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 殺しの前の腹ごしらえでもしようと言うのだろうかと僕は思った。が、これは僕に与えられた最後のチャンスだったのである。

 アニキは自称、慈悲深い菩薩のような極道だった。


「美味しいお好み焼きをごちそうしてくれたら、今回の件は水に流したるわ」


 思いがけない提案に、僕はテーブルと一体化しかけていた頭を上げた。その時の僕は一体どんな顔をしていたのであろうか。


「喜ぶんはまだ早いど。テーブルの下見てみい」


 言われるがままに僕はテーブルの下を覗き見た。なんとそこには構えられた拳銃があった。アニキはテーブルの下で僕を銃で狙っているのだ。

 全身の毛穴がワッと声を上げるように開き、握ったスポンジのように汗が噴き出した。


「たかがお好み焼きや言うて、舐めたアカンど。クソみたいなもん焼いたらどうなるかわかっとんやろな」


 気を失いそうだった。実際、半分くらいなら失っていた気がする。


「たまたま、豚玉焼きに来たら、タマタマ、弾でぶち抜かれるいうこっちゃど」


 僕はテーブル下に向けていた視線をアニキに向けた。少し笑みすら浮かべているその表情が、一層、僕を恐怖させた。


「たまたま玉タマタマ弾やどぉっ!」

「たまたま玉タマタマ弾やぞ! コラァッ!」


 子分たちも大合唱する。とにかく凄まれ、怒鳴られ、僕は生きた心地を忘れていた。

 しかし、この提案自体は、僕にとって天国から吊るされた蜘蛛の糸である。お好み焼きをうまく焼けば許されるのだ。乗らない理由などあるだろうか。

 気づいたときには、振るえる僕の手がカップとスプーンを握っていた。

 果たして、これまでの人生でこれほどお好み焼きのタネを慎重に混ぜたことがあっただろうか。

 ほんの些細な粗相も引き金を引く理由にされるかも知れないのだ。

 混ざりムラがないように、慎重に慎重を重ねる。千切りキャベツ一本カップから落とすまい。

 僕は丁寧に丁寧にタネを混ぜていた。


「おい、いつまで混ぜてんねん」


 アニキの一声に怯んだ僕は、全身をはね上げた。その拍子にあれだけ気を付けていたにも関わらず、千切りキャベツが2本もカップから溺れ落ちた。


 死ぬ。


 そう思った瞬間、僕は咄嗟にカップを裏返し、落ちたキャベツの上に混ぜたタネを重ねた。焼きに入ったのである。我ながら優れた判断だった。キャベツが零れたことはカムフラージュされただろう。

 セーフ。これはセーフ。


「焦がさんと焼いてくれや、兄ちゃん」


 ジュウっという小気味よい音にアニキが言った。焦がしなどするものか。お好み焼きをひっくり返すタイミングなど体が覚えている。

 しかし、である。ヤクザに取り囲まれたこの非現実的な空間は、僕の体内時計を狂わせるのに十分すぎた。

 なにせこの緊張感は1分を何十倍にも感じさせるのだから。


「ええ匂いしてきたのぉ~」


 正直、ひっくり返すタイミングなんてわからなくなっていた。

 かと言って、何度も何度もヘラでお好み焼きをめくり、焼き具合を見るわけにもいかない。お好み焼きを弄りすぎても粗相と捉えられかねないのだ。

 死に直結する行為は禁忌である。


「焦がしでもしてみぃ。アニキに殺されっぞぅ?」


 黙れ下っ端が。と僕は心の中で強気に言った。

 体内時計で時間を計れなくなった僕は、お好み焼きのへりをじっと注視していた。もはや輪郭部分の具合で頃合いを判断するしかない。

 十分に火が通り、輪郭部分がしっかり固体化している。僕は、今だ、と2本のヘラを左右からお好み焼きに差し入れた。


「うまくひっくり返してくれよ、兄ちゃん」


 嫌なタイミングでアニキが囁くように言った。お好み焼きをひっくり返す。これこそ最大の山場だ。

 いつもなら、なんてことなく容易にこなせるタスクである。だが、もし、万が一の事態でも起こってしまえば。


 死ぬ。


 この緊張感が、僕の手元を狂わせようとしていた。

 僕は恐怖で返しに踏み切れない。だが、このままじっとしているわけにもいかない。2本のヘラで片側だけ焼いたお好み焼きを保ち続けるのだって、粗相と判断されるだろう。


 やるか。


 いや、もし失敗でもしたなら。


 巷にはオープンサンドウィッチなんてものがある。パンで挟んでいないサンドウィッチだ。何かのかと思う。しかもそんなものがオシャレだとか。

 だったらちゃんとひっくり返っていないお好み焼きがあってもいいんじゃないか。ちょっと崩れたお好み焼き。どうですか、オシャレでしょう?


 死ぬ。


 僕は甘えた考えを早々に捨て去った。そうだ、恐る恐るやるから失敗するのだ、素早く思い切ってやれば大丈夫だ。


「はよ、ひっくり返せや!」

「はいっ!」


 アニキの声に驚いた僕は、思い切るどころか過剰に力んでしまった。

 お好み焼きがその拍子に宙へ放り出された。

 手首のスナップを利かせて投げ上げられたお好み焼きは、通常では考えられない高さに到達し、僕の頭上を越えていった。

 これが鉄板の上に着地したなら、なんと華麗なアクロバットお好み焼きショーだっただろうか。

 お好み焼きが落ちたのはあろうことか床の上だったのである。

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