Act.003
*****
風邪を引いた。
久しぶりに風邪を引いた。昨日、外で居眠りをしてしまったのがいけなかったのかもしれない。寒気がすると思って起床してみれば、時間はなんと午前九時過ぎ。スマホの画面を確認すると風邪とは全く違う所で頭痛がした。
学校からの不在着信が三件。
『許さん』
この短い三文字だけだった。前の四件を確認するまでもなく、即座に謝らなければならない。そんな強迫観念にも似た何かが胸を詰まらせた。
取り敢えず、学校への連絡に備えて体温を測ることにする。ベッドから降りる際に目眩があることにも気付かされたが、寝不足の時と然程変わらない程度だったのは僥倖だったかもしれない。
埃を被った救急箱から体温計を取り出す。良かった、電池は切れていないようだ。脇に挟んで十数秒、ピピピピという電子音に視線を落とせば三十八度七分の表示がこんにちは。
「…ふぅ」
思わず漏らした溜息も普段より熱っぽい気がする。
そこからは単純明解だ。少しだけ枯れた声で学校に連絡を入れ、勿論授業中だったので担任への伝言を頼み、そして、歌南への返信を欠かしてはならない。
『状態異常なう』
なんでもなおし、や、エリクサーが欲しいなと思いながら再びベットへと潜り込んだ。
*****
発熱時、あなたはどうなりますか?
身体が怠い。頭が重い。視界がぼやける。息苦しい。
熱の出始め、快方に向かっている時でも症状は違うだろう。
ちなみに、俺は夢を見ることが多い。
自分が膨張する夢。身体の中で何かが溜まり、その膨張に合わせて肌が膨れ上がる。その肌をどこからともなく現れた無数の縄で緊縛され、とてもとても気持ちの悪い夢。例えるなら、人間ロースハム状態。考えるだけで
意識が朦朧とするのは夢の中でも変わらず、寒気を感じるのに毛布の温かさが鬱陶しい。夢の中であるのに現実の視界とリンクすることもあれば、見ず知らずの歪んだ世界の中で変わらず膨張を続ける自身。
ひたすらに膨らみ続けることに吐き気を催すこともある。何度も何度も繰り返す夢でもあるので、ああまたこの夢かと変に落ち着いていることも。
今は、どうだろうか。
確かに気持ち悪く、不調ではあるが、後者の何となく達観しているような状態に近い。いつかは覚める。明けない夜がないように、覚めない夢もないんだって、そんなどうでもいい事を考えるくらいの余裕はあった。
身体の中では何が膨張しているのだろうか。水分か、それとも脂肪か筋組織か。
または、もう抱え切れないほど重く重く伸し掛かる…この感情だろうか。
針で刺してしまいたい。例え、破裂してしまっても幾分か楽になりそうだ。
何なら、そのまま消えてしま―――。
*****
―――ピンポーン
「っ…」
二階にある自室までもしっかりと来客を告げるインターホンの音に息を飲んだ。
どれくらいの時間、寝ていたのだろうか。いや、熱で苦しんでいたと言った方が正しい気もする。しかし、今はそんなことを考えるよりも先にやるべきことがあるようだ。
午前中よりも重い身体を引きずるようにして階段を降り、そのまま玄関へと向かう。インターホンで来客の姿を確認することさえ面倒だった。宅配便のお兄さんならサインをすればいいだけ。宗教の勧誘なら、その場で吐いて見せても面白いかもしれない。
そんなことを思いながら、ドアを開ける。
と、
「あ…」
「え…」
二人の言葉が重なった。
「あの…あれ? えっと、
「ええ、そうですが…そう言う貴女は
「はい、芳村です。学級副委員長の芳村です。ご機嫌麗しゅう…?」
ドアの前で硬直したまま、来客―――芳村は何故か自己紹介を始めた。夕陽でオレンジ色に染められた髪が煌めいている。その煌めく髪にも負けない美しさを誇る大きな瞳には今、戸惑いの色が色濃く現れていた。見惚れると同時に、申し訳なさから消えたくなる。存在していてごめんなさい。
「存在していてごめんなさい」
「えぇ⁈」
「あ、ごめん。つい本音が…」
「そこまで酷い風邪なの?」
「いや…ゲホッゴホッ」
狙ってもいないのに、タイミング良く出る咳だった。寝起きで気付かなかったが、午前よりも喉が痛い。声もまるで自分のものではないかのようだ。
「だだ大丈夫⁈ えっと、えーっと…」
背中を折って咳き込む俺に慌てながらも、芳村は咄嗟に背中をさすってくれていた。不思議なもので、誰かに触れてもらえるだけでも幾分か楽になるものだ。しかし、この状況はよろしくない。誰かにとは言ったものの、それが学年を―――いや、学校を代表する美少女であると、話が別だ。体調不良とは別ベクトルで身体に異常をきたしそうだった。
呼吸が落ち着くのを待って、そして、現状を打開しようと息を吸い、
「ごめん。えっと、何のよ―――ゴホッゴホッ」
残念ながら、見事にしくじった。深呼吸のつもりで深く息を吸ったことが仇となり、更に酷い咳が飛び出してくる始末。下がり切れていない熱や目眩も相待って、思わずその場に蹲りそうになる。
「ちょっと、西条くん⁈ えっと、中に…お家の中に取り敢えず入ろ?」
相変わらず、背中をさすり続けてくれる学級副委員長に誘導され、俺たちは家の中に入るのだった。
*****
「……ふぅ」
ゴキュッゴキュッと自分でも驚く音を立てながらスポーツドリンクを飲み干し、一息つくことに成功した。
「大丈夫?」
その様子を隣で見ていた芳村の表情は心配一色。流石に背中をさすり続けて貰うのも申し訳なかったので、事前に手は退けてもらった。
残念だ。非常に残念だ。しかし、俺の精神衛生上限界であったことは言うまでもない。どうして女の子って近くにいるだけであんなにいい香りが…。
「ん…、助かりました」
耳に響く自身の声に思わず吹き出しそうになった。体調不良であることは全身で満遍なく感じているのだが、枯れている声を聞くと辛さを通り越して笑い転げそうだった。
流石に、女の子と二人きりの状況で突如として笑いころげようものなら、いくら級友とはいえ御用になりそうなので思い留まるけれども。
「それならいいんだけど…。ほんとに辛そうだね、風邪薬は飲んだ?」
声は出さずに首を振る。その小さな動作だけで頭の隅々が小さく痛んだ。どうやら一日寝ていたにも関わらず、悪化しているらしい。
「はい、これ飲んで」
芳村は見越していたのだろう。直ぐに鞄から市販の風邪薬を取り出すと、ご丁寧に一回分の容量を手渡ししてくれた。大きな二錠に苦戦しつつも、どうにかスポーツドリンクで飲み込む。
「あと、これ
俺が一息ついたのを確認すると、芳村は更に別の物を鞄から取り出した。コンビニの袋の中にはおにぎりとゼリー飲料のパッケージが透けている。
「どうせ何も食べてないだろうからって」
芳村だけでなく、歌南にまで見透かされているようだ。こんなことなら昼間に無理してでも愛を囁いておけばよかった。てぃ あーも。
……いや、それでも結果は変わらない、か。
「
おにぎりとゼリー飲料をテーブルの上に置きながら、芳村は言った。河合先生―――俺たちの担任にも確かに心配をかけたかもしれない。きっと、芳村がやんわりと翻訳してくれただけで、本人はもっと過激に吐き出していたに違いない。死んでても構わないから、連絡くらい寄越せ、と。
アンデットになってまで連絡を入れろなど、理不尽が過ぎないか。
「ありがと…」
「どういたしまして。でも、お礼なんていいから休んで西条くん」
「いやいや…」
「他に何かやってほしいことがあれば、全然遠慮なく言ってくれていいからね」
じゃあ、ここは一男子高校生として―――なんて言葉は出てこなかった。自分の家に、異性の、それも学校内で絶大の人気を誇る美少女と二人きり。しかし、何かをするような余力もなければ、何かをお願いできるような度胸もない。
病は、精神すら蝕む。例え、それが単なる風邪であったとしても。
「薬ももらったし、ご飯ももらったし…一先ずまた寝ることにします」
「…うん、それがいいよ」
心なしか芳村の返事には何らかの含みがあるようにも聞こえたが、何せ上体を起こしたままソファーに座り続けることさえ今の俺には厳しいようだった。聞き返すことも出来ずに、ノロノロと身体を起こす。
「ごめんね、きつい時に起こしちゃって」
芳村はそんな俺の様子から汲んでくれた。自分の鞄を持って玄関へと向かってくれる。
「いや、ほんとに…ありがと」
「ううん、しっかり休んでね」
「おう」
「じゃあ、ばいばい西条くん」
「おう…」
玄関の鍵を閉めなければいけないので結果的に見送る形にはなったものの、俺は芳村の顔をしっかりと見ることも出来なかった。
身体の辛さとはまた別に、本当にこの状況が申し訳なく、情けなくて。
―――ガチャリ
鍵のかかる音がして、俺はまた家に一人きり。
しかし、この時ばかりは安堵の息を漏らすのだった。
*****
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