第2話 大郎の真意
舒明12年。
遣唐使が帰国してきた。
その中には遣隋使として小野妹子や旻と共に大陸に渡り、30年を過ごした
大郎は旻から、紹介を受けた。
原理は50歳を過ぎている。深いしわとこけた頬。大陸での生活と、海の旅が過酷であったと、推測できる。
玄理は穏やかな口調で話しかけてくれる。そして大郎の問いかけに、真摯に答えてくれるのだった。
玄理の話に、大郎は衝撃を受けていた。特に唐の勢力拡大は想像以上だった。
西方、北方にまで勢力を伸ばしている。その勢力はますます大きくなっていたのだ。
さらには
飛鳥は夏を迎えた。
今年の夏は日照りが続いていた。
ここ数年、少雨が続いている。飛鳥の水不足は深刻な問題になっていた。
この年も、雨が少なかった。梅雨の季節も、まとまった雨は降らなかった。
夏になり、日照りがつづくようになる。耐えがたい暑さが加わり、作物は全滅の危機に瀕した。
水を巡って、争いが起こるようになった。川上の田んぼを持つ者が、飛鳥川の流れを変えてしまい、自分たちの田んぼに、より多くの水が流れ込むように操作したのだ。ただでさえ水量の少なくなっている川。川下に流れる水が、極端に少なくなってしまった。田んぼには、ひび割れができてきた。
こういった争いは、各地で起きた。当事者だけでは収集がつかなくなった。朝廷が仲裁に当たる事態にまでなってしまった。
その日の朝議では、水問題が討議された。
当事者同士の議論ではお互い譲ることはなかった。徐々にけんか腰となり、声が大きくなっていった。
「私にひとつ提案があります」
大郎が大きな声で、言い争いを遮った。
「この飛鳥の田は、全て大王のものにするのです。
これから耕すものも、今ある田も、全て徴収します」
議場は水を打ったように静まりかえった。
一人の豪族が、震えながら大きな声をあげた。
「わ、我が田を徴収するだと。何を言っておる。これまで精魂込めてつくった田じゃ。持っていかれては生活していけぬ!」
「どうせ、蘇我は特別なのだろう。冠位もつけず、一番頂上にいる一族。蘇我は自分たちの田をしっかり抱えるつもりなのであろう」
これらの発言を機に、一気に怒号が飛び交った。
「蘇我も、例外ではありません。
本来、土地、川、山など飛鳥の地は全て大王のものなのです。
ですから田の作付けも、収穫も、水の管理もすべて朝廷で行います。収穫されたものは年貢として納め、そして米は民に平等に分配すればいいのです」
議場はざわめいた。
毛人が大郎の腕をつかんだ。
「お前は、何を言っている。蘇我の土地を手放すなど、できるわけがなかろう」
毛人は小声ながら、厳しい声で叱責した。
蘇我家は、飛鳥で一番の土地を抱えている。それを失ったら、大きな損害になる。
毛人は大郎の前に立ちはだかった。
「静かに。
その様に大きな問題は、すぐに結論の出るものではない。
とにかく、今、早急に決めなくてはならないのは水の問題である。
それに関しては、今の提案を採用する。
水は朝廷が管理する。川上も川下も、水が平等に行き渡るようにする。
水管理については、専属の部署を設ける事とする。それが決まるまでは、蘇我大郎鞍作。お前に水管理を任せる。言い出したのはお前だ。しっかりその役を全うせよ」
大郎は礼節にのっとって、礼をした。
「水の管理は、朝廷が行う事とする」
毛人が結論を出した。蘇我の大臣の言葉に逆らえる者はいない。一同は礼をもって賛同の意を示した。
「次の議題」
進行役が声を張り上げた。
「百済からの援軍の要請がきております」
再び、議場がざわざわとした声に包まれた。飛鳥は緊迫した外交問題を抱えていたのだ。
帰国した遣唐使から、諸外国の詳しい情勢が入っていていた。大郎はじめ、主だった豪族の大きな懸念であった。
進行役は議事を読み上げた。
「新羅が、非常に劣勢になっておりました。しかし、新羅は唐との同盟を模索しています。唐と組まれては、百済は太刀打ちできません。
大和からの力を借りて、今のうちに新羅をつぶしておきたいようです」
「百済へ援軍を送るべきです」
真っ先に大きな声をあげたのは、16歳の中大兄皇子だった。
「当然です。百済は古き時代から、大和の友でした。仏教も百済よりもたらされたもの。百済なくして大和の繁栄はあり得ませんでした。
百済が滅びれば、結局次に狙われるのは大和です。
早く、援軍を送りましょう」
「16の皇子が自身で考えた案とは思えぬな」
毛人が大郎に耳打ちをした。
「おそらく、中臣鎌足でしょう」
大郎は鎌足と中大兄が、南淵請安の塾に通っているのを知っていた。
請安は旻と共に隋に渡った遣隋使の一人で、玄理と共に帰国していた。約30年にわたって、大陸に滞在し、隋から唐への変遷を目にしていた。
鎌足と中大兄は塾で知識と親交を深めていた。そしておそらく、中大兄は鎌足の意見に感化されているものと思われた。
百済を再興させたいと願う鎌足。
彼は朝儀に参列できる身分ではない。中大兄を使って、持論を朝廷に広めようとしているのではないか。
大郎は一抹の不安を覚えた。
「大和が三国の争いに加わる必要はない」
大郎は大きな声をあげ、中大兄に反論した。
中大兄はまだ若い。一目でイライラしているとわかる表情で、大郎に食ってかかった。
「それでは蘇我大郎鞍作様は、どの国と手を結ぶべきとお考えなのですか」
「私はどの国とも組しない、等距離外交をすべきと考えております。
三国とは同じ距離で、同じ条件で交流し、その背後に迫っている唐の脅威に備えるべきです。
三国よりも、唐に重点を置いて、物事を進めるべきかと」
「なんと、消極的な。
我らは積極的に進攻すべきと考える。百済の再建はもちろん、新羅、高句麗とは一戦交える覚悟を持った方が良いのではないか」
再び、場内がざわついた。
大郎は即座に反論した。
「まずは、飛鳥の守りを強固にすべきです。
そのために、一つ提案する。
先ほどの年貢の制度ともつながりますが、飛鳥の民はすべて、朝廷が把握する必要があります。つまり戸籍を作るのです。
戸籍に名のある者には、田を与えます。そして、作物は皆に平等に与えられるようにするのです。
そしてもう一つ。徴兵制度です」
「徴兵? 兵士を集めるというのか」
「はい。戸籍に名のある男子は、全て兵としての義務を全うしてもらいます。
飛鳥を守るためには兵を育てる必要があります。兵士として一定期間訓練を行い、朝廷の命令により、出兵してもらいます」
「その様な事をしたら、田畑はどうするのだ。男手がなければ、作物は作れぬ」
大郎の意見は、突拍子もないことの様に思われた。さっそく反対意見が出された。
「その辺はまだ、議論が必要でしょうが、農繁期は除くなど、対応はできると思います。
私が言いたいのは、とにかく、飛鳥の守りを強固にしなければならないという事です。
兵士だけでなく、防御のためにの建物も必要です。
飛鳥には防御する盾がありません。扶余の様な城砦が必要です。鉄壁な城砦の建設を考えましょう」
「つまりは、蘇我大郎鞍作は、百済の出兵は反対という事ですか」
「もちろんです」
大郎は議場に響き渡る声で答えた。
「わ、私は、蘇我殿の意見に賛成です。
あの、柵封の時もそうでした。柵封を受け取らずとも、唐からはなんの圧力もありませんでいた。
蘇我殿のおっしゃった通りでした。
ここは外交にお詳しい、蘇我殿の意見でよろしいかと」
群臣の一人が意見を述べたのをきっかけに、議論は白熱した。
結局意見はまとまる様相を得なかった。
毛人は頭痛がしてきたらしい。しきりにこめかみをさすっていたが、突然、大声をあげた。
「百済には援軍を派遣しない。
これで今日の朝儀は終了だ」
そして、顔をゆがめながら、退室してしまった。
「百済には援軍を送らないと、決まりました。
これにて、終了いたします」
進行役は毛人の言葉を繰り返した。
議場から人がいなくなった。最後に大郎と古人が残った。
古人と大郎は一緒に朝廷を出た。古人は周囲を気にしながら小声で話した。
「中大兄は百済に肩入れしているのですね。鎌足の影響でしょうか」
「うむ。そうだろうな」
鎌足が百済人で、百済再興を願っている事は大郎と古人しか知らない事だった。
「このまま、ほっておいていいのでしょうか。
中大兄が大王になったら、彼はすぐに百済に援軍を送るでしょう」
古人の言葉に大郎は、深いため息をついた。
「それだけは避けなくてはならない。
飛鳥を戦に巻き込む事だけは、避けなくてはならない」
強い声で言った。
「中大兄はまだ若い。大王になるのはまだ無理であろう」
「そうですね。
大郎。わ、私が大王になったら、三国や唐との争いは避けるようにします」
古人は顔を紅潮させた。
「そうだな。古人。期待しているからな」
大郎は古人の肩をたたいた。
「そうだ。
大郎。あなたには驚かされました」
「何がだ」
大郎は古人の顔を覗き込んで尋ねた。
「先ほどの提案です。
水の管理や田んぼの管理を朝廷に一括する事とか、戸籍の事とか、徴兵制度などです。
あまりに画期的で、私には理解できかねました。
きっと、あの場にいた者のほとんどが、その利点について、理解できていないでしょう」
「ああ、あれか。俺も、一気にまくしたてすぎた。反省しているところだ。
あれは唐や西方の国では行われている事だと、旻師に教わったではないか。
それからずっと考えていたことだ。飛鳥にどうやったら導入できるだろうかと。
突然思いついたものではないが、まだまだ詰めが甘い」
「そんな事はありません。
私にも協力させて下さい」
「もちろんだ。頼りにしている。
飛鳥を守るために、やらなくてはならない事がたくさんあるのだ」
大郎は嶋に帰る道すがら、加夜奈留美命神社に思いをはせた。飛鳥川の上流を見やり、そして白虎に話しかけた。
「俺は、改革を焦りすぎただろうか。
しかし、他国が飛鳥に侵略されたら、どうなる。
異文化の者に大和の信仰など、理解されないであろう。
民が改心させられ、加夜の神社も破壊されたら……」
叩き壊される加夜の社。踏みつぶされる草花。荒らされる飛鳥川。
信仰もなくなり、消えゆく加夜。
大郎の脳裏に生々しく思い浮かぶ。これまで漠然とした不安だったものが、現実味を帯びてくる。
「加夜は、飛鳥と共に永遠に生きるのだ。
しかし、俺には限りある命しかない。いつかは死ぬ。死ねば、加夜を守ることもできないのだ。
俺が加夜のためにできるのは、平和な飛鳥を築くこと。加夜が存在できる世界を残す事。
それが、俺の使命」
大郎は朱雀の炎で、死の淵を彷徨った。その時に、人間の命の儚さを実感した。
大郎にとって飛鳥を守ることは、加夜を守る事だった。
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