルに思わず言葉を失った。薄い本か何かだろうか。しかし、身に覚えがありすぎる。いや、そんな行き過ぎた結果にはなってないのだけれども。
「嘘だよ、そんな怖い顔すんなって。お前が集めてた漫画の最新刊、今日発売日だったから」
「………」
「だから、睨むなって。
「………」
「どした、日本語でも忘れた?」
「いや、もうええわ」
「そっか。じゃあ、おれはこの辺で」
「あれ? もう帰るのか?」
男色という訳でもなく、寂しさともまた違う。確かにさっぱりした奴だし、邪険に扱ってしまったのは否めないが、それでもお見舞いに来てくれたからにはお茶の一杯でも出さねば。そんな気持ちから出た言葉だった。
「残念ながら、バイトで忙しいんだよ」
「そっか。ありがとな」
「いんや、別に。また学校で会おうぜ〜」
それだけ言い残すと、本当にさっぱりと後腐れなくオレンジ頭は自転車で路地の奥へと消えていった。
「まったく…」
雅輝と話すと本当に疲れる。
でも、悪くない。そう思う自分にまた溜息を吐きそうだった。
*****
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます