第6話 板蓋宮の惨劇
大郎は朦朧としていた。
激しい頭痛と吐き気。地に足が付いていないのかと思った。視界がゆらゆらと揺らめいて見える。まるで水の中にいるようだった。
途中、激しく咳き込んで、膝をついた。咳が治まるまで、使者も立ち止まった。
白虎が大郎にすり寄って来た。大郎は白虎の首筋を優しく撫でた。
「大丈夫だ。きらら」
大郎は囁くほどの声で、白虎に話しかけた。
白虎は大郎の足にさらにじゃれつく。
そして、一度、天に向かって咆哮した。
その動きに大郎は、気が付かなかった。
板蓋宮にいつもより倍以上の時間をかけて、辿り着いた。
門の所では門番に、腰に提げている剣を預けるように言われた。
「なぜ?」
「三国のお客様が集まる会議です。武器は携帯できません」
大郎の問いに、門番はそっけなく答えた。
「会議は中止と聞いたが」
「私達は会議は開かれると聞いています」
大郎はとっさに(おかしい)と、思った。しかし、頭は高熱でぼんやりとしていて、集中が保てず、思考が途切れてしまった。
大郎は言われるがままに、剣を門番に渡した。
ふらふらと、頼りない足取りで歩く大郎を、木陰に隠れて見つめる二つの影があった。
中臣鎌足と中大兄皇子である。
「あんな状態であれば、こんな手の込んだことをしなくても、よかったのではないか」
中大兄が大郎の姿を見ながら言った。
「いいえ。奴にはなにか、不思議な力があるのです。油断はなりません」
「力か……。 お前は良くそう言うが、いったい何なのだ。その力で、何をするというのだ」
「私にもはっきりとはわからないのですが。とにかく、奴を侮ってはいけません。
それに、蘇我が飛鳥にとって、悪であるために大郎が成敗されるという、歴史的な事実が重要なのです。
そのために大王の承認が必要です。そのために、皇極様に来ていただいているのですから。
闇討ちでは意味がありません」
そう言って、鎌足は表情を引き締めた。
女帝は御簾の中に着座した。
大郎は御簾の一番前に立った。
大郎の背後に、群臣が整然と並んだ。皆、一言も話さなかった。
朝廷内に、重々しい緊張感が漂った。時折、大郎の咳が響いた。
蘇我石川麻呂が巻物を抱え、議場に入り大郎の脇に立った。彼はこの会議で大王に上表文を読み上げる役目を担っていた。
石川麻呂は会議が始まる前から、緊張していた。顔は紅潮し、汗が大量に流れている。
(石川麻呂はどうしたのだ。様子がおかしい)
大郎は隣で震えている、いとこの様子をうかがった。しかし激しい咳に、思考は止まってしまった。
式が始まるという合図が鳴らされた。
大郎はまっすぐに前を向いた。御簾をはさんで正面にいる大王を見つめた。
彼女は大きな扇を顔の前に掲げていた。扇がゆらゆらと揺れる。
(いや。手が震えているのか。なぜ、あんなに手が震える)
大郎ははっきりしない頭で考えを巡らせた。
そして、御簾の中に中大兄がいないことに、ようやく気が付いた。直系の皇子は、大王の後ろに控える事になっている。
会議が始める時になっても、三国の使者は入って来ない。
(やはり、おかしい)
大郎はもう一度、そこに考えが至った。
皇族の席に列席していた古人も、不穏な空気を感じた。不安そうにきょろきょろと周囲を見渡した。
大郎は隣にいる白虎に視線を向けた。白虎はしきりに顔を動かし、天に向かって吠える動作を何回もしていた。
大郎は、ようやく、白虎がせわしなく動いている事に気が付いた。
石川麻呂がようやく動き出した。震える手で巻物を持ち、顔の前に掲げた。
次に口上を述べるはずであったが、なかなか言葉が出てこなかった。
「蘇我石川麻呂。どうした」
大郎が問いかける。
「大王の御前にて、緊張しているだけでございます」
石川麻呂は震える声で答えた。
その瞬間。朝廷内に怒号が響いた。
入り口から剣を振りかざした中大兄。その後ろから鎌足。
二人は大郎に向かって、まっすぐに走って来た。
目は血走り、大郎だけを射程に収めている。
「蘇我大郎鞍作。覚悟しろ!」
中大兄が叫んだ。
(俺を殺そうというのか)
大郎は一瞬で理解した。
この儀式は計画された芝居である事。石川麻呂も皇極も、この場に集まった群臣も、大郎の剣を奪った門番も、皆、中大兄と鎌足に従っている事。
そして、剣を奪われ、思う様に体が動かない自分は、中大兄の剣からは逃れられないという事も。
大郎は白虎を抱擁した。
「きらら。ありがとう。俺は幸せだった」
大郎は死ぬ時は、この世に恨みや後悔を残さないと誓っていた。
白虎のため、そして、次に白虎の主となる者のために。
しかし、この言葉は心から出た言葉だった。死を前にして、真っ先に思い浮かんだ言葉であった。
大郎は中大兄達に、背中を向けていた。中大兄は大郎の背中に、思い切り剣を振り下ろした。
大郎はその場に倒れ込んだ。傷から、大量に血液が流れた。
「大郎!」
古人が大郎の元に駆け付けようとした時、石川麻呂によって抱えられた。
「大王!」
中大兄が剣を掲げたまま、御簾の向こうの母親を呼んだ。
「この、蘇我大郎鞍作は飛鳥を我が物にしようとしています。大王をないがしろにするその所業。許すわけにはいかぬ」
中大兄は唾液を飛ばしながら、叫んだ。
そして、もう一太刀、大郎に浴びせた。
大郎は痛みを感じなくなった。意識が薄れていく。
大郎は這って、白虎の前に行き、白虎の瞳を見つめた。大郎の目が、白く光った。
「きらら。俺を、加夜の、元へ。最期に、加夜に。一目、加夜に……」
主の命令を、四神はしっかりと聞き取った。
大郎は最期の力をふり絞って、白虎の背中に乗った。
白虎は軽やかに宙に飛び上がった。
大郎が宙に浮かんだ。
白虎の見えない者にとっては、大郎が一人で浮かんでいるようにしか見えなかった。
白虎は風のように宙を駆け、あっという間に、板蓋宮を後にした。
場内は大混乱に陥った。
悲鳴を上げて逃げまどう者。経を唱え、土下座をする者。腰を抜かし、言葉を失う者。
女帝はその場に倒れた。付き人に抱えられて、退室した。
中大兄と鎌足も、自分たちの目が信じられなかった。声は喉でつまり、全身は縄で縛られたように、動けなくなった。
蘇我大郎鞍作の体は消え、跡には大量に血液が残るだけだった。
「怨念だ。蘇我大郎の怨念だ。祟られるぞーー!」
一人の群臣の、大きな声が響いた。
皆の視線が、中大兄と鎌足に集中した。
「や、奴は、人ではなかったのだ。
私たちが成敗した。これで、平和な飛鳥がやって来るのだ」
咄嗟に、鎌足が叫んだが、納得する者はいなかった。
板蓋宮の混乱は、治まることがなかった。
古人は、家に駆けこんだ。体がガタガタと震えた。
大郎を失った悲しみと、怒り。感情を抑えることはできなかった。
「大郎を、本当に大郎を殺すとは! 中大兄め。もう、弟とは思わぬ。
韓人め。大郎を殺してまで、そこまで、百済に肩入れするのか!」
古人の叫びは、家中に響いていた。それを聞いた使用人たちが、あちこちで言いふらした。
韓人とはだれを指すのか。
一件は鎌足の耳にも入ってきた。
(俺の事を言っているのか! なぜ、秘密を知っている!
消さなければ。俺の秘密を知っているのであれば、早々に殺さなければならぬ)
事件から、3日。古人は中大兄の差し向けた刺客によって、殺された。
甘樫丘に立つ、物部雄君。しとしとと降りしきる雨の中。ずぶぬれになりながら蘇我の邸宅を見下ろす場所に立っていた。
その日、朱雀は落ち着きなく羽を動かしていた。
突然、動きが激しくなった。バタバタを激しく羽を動かした。顔を上に向け、口を大きく開けた。天に向かって、聞こえない声をあげているのだ。
雄君も朱雀の見ている宙を扇いだ。
畝傍山に向かって、白い光の道ができた。
白虎が光の上を歩いてきた。
それだけで、雄君には、何が起きたのか理解した。
「蘇我大郎。死んだか。
いくらお前を憎く思っても、同じ四神の主を殺す事は、俺にはできなかった。
しかし、お前が消えた今、俺は、蘇我を滅ぼす。
これで、俺の恨みに、決着がつけられる」
雄君はカッと目を見開き、朱雀と視線を合わせた。雄君の赤い瞳の命令に従い、朱雀は炎を吐き出した。
大郎が魂込めて作った、甘樫の家は、あっという間に炎に包まれた。
普通の火事とは違った。中にいた人は、逃げる事もできなかった。
蘇我毛人、焼死。
蘇我本家は滅びた。
白虎はゆっくりと道の上を歩いていた。いつもの軽やかな動きとは違う。
「あいつは、畝傍に帰りたくないのか。蘇我大郎は、この世に未練があると見える」
突然。白虎が立ち止まった。そして、今来た道を、振り返った。
雄君は帰って行く四神が、途中で立ち止まるなど、見たことがなかった。雄君の必死で立っていた足は、力が抜け、どすんと座り込んだ。それでも白虎からは目を離さなかった。
しばらく、後ろを向いたまま、動かなかった白虎。
突然、白い光の道が消えた。すると、白虎は軽やかに飛鳥の空を走り出した。まるで光の道に縛られていた呪縛が解けたように、白虎は自由だった。
白虎は今来た道を、駆けて行った。
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