第4話 斑鳩の火

 舒明の皇后、宝皇女が大王に即位した。

 皇極こうぎょくの大王。2人目の女帝であった。


 皇極2年。飛鳥板蓋宮に遷都された。


 初秋の風が耳成山から渡って来る。大郎は甘樫丘あまかしのおかの頂に立っていた。

 小高い丘の上から、耳成山を遠くに望む。左手には難波に続く道。そして、後ろには飛鳥板蓋宮がある。

 飛鳥川が南から流れて来る。ゆっくりと、流れを目で追う。上流は木々に隠れてしまっている。ここからは見る事はできない、加夜奈留美命神社を思った。

「きらら。やはり、ここがいい。飛鳥を守るためには、ここに城砦を築くべきだ。

 飛鳥に攻め入って来るには、この下を通らなければならない。それに難波からの道もここからならば、一望できる。

 それに、板蓋宮もここから見張る事ができる。

 絶好の場所だ」

大郎と白虎は甘樫から飛鳥の景色を、ぐるっと見渡した。


 大郎は甘樫に蘇我の家を建てることに決めた。

 生活をするための家ではない。戦うための家である。飛鳥を守るための、城砦の機能を持った建物。

 丁未の戦で見てきた、稲城の砦。旻や玄理から聞いた、扶余の要塞。

 すべてを参考にして、鉄壁の守りを築く。

「でも、そのためには、山背に協力してもらいたい事があるのだ。

 でも、山背にはしばらく会っていないし。

 なぁ、きらら。どうすればいいだろうか」

大郎は、斑鳩の方角を見ながら、腕を組んだ。

 

 ふわっと、秋の冷たい風が、大郎の頬を撫でていった。

「そのうちに、斑鳩まで行ってこよう。なっ。きらら」

大郎は明るく笑った。

 そして、大郎は加夜奈留美命神社の方を見ながら、強く心に誓った。


 丘を降りたところで、大郎は山背の後姿を見つけた。

 あまりの偶然に、大郎の心臓はドクドクと音をたてた。

「山背」

大郎は大きな声で呼んだ。山背は聞き覚えのある声に反応したが、歩みを止める事はなかった。

 大郎は慌てて駆け出し、山背に追いついた。

「久しぶりだな。上宮に行くのか?」

大郎の声ははずんでいた。

「ああ」

山背の返事はそっけない。

「仕事以外で会うのは、えっと、刀自古の叔母上が亡くなった時以来か」

「そうだな」

なかなか、会話は続かない。

 大郎は話の回り道はせず、話の本題に入ることにした。


「山背。頼みがある。協力して欲しいことがあるのだ」

突然、大郎の声が変わった。山背は立ち止まり、やっと大郎の顔を見た。

「俺は、この甘樫丘に蘇我の家を建てようと思っている。城砦の機能を持った、守りのための家だ。

 以前、蝦夷が飛鳥に攻め込もうとした時があっただろう。あの時、守りの拠点を築けずにいたではないか。

 飛鳥を守るためには、城塞が必要だ」

「……」

山背は大郎の顔をまじまじと見つめた。大郎も山背の瞳をまっすぐに見つめた。

「それで、頼みというのは、斑鳩の家を見せてほしいのだ。

 斑鳩の屋敷は厩戸様が設計に関わったのだろう。からくりや、罠が仕掛けてあると聞いたことがある。

 さらには、家の造りも頑丈にできているそうだし、その秘訣を知りたいのだ」

山背は軽く首を左右に振った。

「……。 大郎。お前は、なぜ、そんなに守り、守りとこだわるのだ。

 蘇我の繁栄だけを願う、馬子殿や毛人殿とは違う。

 大王でもそこまで考えていた者はいないだろう。

 正直、大王を狙っていた者のほとんどは、権力を欲するだけだ。

 宝皇女など、子供のために大王になったのだから、話にならない」

「俺は、俺は飛鳥が安泰で平和であれば、それでいいのだ」

「だから、なぜ。なぜ、それほどまでに、飛鳥の平和をいうのか」


 大郎は初めて、山背から視線を逸らせた。しかし、すぐに視線をまっすぐに戻した。

「正直に言おう。

 俺は、この飛鳥に、守りたい人がいるのだ。俺の命に代えても、守るべき人。

 その人のために、平和な飛鳥を作りたい。それだけだ」

「なっ」

山背は目を、丸くした。そして、何度も瞬きをした。

「なんと。大郎がそのような事を言うとは、思ってもみなかった。

 妻の所にも通わず、子供も作らない。

 そんなお前から、そんな言葉が聞かれるとは」

「おい。俺は、女性に興味がないわけではないぞ。俺にだって、愛する人はいる。それは彼女一人だけなのだ。

 しかし、その人とは結婚できない。それだけだ」

「お前。まさか、人の妻に……」

「何を言う! 俺は人の道に外れるような事はしない!」

大郎の必死な顔に、山背は思わず噴き出した。大郎もそれにつられ、笑いだした。

 二人はしばらくの間、愉快そうに笑っていた。

(久しぶりに笑えた。山背と、一緒に)

そう思うと、なかなか笑いを止められなかった。


「お前にそこまで言わせる人とは、どんな人なのだ。

 いつか、会わせてくれ」

山背の言葉に、大郎は寂しそうに笑った。

「そうだな。いつか。俺も、お前に紹介したいよ」

決してかなわぬ願いであるが、大郎は本当に山背に会ってほしいとさえ思っていた。


「こんな理由かと、お前は呆れたかもしれないが。でも、俺は真剣だ。

 だから、頼む。協力してくれ」

大郎は改めて、頭をさげた。

 山背は大きなため息をついた。そして、頭をあげた大郎にまっすぐに目を向けた。

「お前は、古人が大王になればいいと、思っているのだろう」

山背はずっと、心に抱えていた、もやもやを口にした。

「いや。俺は、俺と政策を共にしてくれる者が大王になってくれればいいと、思っている。

 正直に言おう。俺にとっては山背、お前でも、古人でも、変わりはないのだ。

 俺と共に飛鳥を守ってくれる大王であれば、誰でもいいのだ」

山背の顔が赤く染まった。

「すまない。あまりに自分勝手な言い分だった」

目を伏せて謝った大郎を、じっと見つめた。

「お前は、俺を前にして、よくもそう、ずけずけと言えたものだ」

そういった山背は、笑っていた。

「お前と話していると、つくづく自分が了見の狭い男に思える。

 お前は、本当に飛鳥の事を思っているのだな。

俺は父上がなれなかった大王になる事で、父上より優れていると、自分で思いたかったのだ。飛鳥の事など、二の次だったかもしれん。

 まぁ、俺が大王になる可能性はほとんど消えてしまったがな」

「大王にならなくても、お前が優れた人間である事は皆が知っている。

 それに、厩戸様だって、大王になれなかったのではない。自らが望まなかったのだ」

「お前は、そうやって父上の事を理解したように話していただろう」

「いや。すまない」

大郎は即座に謝った。

「いや。俺が父上を理解していなかったは事実だ。今になると、わかるのだ。

 それに、父上は大郎をかわいがる、実の子である、俺よりもずっと。それが悔しかったのだ。お前を憎く思った事すらある」

山背は大郎をじっと見ていたが、その瞳に非難めいたものは何もなかった。

「俺は、駄々をこねる子供だったのだ。他を責めるだけで、自分を変えようと思わなかった。

 いつも父上から、注意されていたことだ」

山背は首にかけられた勾玉の首飾りにそっと触れた。

 父、厩戸からもらった首飾り。父親代わりに、ずっと身に着けていて、外した事はなかった。

「俺は、宝皇女の事も、責められない。同じだ」

「俺だって、そうだ。

俺は加夜の事が一番大切なのだ。

 飛鳥のためかと問われれば、加夜のためだと、俺は答えるだろう」

「そうか。お前の愛しい人は、加夜というのか……」


山背は優しく笑った。山背の微笑みは、これまで見たことがないほど、穏やかだった。

(山背のこの笑顔は、一生忘れられない気がする)

大郎は、山背の笑顔が、胸に焼き付るように、じっと見つめていた。


「大郎。

 俺でよければ、協力させてくれ。

 ぜひ、斑鳩の屋敷に来てくれ。

 父上の建てた屋敷はすごいぞ。きっと、お前の役に立つ」

山背は握手を求めた。大郎は伸ばしてきた山背の手を、両手で握った。

 数年に及んだ、二人のわだかまりは、今、氷解した。


「父上。俺は、明日から2、3日、飛鳥を離れます」

大郎は夕食を食べながら毛人に話しかけた。毛人は浮かれた様子で話しかけてきた大郎を、じっと見つめた。

 大郎は特に垂目が亡くなってから、家で笑う事が少なくなり、いつも張りつめたような、切羽詰まった顔をしていた。

 久しぶりに生き生きした表情をしている、我が子の顔だった。

「どこへ行くのだ」

「斑鳩に」

「山背王の所か」

「はい」

毛人は額に指をぐりぐりと押し当てた。

「何か、ありますか」

毛人の思案顔が気になった。

「お前は聞いていないか」

「何をですか」


「お前は、全く気が付いていないのか。

 飛鳥を仕切るならば、様々に情報を手にしておかなくてはならない。

 言ってあるだろう。イヌを持てと」

「はい。すみません。色々と忙しかったもので。

 しかし、相手の事など、どうでもいいのではないでしょうか。自分のやることを、しっかりとやっていればいいのかと思いますが」

「それが甘いと言うのだ。政には駆け引きも重要なのだ」

毛人は鋭い目つきで、大郎を見上げた。

「その、イヌの報告だ。中大兄皇子が山背王を殺そうとしている」

「なに? どういう事だ。山背を? なぜ」

大郎は、茶碗を落とした。

「山背王が大王の座を、諦めないからだ。そして、厩戸様への崇拝は、今だ飛鳥の民に残っている。

 そのお子であるというだけで、中大兄様には邪魔な存在なのだ」

「山背は、もう大王には、固執していません」

「中大兄様はそうは思っていない。

 自分が大王になるためには、表でも裏でも対策を講じているのだ。少しでも可能性のある者は容赦しない」

大郎は歯をギリギリとかみしめた。

「それは、鎌足だ。鎌足の策略です」

「誰でもいい。

 今、斑鳩に行くのは危険だ。いらぬ火の粉を浴びるかもしれぬ」

「どういうことですか」


「中大兄様は斑鳩に、巨勢徳太こせのとこたを、向かわせた。

 徳太は、我が蘇我家につかえていたにも関わらず、今は中大兄様の保護の元に、働いているのだ」

「徳太が?」

「そうだ。お前はそれすら気が付いていなかったのか」

毛人は深いため息をついた

「中大兄は、徳太らに、山背王の暗殺を命令したのだ」

「!」

大郎は夕食をひっくり返して、外に飛び出した。

「待て!」

毛人は後を追いかけたが、若く体力のある大郎には、追いつく事もできなかった。


「誰か。大郎を止めろ」

毛人が叫んだ。門番に捕まえられるまで、大郎は我を忘れて走っていた。

「離せ。

 なぜ、黙っていたのだ。山背を見殺しにするつもりか!」

大郎は鬼の様な目をして、毛人を睨んだ。

「中大兄にとって、一番邪魔なのは、我が蘇我なのだ。

 今、斑鳩に行けば、私たちまで殺られてしまうだろう。

 それに、私がその報告を聞いたのは、つい一刻ほど前の事だ。徳太達はもう斑鳩に向かっている。

 今から行っても、間に合わない」

「うるさい。

 山背は、俺を歓迎してくれると言ったのだ。ようやく、山背と話しができるのだ。

 俺の幼き頃からの友だ。こんな風に、山背を失うわけにはいかぬ!」

大郎は門番の手を、乱暴にねじ上げると、その隙をぬって馬小屋に走った。そしてあっという間に馬を連れ出した。

 大郎は疾風のごとく、嶋の家を後にした。

 毛人は諦めて、家に戻った。そしてイヌを呼び、大郎を追いかけるよう命令した。

「もう間に合わないというのに。

 徳太達が飛鳥を出たのはもう、朝の事だ。すでに斑鳩に着いているであろう。

 第一、これから日が暮れる。灯りも持たずに、斑鳩まで行けるわけがない」


 大郎は必死で馬を走らせた。しかし、徐々に暗くなり、夜が更けていく。先が見えない。

(夜に馬を走らせるなど、考えなしだった)

大郎はようやく気が付いた。

 大郎は馬を降りた。そして、馬の尻を叩いた。馬は暗闇の中を、ゆっくりと駆け出した。動物には帰省本能がある。蘇我の家まで、帰られるだろう。


「きらら。俺を、斑鳩まで連れて行ってくれ」

大郎は白虎の目を見ながらさけんだ。白虎は白く光り、その場にかがんだ。大郎は軽やかに白虎の背に乗り、首元にしっかりと捕まった。

「急いでくれ」

白虎は風の様に宙を駆け抜けた。


 斑鳩が近づいてきたと思われた。

 その斑鳩から、炎があがっている。非常に大きな炎は、辺りを昼間の様に照らす。黒煙は天まで届きそうな勢い。

「まさか。あそこは、山背の、厩戸様の屋敷」

斑鳩にあれほど大きな炎で燃える建物は、上宮家の屋敷しかないはずだった。

 燃えているのはそれだと、大郎は確信した。

 大郎は白虎の毛を、引きちぎらんばかりに強く握った。

 大郎の額に汗が流れた。全身がガタガタと震える。


「朱雀!」

火事の現場近くに、朱雀の姿を見つけた。

「雄君様! まさか、朱雀が火をつけたのか!」


 白虎は燃え盛る家の前に降り立った。

 大郎の白い瞳は、元の色に戻った。それと同時に、体の力が抜け、膝から崩れ落ちた。

 炎を前にして、大郎は全く動く事ができなくなった。

 丁未の戦で焼かれる人を見た事、そして自分自身が、雄君の朱雀に焼き殺されそうになった事が、深い心の傷となっていた。


「山背ぉぉぉ!」

それでも大郎は、声の限りに友の名を呼んだ。

 しかし、その声は、炎の勢いにかき消された。


 大郎はふらふらと歩き出した。

「山背。どこだ。どこにいる……」

 足に力が入らず、体が思うように動かない。


「大郎様……。 どうしてここに?」

大郎は急に呼び止められ、振り返った。

「徳太」

蘇我を裏切って、中大兄についた巨勢徳太だった。

「徳太!

 山背は、山背はどうした。逃げ出せたのか?」

大郎は徳太の腕に指が食い込むほどに握りしめた。

 徳太は首を左右に振り、視線を炎に包まれた屋敷に向けた。

「中に、いるのか? まだ、屋敷に!」

大郎はガバッと、立ち上がり、何のためらいもなく、炎の中に駆け込もうとした。

 炎への恐怖は、友への思いで打ち破った。


「危ない!」

徳太に腕をつかまれ、引き戻された。

 その瞬間。轟音をたてて、屋敷が崩れ落ちた。辺り一帯に、火の粉が舞い上がる。

 炎の帯が、天に吸い込まれるように舞い上がった。


「徳太。お前が、炎を?」

「いえ、いえ。火をかけたのは私達ではありません。

 あ、あの、でも、その……」

「わかっている。

 お前が蘇我を裏切ったことは。山背を殺しに来たのも知っている!」

「いや、しかし、我々が付いてすぐ、火事が起きたのです。

 本当にあっという間に、炎は広がりました。尋常の速さではありませんでした」

徳太は必死に訴えた。


「雄君様は?」

「はっ?」

徳太は聞き直した。

「物部雄君だ! 雄君はどこに行った?」

「えっ。なぜ雄君様がおられることを?」

「そんな事は、どうでもいい!

 雄君はどこにいるのだ?」

大郎の鬼のような形相に、徳太はひるんだ。震えがきた程だった。

「お、雄君様は、私たちを見ると、逃げるようにしてどこかに行ってしまいましたので、どこにいるのかは、わかり……」

大郎は徳太の言葉を最後まで聞かずに駆け出した。


「炎の西側にいたはず……」

大郎は重い体を引きずるようにして、雄君を探した。

 建物の反対側まで来た時、朱雀の姿を見つけた。そして、雄君。

 朱雀の隣で、地面に座っていた。

「雄君、様」

大郎の声は震えていた。

 雄君は肩を上下させながら、ゆっくりと顔を大郎に向けた。落ちくぼんだ目とこけた頬。病にかかっているかと思うほどの顔貌だった。

「あ、あなたなのですか? この火は」

「……。 だとしたら、どうする。俺を殺すか。

 今なら殺れるぞ。俺は力を使い果たしている」

「なぜ、山背を」

「上宮家を襲うと、そう聞いた」

「鎌足から?」

大郎の問いに、雄君は答えなかった。

 

 物憂げに地面を見つめていた雄君は、ゆっくりと口を開いた。

「俺は、苦しかった。物心ついた時から、いつでもイライラしていた。

 恨みの感情と知っても、何もできなかった。

 そして、それが上宮家と蘇我家に向けられている感情なのだと知っても、どうにもならない」

「雄君様。その感情は、朱雀に宿ったものです。あなたの前の朱雀の主、物部守屋様が、死の間際に抱いた恨みの感情。

 それを朱雀が抱え、そして、次の主である雄君様が受け継がれてしまったのです」

雄君は地面を見つめたまま、動きが止まった。全身が凍り付いたように、固まってしまった。

「意味がわからん。

 俺が経験したわけでもない事を、なぜ俺が胸に抱えなければならないのだ。

 吐き気を催すような、なにか石を飲み込んでいるような苦しさが、いつも胸にあるのだ。

 この苦しさが、お前にわかるか」


「しかし雄君様は、蝦夷の軍を、私と一緒に打ち破ってくださったではないですか。

 そして、飛鳥を守ってくださったはず。

 どうして、朱雀を正しい道に導いてくださらないのか」

「だから、言ったであろう。飛鳥を守るために蝦夷を追い払ったのではないと。

 俺は、河内を守りたかったのだ。

 しかし、それも、朱雀の記憶によるものなのか。朱雀が河内に、特別な思いを抱いていたのかもしれないな。

 結局、俺は、この鳥に振り回された人生を、送るのだ。俺にはどうしようもない事なのだ」

投げやりに言い放った。


「そればかりではないでしょう。

 確かに朱雀の抱いた恨みは、雄君様には関係ない事だったかもしれません。

 しかし、玄武だって、勝海様の後悔の念を抱えていたのです。

 幼い垂目は、いつも玄武を怖がっていました。玄武の気持ちに影響されていたのでしょう。

 それでも、垂目はまっすぐに玄武と向かい合いました。ゲンと名をつけ、玄武と心を通わせようとしました。

 そして、俺を助けるために、勝海様に封印された、本来の玄武を呼び出したのです。

 どうしようもないとか、そんな言葉で逃げるな!」


 雄君は下を向いたまま、何の感情も示さなかった。

 大郎は雄君を睨み、拳を震わせながら言った。

「今更だ。今更こんなことを言っても、遅いのだ。

 同じ四神の主。語り合えば、きっと分かり合えた。

 厩戸様はあなたとの会話を望んでおられた。しかし、それがかなわなかったと、ひどく後悔されていたのだ。

 俺も、俺も逃げていたのかもしれない。逃げずに、もっと、話を……」

大郎の目から涙がこぼれ落ちてきた。

 

 雄君は黙って、踵をかえした。

 そして大郎の前から去って行った。

 大郎は追いかける気にはなれなかった。何も言わず、雄君の背中を見ていた。

 

 雄君は歩きながら、考えた。

「上宮家を滅ぼしても、俺の心は、少しも晴れない。

 もう一つの蘇我への恨みが、あるからかもしれない」

雄君に大郎の心は、届かなかった。


 斑鳩に朝陽がさしてきた。

 大郎は煙が立ち上る中で、山背を探した。

 焼け焦げた臭いと、熱気と煙が大郎を包む。

 煙でゴホゴホと咳込んだ。目にも強い刺激が与えられ、涙がにじんだ。


 焼けた木材は、まだ熱を帯びている。大郎の手のひらは皮がむけた。全身火傷を負いながら、捜索を続けた。

 そして、とうとう、山背を見つけることができた。

 焼け焦げた遺体には、濃緑の勾玉の首飾りがかけられていた。

「父上自ら、俺の首にかけて下さったのだ」

山背が自慢していた言葉を思い出した。

 涙が滂沱としてあふれ落ちてきた。しばらくの間、大郎の嗚咽が斑鳩に響いていた。


 上宮家一族の遺体は、一か所に固まっていた。炎に囲まれ、逃げ場を失った人々が集まったのだろう。

 遺体の塊の中心には子供たちがいた。その周りに大人の遺体が倒れていた。子供たちを、皆でかばっていた。

 大郎は一人一人を丁寧に弔った。焼けた遺体を、放置する事はできなかった。


 すべてが終わった時、大郎は、その場に倒れ込んだ。呼吸をする力しか、残っていなかった。


 その大郎を見つけたのは、毛人のイヌだった。大郎は全く起きる気配を見せなかった。

 イヌは飛鳥までの長い道のりを、大きな大郎を背負って帰って来た。

 大郎は毛人の怒鳴り声で目が覚めた。自分の部屋で横になる事に気が付く。

「勝手な事をしおって! 私のいう事をきかないから、このような事になるのだ」

大郎は布団から起き上がれなかった。横になったまま、毛人に話しかけた。

「この様な、事とは?」

「お前が、上宮家一族を殺した事になっている!」

「えっ? なぜ!」

大郎は起き上がろうとしたが、全身の激痛で、そのまま横たわってしまった。

「お前が斑鳩にいたと、徳太達が吹聴している。それは事実だ。

 そして、お前と山背の不仲は、朝廷中の評判だ。

 蘇我に従わない山背を、一族もろとも、焼き殺したと。信じる者も出始めているのだ」

「お、俺達は、仲たがいなど……。

 しかし、和解したのだ。握手をして、昔のそのままの、山背で」

大郎は肩を震わせた。

「だから、軽々しい事はするなと、言ったであろう」

毛人はこめかみをさすった。


 疲れたように、深いため息をついた毛人。しわが増え、頭もほぼ白くなってきている。

(年を、とった)

大郎は久しぶりに、父親を見たように思った。

「父上。すみませんでした。

 心配ばかり、かけてしまって」

大郎は横になったまま言った。

「どうした。お前がその様な事を言うとは。どこかに頭でもぶったのか?」

「失礼な。

 本当に、そう思ったのです。俺は、いつも心配ばかりかけてしまっている。申し訳なく思っています」

毛人は小さな咳ばらいをした。そして苦笑いをしながら、横たわる大郎の脇に、どしっと腰をおろした。


「大郎。

 お前は昔から変わっていた。いつも心配させられた。

 誰かに話しかけているかの様な、大きな独り言を言う。幻でも見えているのか、病気なのかと。

 真っ暗になるまで、帰ってこない事もしばしばあった。神隠しかと、騒ぎになったこともあったな。

 そして、今回もそうだ。斑鳩まで、ほんのわずかな時間で着いたらしいではないか。馬はその夜のうちに帰って来た。どうやって、いったのだ」

大郎は隣にいる白虎に視線を向け、黙り込んだ。

 しばらく毛人も無言で大郎の顔を見つめた。


「そんなに、警戒した顔をしなくていい。言えないのなら、言わなくてもいい。

 蘇我の一族には、時に不思議な力を持つ物が産まれるのだ。

 大郎。お前は、そうなのだろう。

 厩戸様が亡くなった時だ。私が確信したのは。

 あの時、庭にいて、厩戸様が亡くなったことなど、わかるはずもなかった。それなのに、お前は、はっきりと確信していたのだ。厩戸様が亡くなったことを」

毛人は大郎の瞳を覗き込んだ。

「お前のけがや病気は、そのためなのか。これまでに、普通では考えられないけがをしてきた。

 その力ゆえに、負った傷なのか」

「いや。そうではない。

 俺は、助けてもらっている。命も救ってもらった。

 きら、いや、この力がなかったら、俺はすでに死んでいたかもしれない」

大郎は、父にはもう隠す必要はないと思った。


「その力は、蘇我のために使えるものではないのか」

「いや。これは飛鳥のための力だ」

大郎は白虎を見つめたまま言った。

大郎の揺るぎのない言い方に、毛人は「そうか」と、言っただけだった。



 








 




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